表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
要らない娘と呼ばれた私を、魔王は千年待っていたそうです ~捨てた公爵家は没落し、私は世界で一番幸せになりました~  作者: 蒼空ルーシェ


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

9/9

第9話 夜の扉

 長兄が帰った。


 馬車は来た時よりも速く走っていったそうだ。デミウルゴがそう報告した時、声に感情はなかった。ただ「従者の一人は馬車の中で失神していた」と付け加えた。


 リーシェは部屋に戻った。ゼルヴァーンの外套はまだ肩にかかっている。大きくて、温かくて、少しだけ木の葉のような匂いがした。


 返さなければ。でもまだ、もう少しだけ。


 ベッドに腰を下ろした。窓の外は夕暮れだった。二つの月がうっすらと空に浮かんでいる。



   ◇



 夜が来ると、記憶が来た。


 わかっていた。こうなることは。長兄の顔を見た瞬間から、抑え込んでいた蓋が緩んでいた。


 暗い部屋で目を閉じると、公爵家の記憶が押し寄せてくる。


 五歳の頃。はじめて魔力の適性検査を受けた日。父が検査官に結果を聞いた。「魔力の素質は認められません」。父はリーシェを見なかった。そのまま部屋を出ていった。


 八歳の頃。兄たちが魔法の稽古をしている庭を、窓から見ていた。入れてもらえなかった。「お前がいると気が散る」と言われた。


 十二歳の頃。社交界の集まりで、他の貴族の子供たちが魔法を見せ合っていた。リーシェだけが何もできなかった。「グランハイド家の恥」と囁かれた。父は隣にいたが、何も言わなかった。


 十五歳の頃。次兄に廊下で腕を掴まれた。「お前がいなければ、うちの評判はもっとよかったのにな」。笑っていた。冗談のつもりだったのかもしれない。でも腕に痣ができた。


 十七歳。馬車。「お前でちょうどよかった」。


 記憶が次々と溢れてくる。蓋を開けたら止まらない。


 泣いた。


 声を殺して泣いた。昔からそうだ。声を出すと「うるさい」と言われた。だから泣く時はいつも、音を立てない。枕に顔を押し当てて、肩を震わせて、声だけを飲み込む。


 十七年間、ずっとそうやって泣いてきた。



   ◇



 扉の外に、気配があった。


 リーシェは泣きながらも気づいていた。足音はしなかった。ノックもなかった。ただ、気配がある。扉のすぐ向こうに、誰かが立っている。


 ゼルヴァーンだとわかった。


 他の誰でもない。この気配は、もう覚えた。毎日扉の前に来てくれた人の気配を、体が覚えている。


 ゼルヴァーンは何も言わなかった。扉を叩かなかった。「大丈夫か」とも聞かなかった。


 ただ、そこにいた。


 扉の向こうで、リーシェは泣いている。扉のこちら側で、ゼルヴァーンは立っている。


 入れない。


 入りたい。扉を開けて、その涙を拭いて、もう泣かなくていいと言いたい。君を泣かせた人間はすべて消してやると言いたい。


 でも——入れない。


 手を伸ばせない。触れられない。


 千年前、手を伸ばした。あの人に触れた。


 そして、失った。


 触れた瞬間に。


 ゼルヴァーンは扉に額を預けた。冷たい木の感触。拳を握りしめた。爪が掌に食い込む。


 ——また。


 また同じだ。あの時と同じように、扉一枚の向こうで大切な人が泣いていて、自分は何もできない。千年前と何も変わっていない。千年経っても、僕は——


 扉の向こうで、泣き声が止まった。


 静寂。


 リーシェの声が聞こえた。掠れた、泣いた後の声。


「……いますか」


 ゼルヴァーンは答えなかった。いることがわかっているのに、声が出なかった。


「いるんですよね」


 沈黙。


「……いる」


 やっと出た声は、自分でも驚くほど細かった。


 扉越しの沈黙。二人分の呼吸だけが、静かな廊下に溶けていく。


「入らないんですね」


「……入れない」


「入りたくないんですか」


「違う」


 即答だった。自分でも驚くほどの速さで否定が出た。


「入りたい。しかし——」


 言葉が途切れた。


 リーシェは扉に背をもたれていた。扉の裏側に。同じ扉に、互いの体温を預けていた。木の一枚を挟んで。


「触れられないんですね」


 リーシェの声は静かだった。責めていない。問い詰めてもいない。ただ確認するように。


「花瓶を直す時も。勉強会の時も。今日、外套をかけてくれた時も。ずっと——私に触れないようにしている」


 ゼルヴァーンは答えなかった。


「怖いんですか」


 沈黙。


「……怖い」


 千年の魔王の声が、初めて裸になった。虚飾も威厳もない、ただの声。


「触れるのが怖い。理由は——まだ話せない。いつか必ず話す。だから今は」


「いいです」


 リーシェが遮った。穏やかに。


「今は聞きません。でも、一つだけ」


「何だ」


「扉の向こうにいてくれて、ありがとうございます」


 沈黙。


 長い長い沈黙。


 ゼルヴァーンの目から、涙が一粒落ちた。声はなかった。ただ一粒、頬を伝って、顎から落ちて、石の床に消えた。


「——どこにも行かない」


 掠れた声。


「扉の向こうでもいい。廊下でもいい。この城のどこにいても。僕は、どこにも行かない」


 リーシェは扉の裏側で、小さく微笑んだ。涙の跡が頬に残ったまま。


「私もです」


 二人は扉を開けなかった。


 でもその夜、扉は——世界で最も薄い壁になった。



   ◇



 朝が来た。


 リーシェが目を覚ますと、扉の前に本が一冊置いてあった。革装の古い本。表紙に魔族の文字で題名が書かれている。リーシェが昨日覚えた文字で、かろうじて読めた。


 「半身」。


 本の間に、花が一輪挟まっていた。白い花。庭に咲いた、千年ぶりの花。


 栞の代わりに。


 リーシェは花を取り出した。本を胸に抱いた。


 廊下を見た。誰もいない。でも石の床に、小さな水の跡があった。涙が落ちた跡のような。


 ——もうとっくに消えているはずの跡が、なぜか残っていた。


 その場所から、小さな芽が出ていた。


 まだ花にはなっていない。でも確かに、芽吹いていた。


 リーシェは微笑んだ。


 本を開いた。最初のページ。ゼルヴァーンの字で、隅に一言だけ書き添えてあった。


「読んでほしい。君が何者であるか、僕よりこの本の方がうまく伝えられる」


 朝の光が窓から差し込んで、ページを照らした。


 リーシェは読み始めた。


お読みいただきありがとうございます。


扉は開きませんでした。

でも、二人の距離は確かに近づきました。


「触れるのが怖い」

その理由は、まだ語られません。

しかし——その恐怖が、どれほど深く、どれほど長いものか。

この先、少しずつ明かしていきます。


次回、第10話。

半身の伝説が開かれます。千年前に、何があったのか。

その最初の欠片が、リーシェの手の中に。


ブックマーク・評価・感想、いつも力をいただいています。

扉の向こうの二人に心を寄せてくださった方、どうかその気持ちを一押しに。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ