第7話 勉強会
花瓶の事件から数日。
ゼルヴァーンは相変わらず毎日来た。ただし、もう扉の外には立たなくなった。ノックをして、リーシェが開けると、入り口のところに立って、短い言葉を交わす。まだ部屋の中には入らないけれど、顔が見える。声が近い。
それだけで、ずいぶん違った。
でもリーシェの中には、それとは別の焦りがあった。
ここに来て、もう十日以上になる。花は咲かせた。侍女たちにも良くしてもらっている。ゼルヴァーンも優しい。
でも——自分はこの場所のことを何も知らない。
魔族のこと。この城のこと。この大陸のこと。半身という言葉の意味。千年の歴史。自分が咲かせた花が、この世界にとってどれほどの意味を持つのか。
公爵家では、何も学ばせてもらえなかった。魔力のない娘に教育は不要だと言われた。だから本を読んだ。使用人の部屋にあった古い歴史書や、台所の隅に積まれた旅行記を、夜中にこっそり。
あの頃と同じだ。知りたいのに、何も知らない。
違うのは、ここには本がたくさんあること。そして——教えてくれるかもしれない人がいること。
◇
朝の訪問。
ゼルヴァーンが入り口に立って、いつもの問いかけをする前に、リーシェが口を開いた。
「あの。お願いがあります」
ゼルヴァーンが少し目を見開いた。リーシェから何かを求めるのは、これが初めてだった。
「この城に、図書館はありますか」
「……ある」
「行ってもいいですか」
「もちろんだ。しかし、なぜ」
リーシェは背筋を伸ばした。
「この世界のことを知りたいんです。魔族の歴史も、半身の伝説も、この城のことも。ここに置いてもらうなら、何も知らないままではいたくないので」
言い終わってから、少し不安になった。生意気だと思われただろうか。公爵家では「お前が知る必要はない」と言われ続けた。
ゼルヴァーンは黙って、リーシェの顔を見ていた。
それから——かすかに口元が緩んだ。笑ったのかもしれない。本当にかすかで、リーシェの目にはほとんど見えなかったけれど。
「案内しよう」
「え」
「私が案内する」
リーシェは困惑した。魔王が直々に図書館の案内を。
「お忙しくないですか」
「千年ほど暇だった」
真顔だった。冗談なのか本気なのか判別できない。
廊下の向こうから、デミウルゴの溜息が聞こえた気がした。
◇
魔王城の図書館は、リーシェが想像していた規模を遥かに超えていた。
塔がまるごと一つ、図書館だった。螺旋状の書架が天井まで続き、数え切れない本が壁を覆っている。青白い灯りが浮かんでいて、本の背表紙を淡く照らしている。静かで、少しだけ埃の匂いがして、紙の匂いもする。
リーシェは息を呑んだ。
「こんなに……」
「千年分の蔵書だ。読みきれた者はまだいない」
ゼルヴァーンが書架の間を歩いていく。リーシェがその後を追う。背の高い男の後を、小さな人間の少女が歩く。
「魔族の歴史を知りたいなら、このあたりだ」
ゼルヴァーンが棚から一冊を抜き取った。分厚い革装の本。リーシェに手渡す時、指が触れかけた。——触れなかった。本だけが渡された。
「読めるか。魔族の文字は人間のものと違う」
「……読めません」
「そうだろう。教える」
言い方が唐突だった。しかし目は真剣だった。
「え、陛下が直接——」
「他に適任がいない。千年分の歴史を正確に知っているのは、この城では私だけだ」
もっともらしい理由だったが、デミウルゴが聞いたら何と言うだろう。「私もおりますが」と言いそうだ。
ゼルヴァーンは書架の奥にある机に向かった。二人掛けの読書机。向かい合うのではなく、隣り合って座る形。
「座れ」
リーシェは座った。近い。肩と肩の間が、手のひら一つ分ほどしかない。
ゼルヴァーンが本を開いた。最初のページを指さす。
「これが魔族の文字の基本形だ。人間の文字と似ているものもある」
低い声。耳に近い。本を覗き込む姿勢のせいで、ゼルヴァーンの銀灰色の髪がリーシェの方に流れてきた。
肩に——触れかけた。
髪が一筋、リーシェの肩のほんの手前で揺れた。
ゼルヴァーンの手が動いた。自分の髪を掴んで、反対側に払った。さりげない動作だったが、リーシェは見ていた。指先が白いほど強く髪を掴んでいたことを。
——この人は、髪が触れることさえ避けている。
初めて、はっきりと、思った。
配慮ではない。これは配慮とは違う。もっと深い、もっと切実な何かだ。手を伸ばして止まるのも、部屋に入らないのも、今、髪を払ったのも。
この人は——触れることが、怖いのだ。
なぜ。
何がそんなに怖いのだろう。大陸最強と呼ばれるこの人が。何を恐れているのだろう。
聞けなかった。聞いてはいけない気がした。まだ。
ゼルヴァーンは何事もなかったように文字の説明を続けている。低い声で、丁寧に、一文字ずつ。リーシェの理解を確認しながら。
リーシェは文字を覚えた。一つ目。二つ目。三つ目。
隣にいる人の温度を感じながら、触れない距離で。
◇
勉強会は二時間続いた。
リーシェは魔族の文字を二十ほど覚えた。基本の挨拶と、数字と、「花」という文字。
「『花』が一番最初に読めるようになりたいんです」
そう言った時のゼルヴァーンの顔を、リーシェは忘れないだろう。金の瞳が揺れて、何か言いたそうにして、結局何も言わなかった。ただ、「花」の文字を、とても丁寧に書いて見せてくれた。
帰り道。
図書館の螺旋階段を降りている時、下の階から声が聞こえた。
魔族の言葉。リーシェにはまだ意味がわからない。でも、声の調子はわかった。低く、不満げな声。
ゼルヴァーンが足を止めた。
声は続いている。二人の魔族が話しているようだった。
リーシェが覚えたばかりの文字の中に、一つだけ聞き取れる音があった。
——ニンゲン。
人間。
声の調子と、その単語を合わせれば、大意はわかる。「人間の娘」について、良くないことを言っている。
ゼルヴァーンの空気が変わった。威圧ではない。ただ、冷たくなった。階段を降りようとする。
「待ってください」
リーシェが袖を掴んだ。
——掴んでいた。指先が、ゼルヴァーンの袖の端を。
二人とも固まった。
リーシェが先に手を離した。顔が熱い。でも、言いたいことがある。
「気にしないでください」
「……何」
「全員に受け入れてもらえるとは思っていません。私は人間で、突然ここに来たんですから。時間がかかるのは当然です」
ゼルヴァーンがリーシェを見下ろした。金の瞳の奥で、何かが動いた。
「君は、怒らないのか」
「怒るほど偉くないです、私。でも——」
リーシェは少し考えて、言った。
「いつか認めてもらえるように、頑張りたいとは思います。だから魔族の文字を覚えたいんです。この世界の言葉で、ちゃんと話せるように」
沈黙。
ゼルヴァーンは長い間リーシェを見ていた。それから、目を逸らした。
「……明日も来るか。勉強会」
「はい。お願いします」
「では、明日は少し早く来い。教えたいものがある」
何を、とは言わなかった。ゼルヴァーンは階段を降りていった。すれ違いざま、不満を言っていた魔族たちが深々と頭を下げる。ゼルヴァーンは一瞥もしなかった。
リーシェは階段の踊り場に一人残された。
左手を見た。さっきゼルヴァーンの袖を掴んだ手。指先に、まだ布の感触が残っている。
——触れた。ほんの少しだけ。布越しに。
それだけのことなのに、心臓がうるさい。
◇
夜。
リーシェが部屋で覚えたばかりの魔族の文字を練習していると、ナディアがお茶を持ってきた。
「熱心ですね」
「ナディアさん、この文字で合っていますか。『花』って書きたいんですけど」
ナディアが覗き込んで、微笑んだ。
「お上手です。……陛下に教わったのですか」
「はい。明日も教えてくださるそうです」
ナディアは少し黙った。それから、穏やかに言った。
「陛下が誰かに文字を教えるのは、千年で初めてのことですよ」
リーシェが顔を上げた。ナディアの紫の瞳に、いつもの翳りがあった。でも今夜はその翳りの中に、小さな光が混じっているように見えた。
「大切にしてさしあげてくださいね。あの方の——時間を」
何か別の言葉を飲み込んだような間があった。でもリーシェは聞かなかった。
ナディアが去った後、リーシェは机に向かった。「花」の文字をもう一度書いた。
その時、廊下を侍女が駆けてきた。息を切らしている。
「リーシェさま。デミウルゴ様が、至急お伝えしたいことがあると」
嫌な予感がした。
デミウルゴが来た。いつもの穏やかな顔ではなかった。眼鏡の奥の目が、硬い。
「人間の王都から使者が参りました」
リーシェの手が止まった。
「グランハイド公爵家より。長兄殿が、明朝到着されます」
ペンが机の上を転がった。
長兄。リーシェを「役立たず」と笑っていた長兄が、ここに来る。
「目的は——」
「表向きは『妹の安否確認』とのことです」
デミウルゴの声は静かだった。しかし「表向きは」の三文字が、すべてを語っていた。
リーシェの左手が、無意識に握りしめられた。花のない手で。
お読みいただきありがとうございます。
「花」の文字を一番に覚えたいと言った時の、ゼルヴァーンの顔。
あれを書けた時、自分でもちょっと泣きそうになりました。
さて。穏やかな勉強会は、ここまでです。
次回、公爵家の長兄が魔王城にやってきます。
ゼルヴァーンが——怒ります。
ブックマーク・評価・感想、いつもありがとうございます。
次話はこの作品で一番書きたかった台詞が出ます。楽しみにしていてください。




