第9話 夜の扉
長兄が帰った。
馬車は来た時よりも速く走っていったそうだ。デミウルゴがそう報告した時、声に感情はなかった。ただ「従者の一人は馬車の中で失神していた」と付け加えた。
リーシェは部屋に戻った。ゼルヴァーンの外套はまだ肩にかかっている。大きくて、温かくて、少しだけ木の葉のような匂いがした。
返さなければ。でもまだ、もう少しだけ。
ベッドに腰を下ろした。窓の外は夕暮れだった。二つの月がうっすらと空に浮かんでいる。
◇
夜が来ると、記憶が来た。
わかっていた。こうなることは。長兄の顔を見た瞬間から、抑え込んでいた蓋が緩んでいた。
暗い部屋で目を閉じると、公爵家の記憶が押し寄せてくる。
五歳の頃。はじめて魔力の適性検査を受けた日。父が検査官に結果を聞いた。「魔力の素質は認められません」。父はリーシェを見なかった。そのまま部屋を出ていった。
八歳の頃。兄たちが魔法の稽古をしている庭を、窓から見ていた。入れてもらえなかった。「お前がいると気が散る」と言われた。
十二歳の頃。社交界の集まりで、他の貴族の子供たちが魔法を見せ合っていた。リーシェだけが何もできなかった。「グランハイド家の恥」と囁かれた。父は隣にいたが、何も言わなかった。
十五歳の頃。次兄に廊下で腕を掴まれた。「お前がいなければ、うちの評判はもっとよかったのにな」。笑っていた。冗談のつもりだったのかもしれない。でも腕に痣ができた。
十七歳。馬車。「お前でちょうどよかった」。
記憶が次々と溢れてくる。蓋を開けたら止まらない。
泣いた。
声を殺して泣いた。昔からそうだ。声を出すと「うるさい」と言われた。だから泣く時はいつも、音を立てない。枕に顔を押し当てて、肩を震わせて、声だけを飲み込む。
十七年間、ずっとそうやって泣いてきた。
◇
扉の外に、気配があった。
リーシェは泣きながらも気づいていた。足音はしなかった。ノックもなかった。ただ、気配がある。扉のすぐ向こうに、誰かが立っている。
ゼルヴァーンだとわかった。
他の誰でもない。この気配は、もう覚えた。毎日扉の前に来てくれた人の気配を、体が覚えている。
ゼルヴァーンは何も言わなかった。扉を叩かなかった。「大丈夫か」とも聞かなかった。
ただ、そこにいた。
扉の向こうで、リーシェは泣いている。扉のこちら側で、ゼルヴァーンは立っている。
入れない。
入りたい。扉を開けて、その涙を拭いて、もう泣かなくていいと言いたい。君を泣かせた人間はすべて消してやると言いたい。
でも——入れない。
手を伸ばせない。触れられない。
千年前、手を伸ばした。あの人に触れた。
そして、失った。
触れた瞬間に。
ゼルヴァーンは扉に額を預けた。冷たい木の感触。拳を握りしめた。爪が掌に食い込む。
——また。
また同じだ。あの時と同じように、扉一枚の向こうで大切な人が泣いていて、自分は何もできない。千年前と何も変わっていない。千年経っても、僕は——
扉の向こうで、泣き声が止まった。
静寂。
リーシェの声が聞こえた。掠れた、泣いた後の声。
「……いますか」
ゼルヴァーンは答えなかった。いることがわかっているのに、声が出なかった。
「いるんですよね」
沈黙。
「……いる」
やっと出た声は、自分でも驚くほど細かった。
扉越しの沈黙。二人分の呼吸だけが、静かな廊下に溶けていく。
「入らないんですね」
「……入れない」
「入りたくないんですか」
「違う」
即答だった。自分でも驚くほどの速さで否定が出た。
「入りたい。しかし——」
言葉が途切れた。
リーシェは扉に背をもたれていた。扉の裏側に。同じ扉に、互いの体温を預けていた。木の一枚を挟んで。
「触れられないんですね」
リーシェの声は静かだった。責めていない。問い詰めてもいない。ただ確認するように。
「花瓶を直す時も。勉強会の時も。今日、外套をかけてくれた時も。ずっと——私に触れないようにしている」
ゼルヴァーンは答えなかった。
「怖いんですか」
沈黙。
「……怖い」
千年の魔王の声が、初めて裸になった。虚飾も威厳もない、ただの声。
「触れるのが怖い。理由は——まだ話せない。いつか必ず話す。だから今は」
「いいです」
リーシェが遮った。穏やかに。
「今は聞きません。でも、一つだけ」
「何だ」
「扉の向こうにいてくれて、ありがとうございます」
沈黙。
長い長い沈黙。
ゼルヴァーンの目から、涙が一粒落ちた。声はなかった。ただ一粒、頬を伝って、顎から落ちて、石の床に消えた。
「——どこにも行かない」
掠れた声。
「扉の向こうでもいい。廊下でもいい。この城のどこにいても。僕は、どこにも行かない」
リーシェは扉の裏側で、小さく微笑んだ。涙の跡が頬に残ったまま。
「私もです」
二人は扉を開けなかった。
でもその夜、扉は——世界で最も薄い壁になった。
◇
朝が来た。
リーシェが目を覚ますと、扉の前に本が一冊置いてあった。革装の古い本。表紙に魔族の文字で題名が書かれている。リーシェが昨日覚えた文字で、かろうじて読めた。
「半身」。
本の間に、花が一輪挟まっていた。白い花。庭に咲いた、千年ぶりの花。
栞の代わりに。
リーシェは花を取り出した。本を胸に抱いた。
廊下を見た。誰もいない。でも石の床に、小さな水の跡があった。涙が落ちた跡のような。
——もうとっくに消えているはずの跡が、なぜか残っていた。
その場所から、小さな芽が出ていた。
まだ花にはなっていない。でも確かに、芽吹いていた。
リーシェは微笑んだ。
本を開いた。最初のページ。ゼルヴァーンの字で、隅に一言だけ書き添えてあった。
「読んでほしい。君が何者であるか、僕よりこの本の方がうまく伝えられる」
朝の光が窓から差し込んで、ページを照らした。
リーシェは読み始めた。
お読みいただきありがとうございます。
扉は開きませんでした。
でも、二人の距離は確かに近づきました。
「触れるのが怖い」
その理由は、まだ語られません。
しかし——その恐怖が、どれほど深く、どれほど長いものか。
この先、少しずつ明かしていきます。
次回、第10話。
半身の伝説が開かれます。千年前に、何があったのか。
その最初の欠片が、リーシェの手の中に。
ブックマーク・評価・感想、いつも力をいただいています。
扉の向こうの二人に心を寄せてくださった方、どうかその気持ちを一押しに。




