表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
要らない娘と呼ばれた私を、魔王は千年待っていたそうです ~捨てた公爵家は没落し、私は世界で一番幸せになりました~  作者: 蒼空ルーシェ


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

8/9

第8話 お前の妹ではない

 長兄は、馬に乗って来た。


 魔王城の正門から堂々と。公爵家の紋章が入った外套を翻し、従者を三人引き連れて。グランハイド公爵家の嫡男、ヴァルター・フォン・グランハイド。二十四歳。顎が尖っていて、目が細くて、いつも人を値踏みするような顔をしている。


 リーシェは応接間で待っていた。


 ゼルヴァーンが「出なくてもいい」と言った。デミウルゴも「お会いにならなくとも対応できます」と言った。でもリーシェは首を振った。


「会います。私の兄ですから」


 ゼルヴァーンは何か言いたそうにして、何も言わなかった。ただ、リーシェの隣に立った。応接間の椅子ではなく、立ったまま。腕を組んで、壁に背を預けて。


 リーシェの斜め後ろに、影のように。



   ◇



 ヴァルターが入ってきた。


 応接間を一瞥した。魔族の調度品。青白い灯り。人間の文化とは違うすべてに、鼻に皺を寄せた。


「リーシェ。元気そうだな」


 兄の声は、昔と同じだった。表面だけ整えた声。中身のない挨拶。リーシェが公爵家にいた頃、食卓で交わした数少ない会話もこんな調子だった。


「はい。お元気そうで何よりです、兄上」


 ヴァルターが椅子に座った。足を組む。自分の家にいるような態度。


「父上からの使いで来た。お前が——妹がご迷惑をおかけしていないか、確認するように言われてな」


 リーシェの胸に、小さな棘が刺さった。「ご迷惑」。私は迷惑をかける存在として送り出されたのだ。その前提は、今も変わっていない。


「魔王殿もお忙しい中、こんな娘の世話をさせて申し訳な——」


「世話」


 低い声が、ヴァルターの言葉を断ち切った。


 ゼルヴァーンが壁から背を離した。腕を組んだまま。金の瞳がヴァルターを捉えている。


「世話、と言ったか」


 ヴァルターが初めてゼルヴァーンを正面から見た。


 空気が変わった。


 リーシェにはわかった。ゼルヴァーンの周囲の空気が、冷えていく。温度が下がるのを、肌で感じた。


「彼女の話をしているなら、言葉を選べ」


 ゼルヴァーンの声は穏やかだった。穏やかすぎた。怒鳴るよりも、この静かさの方がずっと怖い。


 ヴァルターは公爵家の嫡男だ。宮廷政治の場に立ち、貴族たちの駆け引きを日常的にこなしてきた男だ。しかし今、目の前にいるのは貴族ではない。千年を生きた魔王だ。


「失言であったなら謝ろう。妹が——」


「妹」


 ゼルヴァーンが一歩、前に出た。


 応接間の温度が、さらに下がった。窓の端に霜が走った。ヴァルターの従者たちが後ずさる。


「妹、と呼ぶか。お前たちが捨てた人間を」


「捨てたなどと——停戦条約に基づく正当な——」


「正当」


 ゼルヴァーンが笑った。笑みだった。しかし目が笑っていなかった。金の瞳が、冬の湖のように凍りついていた。


「お前の父親は言ったそうだな。『お前でちょうどよかった』と」


 ヴァルターの顔から血の気が引いた。


 なぜ知っている。その言葉を、なぜ魔王が。


 ——リーシェが言ったのではない。リーシェはゼルヴァーンにそんな話をしたことがない。ゼルヴァーンが独自に調べたのだ。リーシェが公爵家でどう扱われていたかを、自分で。


 リーシェは息を呑んだ。知らなかった。この人が、そんなことまで。


 ゼルヴァーンがヴァルターの前に立った。見下ろしている。椅子に座ったままの長兄と、立ったままの魔王。圧倒的な格差。身長の差ではない。存在の重さの差。


「聞け。一度しか言わない」


 静寂。


 誰も、息をしていなかった。


「"お前の妹"ではない」


 声が低い。しかし応接間の隅々まで届いた。


「"私の半身"だ」


 ヴァルターの目が見開かれた。半身。その言葉の意味を、公爵家の人間も知っている。伝説として、歴史書の片隅に記されたものとして。


 ——まさか。あの出来損ないが。


 その思考がヴァルターの顔に出た。ゼルヴァーンは見逃さなかった。


「出来損ない、と思ったか」


 声が一段、冷えた。


「お前たちが要らないと言った娘は、千年に一度の存在だ。この世界に一人しかいない。お前の公爵家を百集めても、彼女の指一本の価値に及ばない」


 ヴァルターの唇が震えた。反論しようとしたが、声が出ない。体が動かない。魔力の圧ではなかった。ゼルヴァーンは魔力など使っていなかった。ただ事実を述べただけだ。事実が、重すぎるのだ。


「次に彼女を軽んじる言葉を吐いたら——」


 ゼルヴァーンが身を屈めた。ヴァルターの耳元に、囁くように。


「公爵家ごと消す。選べ」


 ヴァルターの体が、椅子から崩れ落ちた。膝が床についた。公爵家の嫡男が、応接間の床に膝をついている。


 従者たちは既に腰を抜かしていた。


 ゼルヴァーンが背を向けた。もうヴァルターに興味はない。リーシェの方を見た。金の瞳が、一瞬で温度を取り戻した。冬の湖が春の日差しに溶けるように。


「怖がらせたか」


 低い声。リーシェだけに聞こえる声。


「……いいえ」


 怖くなかった。あの冷たさは、リーシェに向いたものではない。リーシェを傷つけたものに向けられた刃だった。


 ゼルヴァーンが小さく頷いて、部屋を出ていった。


 残されたのはリーシェと、床に膝をついた長兄と、腰を抜かした従者たち。



   ◇



 リーシェはヴァルターの前に立った。


 見下ろしていた。生まれて初めて、兄を見下ろしていた。


 ヴァルターが顔を上げた。脂汗が額に浮いている。


「リーシェ、お前——」


「兄上」


 静かな声で遮った。


「もう、いいです」


 怒りは不思議となかった。恨みもなかった。ただ、とても遠い気持ちがした。この人は兄だ。血の繋がった家族だ。でも、家族としての記憶の中に、温かいものが一つもない。


「私のことは忘れてください」


「何を——」


「お父様にもお伝えください。私は元気です。ご迷惑はおかけしていません。そして——もう、公爵家の娘ではありません」


 ヴァルターが目を見開いた。


 リーシェは一礼した。深く、丁寧に。公爵家の令嬢としての最後の礼。


「お元気で、兄上」


 背を向けた。歩き出した。振り返らなかった。


 公爵家の紋章も、兄の顔も、あの冷たい食卓の記憶も、全部——背中の向こうに置いていった。



   ◇



 応接間を出たリーシェは、廊下で一人になった。


 足が止まった。


 平気だった。平気なはずだった。ちゃんと言えた。ちゃんと別れを告げた。もう振り回されない。


 でも——


 手が震えていた。左手が。


 涙が一粒、落ちた。


 ——ああ。やっぱりまだ、痛いんだ。十七年一緒にいた家族に「忘れてください」と言うのは、正しくても。


 廊下の角から、足音がした。重くて大きな足音。


 ゼルヴァーンが戻ってきた。


 リーシェの涙を見て、足を止めた。


 何も言わなかった。


 ただ、自分の外套を脱いで、リーシェの肩にかけた。触れないように。肩には触れないように、布だけをそっと。


 外套は大きくて温かかった。千年の王の体温が、ほのかに残っていた。


「泣いていい」


 低い声。


「泣きたいだけ泣け。ここには、お前を振り返らない人間はいない」


 リーシェは泣いた。声を殺して、大きすぎる外套にくるまって、廊下の壁にもたれて。


 ゼルヴァーンは隣に立っていた。手は出さない。触れない。でも、一歩も離れなかった。


お読みいただきありがとうございます。


「お前の妹ではない。私の半身だ」


この一行を書くために、7話分を積み上げてきました。

読んでくださった皆さまの中で、この台詞が響いていたら嬉しいです。


そしてリーシェの「忘れてください」。

正しい選択は、いつも痛みを伴うものです。


大きすぎる外套にくるまった少女は、もう「要らない娘」ではありません。

でも、傷はまだ乾いていない。


次回、第9話。涙の夜の、扉の向こう側の話。


ブックマーク・評価・感想、心から感謝しています。

この台詞が刺さった方、どうか一押しを。

あなたの応援が、物語を前に進める力です。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ