第8話 お前の妹ではない
長兄は、馬に乗って来た。
魔王城の正門から堂々と。公爵家の紋章が入った外套を翻し、従者を三人引き連れて。グランハイド公爵家の嫡男、ヴァルター・フォン・グランハイド。二十四歳。顎が尖っていて、目が細くて、いつも人を値踏みするような顔をしている。
リーシェは応接間で待っていた。
ゼルヴァーンが「出なくてもいい」と言った。デミウルゴも「お会いにならなくとも対応できます」と言った。でもリーシェは首を振った。
「会います。私の兄ですから」
ゼルヴァーンは何か言いたそうにして、何も言わなかった。ただ、リーシェの隣に立った。応接間の椅子ではなく、立ったまま。腕を組んで、壁に背を預けて。
リーシェの斜め後ろに、影のように。
◇
ヴァルターが入ってきた。
応接間を一瞥した。魔族の調度品。青白い灯り。人間の文化とは違うすべてに、鼻に皺を寄せた。
「リーシェ。元気そうだな」
兄の声は、昔と同じだった。表面だけ整えた声。中身のない挨拶。リーシェが公爵家にいた頃、食卓で交わした数少ない会話もこんな調子だった。
「はい。お元気そうで何よりです、兄上」
ヴァルターが椅子に座った。足を組む。自分の家にいるような態度。
「父上からの使いで来た。お前が——妹がご迷惑をおかけしていないか、確認するように言われてな」
リーシェの胸に、小さな棘が刺さった。「ご迷惑」。私は迷惑をかける存在として送り出されたのだ。その前提は、今も変わっていない。
「魔王殿もお忙しい中、こんな娘の世話をさせて申し訳な——」
「世話」
低い声が、ヴァルターの言葉を断ち切った。
ゼルヴァーンが壁から背を離した。腕を組んだまま。金の瞳がヴァルターを捉えている。
「世話、と言ったか」
ヴァルターが初めてゼルヴァーンを正面から見た。
空気が変わった。
リーシェにはわかった。ゼルヴァーンの周囲の空気が、冷えていく。温度が下がるのを、肌で感じた。
「彼女の話をしているなら、言葉を選べ」
ゼルヴァーンの声は穏やかだった。穏やかすぎた。怒鳴るよりも、この静かさの方がずっと怖い。
ヴァルターは公爵家の嫡男だ。宮廷政治の場に立ち、貴族たちの駆け引きを日常的にこなしてきた男だ。しかし今、目の前にいるのは貴族ではない。千年を生きた魔王だ。
「失言であったなら謝ろう。妹が——」
「妹」
ゼルヴァーンが一歩、前に出た。
応接間の温度が、さらに下がった。窓の端に霜が走った。ヴァルターの従者たちが後ずさる。
「妹、と呼ぶか。お前たちが捨てた人間を」
「捨てたなどと——停戦条約に基づく正当な——」
「正当」
ゼルヴァーンが笑った。笑みだった。しかし目が笑っていなかった。金の瞳が、冬の湖のように凍りついていた。
「お前の父親は言ったそうだな。『お前でちょうどよかった』と」
ヴァルターの顔から血の気が引いた。
なぜ知っている。その言葉を、なぜ魔王が。
——リーシェが言ったのではない。リーシェはゼルヴァーンにそんな話をしたことがない。ゼルヴァーンが独自に調べたのだ。リーシェが公爵家でどう扱われていたかを、自分で。
リーシェは息を呑んだ。知らなかった。この人が、そんなことまで。
ゼルヴァーンがヴァルターの前に立った。見下ろしている。椅子に座ったままの長兄と、立ったままの魔王。圧倒的な格差。身長の差ではない。存在の重さの差。
「聞け。一度しか言わない」
静寂。
誰も、息をしていなかった。
「"お前の妹"ではない」
声が低い。しかし応接間の隅々まで届いた。
「"私の半身"だ」
ヴァルターの目が見開かれた。半身。その言葉の意味を、公爵家の人間も知っている。伝説として、歴史書の片隅に記されたものとして。
——まさか。あの出来損ないが。
その思考がヴァルターの顔に出た。ゼルヴァーンは見逃さなかった。
「出来損ない、と思ったか」
声が一段、冷えた。
「お前たちが要らないと言った娘は、千年に一度の存在だ。この世界に一人しかいない。お前の公爵家を百集めても、彼女の指一本の価値に及ばない」
ヴァルターの唇が震えた。反論しようとしたが、声が出ない。体が動かない。魔力の圧ではなかった。ゼルヴァーンは魔力など使っていなかった。ただ事実を述べただけだ。事実が、重すぎるのだ。
「次に彼女を軽んじる言葉を吐いたら——」
ゼルヴァーンが身を屈めた。ヴァルターの耳元に、囁くように。
「公爵家ごと消す。選べ」
ヴァルターの体が、椅子から崩れ落ちた。膝が床についた。公爵家の嫡男が、応接間の床に膝をついている。
従者たちは既に腰を抜かしていた。
ゼルヴァーンが背を向けた。もうヴァルターに興味はない。リーシェの方を見た。金の瞳が、一瞬で温度を取り戻した。冬の湖が春の日差しに溶けるように。
「怖がらせたか」
低い声。リーシェだけに聞こえる声。
「……いいえ」
怖くなかった。あの冷たさは、リーシェに向いたものではない。リーシェを傷つけたものに向けられた刃だった。
ゼルヴァーンが小さく頷いて、部屋を出ていった。
残されたのはリーシェと、床に膝をついた長兄と、腰を抜かした従者たち。
◇
リーシェはヴァルターの前に立った。
見下ろしていた。生まれて初めて、兄を見下ろしていた。
ヴァルターが顔を上げた。脂汗が額に浮いている。
「リーシェ、お前——」
「兄上」
静かな声で遮った。
「もう、いいです」
怒りは不思議となかった。恨みもなかった。ただ、とても遠い気持ちがした。この人は兄だ。血の繋がった家族だ。でも、家族としての記憶の中に、温かいものが一つもない。
「私のことは忘れてください」
「何を——」
「お父様にもお伝えください。私は元気です。ご迷惑はおかけしていません。そして——もう、公爵家の娘ではありません」
ヴァルターが目を見開いた。
リーシェは一礼した。深く、丁寧に。公爵家の令嬢としての最後の礼。
「お元気で、兄上」
背を向けた。歩き出した。振り返らなかった。
公爵家の紋章も、兄の顔も、あの冷たい食卓の記憶も、全部——背中の向こうに置いていった。
◇
応接間を出たリーシェは、廊下で一人になった。
足が止まった。
平気だった。平気なはずだった。ちゃんと言えた。ちゃんと別れを告げた。もう振り回されない。
でも——
手が震えていた。左手が。
涙が一粒、落ちた。
——ああ。やっぱりまだ、痛いんだ。十七年一緒にいた家族に「忘れてください」と言うのは、正しくても。
廊下の角から、足音がした。重くて大きな足音。
ゼルヴァーンが戻ってきた。
リーシェの涙を見て、足を止めた。
何も言わなかった。
ただ、自分の外套を脱いで、リーシェの肩にかけた。触れないように。肩には触れないように、布だけをそっと。
外套は大きくて温かかった。千年の王の体温が、ほのかに残っていた。
「泣いていい」
低い声。
「泣きたいだけ泣け。ここには、お前を振り返らない人間はいない」
リーシェは泣いた。声を殺して、大きすぎる外套にくるまって、廊下の壁にもたれて。
ゼルヴァーンは隣に立っていた。手は出さない。触れない。でも、一歩も離れなかった。
お読みいただきありがとうございます。
「お前の妹ではない。私の半身だ」
この一行を書くために、7話分を積み上げてきました。
読んでくださった皆さまの中で、この台詞が響いていたら嬉しいです。
そしてリーシェの「忘れてください」。
正しい選択は、いつも痛みを伴うものです。
大きすぎる外套にくるまった少女は、もう「要らない娘」ではありません。
でも、傷はまだ乾いていない。
次回、第9話。涙の夜の、扉の向こう側の話。
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