第5話 花が咲く
数日が過ぎた。
魔王城での暮らしは、リーシェの想像とはことごとく違っていた。
朝は侍女たちが食事を運んでくる。昼はナディアが城の案内をしてくれる。廊下ですれ違う魔族たちは、最初こそ物珍しそうにリーシェを見ていたが、敵意はなかった。
そしてゼルヴァーンは、毎日一度、必ず訪ねてきた。
必ず扉の外から。
「今日は何を食べた」
「寒くはないか」
「困っていることはないか」
短い問いかけを一つか二つ。リーシェが答えると、「そうか」と言って去っていく。中に入ることはない。顔を見せることすら稀で、声だけが扉越しに届く。
不思議な人だ、と思う。千年を生きた魔王が、毎日わざわざ扉の前まで来て、食事の心配をしている。
怖い人ではない。それはもうわかった。
でも——なぜ入ってこないのかは、わからないままだった。
◇
「外を歩いてもよろしいでしょうか」
ある朝、リーシェはナディアに尋ねた。
部屋の中に何日もいると、体がなまる。それに、窓から見える城下の景色が気になっていた。人間の世界とは違う空の色。見たことのない植物。知らない建物。
ナディアは一瞬、何かを考えるように間を置いた。
「もちろんです。ここはあなたの家ですから」
あなたの家。
その言葉が、リーシェの胸にすとんと落ちた。公爵邸で、こんなふうに言われたことはない。あの場所で、リーシェは居候のようなものだった。家族の食卓にはいたけれど、誰もリーシェの椅子を引いてはくれなかった。
「……ありがとうございます」
ナディアが微笑んだ。穏やかだが、目の奥にあの翳りがまだある。いつもリーシェを見る時だけ、瞳の色が少し深くなる。
聞けない。まだ聞けない。
◇
城の庭園は、枯れていた。
リーシェはナディアに案内されて庭に出たが、そこに広がっていたのは灰色の世界だった。
木はある。茂みもある。花壇だったであろう区画も残っている。しかしすべてが色を失っている。葉は灰色に乾き、枝は細く、花壇の土は砂のように乾いていた。死んでいるわけではない。かろうじて生きている。しかし咲くことを忘れたように、すべてが沈黙していた。
「この庭は、ずっとこうなのですか」
庭の隅で土をいじっていた老いた魔族の庭師が、顔を上げた。深い皺の間に、寂しそうな目がある。
「千年前までは咲いておりました。それはもう、見事に。この庭を一目見ようと、大陸中から人が——魔族も、人間も、訪れたものです」
「千年前……」
「あの方がいなくなってから、一本も咲いておりません」
あの方。庭師はそれ以上言わなかった。ナディアが目を伏せた。
千年。千年前に、ここには花が咲いていた。千年前に「あの方」がいなくなって、花は止まった。
ゼルヴァーンが言った「千年待った」。ここでも、千年。
リーシェは庭を歩いた。足元の土は乾いているが、踏むと微かに柔らかい。死んではいない。ただ眠っているだけのような気がした。
花壇の隅に、一株だけ。
枯れかけた花があった。茎は細く、葉は萎れ、花弁は閉じかけている。他のすべてが諦めた中で、この一株だけが最後の力で立っていた。
リーシェはしゃがんだ。
「可哀想に。水もないのね」
手を伸ばした。指先が、花弁に触れた。
ただ、それだけ。
可哀想だと思った。水がなくて、光がなくて、千年も誰にも世話をされずに、それでも枯れずに立っているこの花が、自分と似ている気がして。
だから触れた。
それだけのことだった。
◇
光が走った。
リーシェの指先から、淡い金色の光が溢れた。
閉じかけていた花弁が、開いた。萎れた葉が持ち上がった。灰色だった花に色が戻る。白。淡い白。月光のような白い花弁が、一枚ずつ開いていく。
リーシェは目を見開いた。自分の手を見た。光はまだ溢れている。指先から、手のひらから、脈打つように。
花が咲いた。一株だけではない。光が地面を走った。水が染みるように、光が土の中に広がっていく。
足元から、花が芽を出した。
一つ。二つ。十。二十。
枯れていた花壇から、次々に花が顔を出す。白い花。青い花。淡い紫の花。種類も大きさも違う花々が、光を浴びるように土を割って伸び上がっていく。
庭師が腰を抜かした。声にならない声を上げて、地面にへたり込んでいる。
侍女たちが駆けてきた。庭を見て、立ち尽くした。
リーシェの足元から広がった花の波が、枯れた庭園の一角を覆い尽くしていた。
灰色だった世界に、色が戻った。
ナディアが、手で口を覆った。
紫の瞳から涙が溢れた。声もなく、ただ涙だけが頬を伝った。
「——あの、光」
震える声。
「千年前の、あの光……」
ナディアは泣いていた。悲しみではない。懐かしさでもない。もっと深い、千年分の何かが溢れたような泣き方だった。
◇
騒ぎを聞いて、ゼルヴァーンが庭に来た。
足を止めた。
花を見た。千年間枯れ続けた庭に咲いた花を。光を纏って立つリーシェを。
金の瞳が揺れた。
リーシェには、その表情が読めなかった。喜んでいるのか。安堵しているのか。それとも——怖がっているのか。
ゼルヴァーンは口を開きかけて、閉じた。もう一度開いた。
「——やはり」
低い声。自分に言い聞かせるような声。
「君が、そうだったのか」
リーシェにはわからない。「そう」とは何なのか。
「私、何をしたのか、自分でもわからなくて——」
「花を咲かせた。千年、誰にもできなかったことを」
ゼルヴァーンがリーシェを見つめた。金の瞳に、三話の夜に見た光がまた灯っている。しかしその光の奥で、彼の手が——ポケットの中で握りしめられていることを、リーシェは見なかった。
「半身」
ナディアが、涙を拭いながら言った。
「半身さまの力です。生命を咲かせる力。陛下と対を成す存在——千年の間、世界が待ち望んでいた方」
半身。
リーシェは自分の手を見た。光はもう消えている。普通の手。ただの手。魔力がないと言われ続けた、何の力もないはずの手。
その手が、千年の沈黙を破った。
「私に、こんな力が——」
声が震えた。信じられない。信じたくないのではなく、信じ方がわからない。十七年間「お前には何もない」と言われ続けた人間が、突然「お前にはすべてがある」と言われた時の、この足元が消えるような感覚。
ゼルヴァーンが一歩近づいた。いつもの距離——手を伸ばしても届かない距離——で止まった。
「怖がらなくていい」
静かな声。
「君のその力は、誰かを傷つけるものではない」
花を咲かせるだけの力。生命を生かすだけの力。壊すのではなく、咲かせる。
リーシェは目を閉じた。
——公爵家では、要らなかった力。
——ここでは、千年待たれていた力。
同じ自分なのに。見る人が変わるだけで、こんなにも。
花が咲いている。リーシェの足元で、風に揺れている。千年分の沈黙を破って、ここに。
◇
同じ夜。
人間の王都。グランハイド公爵邸。
大広間に灯りが煌々と灯り、笑い声が響いていた。
グランハイド公爵が杯を掲げる。
「厄介払いが済んだ。これで我が家も安泰だ」
長兄が笑う。次兄が頷く。招かれた貴族たちがお追従を並べる。酒が注がれ、料理が運ばれ、楽団が華やかな曲を奏でている。
使用人たちは黙って給仕をしている。誰も笑っていない。でもそれに気づく主人はいない。
公爵が上機嫌で語る。
「あの娘には魔力がなかった。公爵家に魔力のない子など、恥でしかない。魔王への御供にでもなれば、せめて家の役には立つ」
笑い声。
広間の外、廊下の暗がりで、十二歳の少年が壁に背をつけて座っていた。膝を抱えている。目が赤い。
アルトは、父の笑い声を聞いていた。
左手の中に、何かを握りしめている。花弁が一枚。姉に渡した花と同じ野の花から、もう一枚だけ残っていた花弁。くしゃくしゃに潰れている。何度も握りしめたから。
少年は唇を噛んだ。声は出さなかった。
泣いたところで誰も振り返らないことを、姉に教わったから。
◇
魔王城。
庭園の花は、夜になっても咲いていた。
月の光に照らされて、白い花弁が淡く光っている。二つの月が空に並び、花の上に銀の影を落としている。
塔の窓から、リーシェがその景色を見ていた。
自分が咲かせた花。まだ信じられない。でも花は確かにそこにある。千年の沈黙を破って、リーシェが触れた場所から、咲いている。
ポケットの中に、弟の花がある。まだ枯れていない。
——ずっと、守っていたのかもしれない。私のこの力が、知らないうちに。
その考えが浮かんだ時、少しだけ泣きそうになった。弟が握らせてくれた花を、自分の力が——自分では「何もない」と思っていた力が、ずっと枯らさずにいてくれた。
何もなかったんじゃない。
見えていなかっただけだ。
リーシェは花を握りしめた。左手で。いつものように。
窓の外で、千年ぶりの花が揺れている。
少女はまだ、自分が何者か知らない。「半身」という言葉の意味も、千年前に何があったのかも、あの人がなぜ触れるのを怖がるのかも。
でも一つだけ、今夜わかったことがある。
——ここでは、私は「要らない」とは呼ばれない。
風が吹いた。花が揺れた。
二つの月が、少女を照らしていた。
第1章「御供」了。
お読みいただきありがとうございます。
第1章「御供」、完結です。
要らない娘と呼ばれた少女の手から、千年ぶりの花が咲きました。
同じ夜、公爵家では祝宴が開かれています。
この差が、いつかどんな形で届くのか——それは第2章で。
第2章「寵愛」は、魔王城での暮らしが始まるところから。
あの扉の向こうの人が、少しずつ距離を詰めてきます。
そして——公爵家の長兄が、魔王城にやってくる日のことも。
ブックマーク・評価・感想、いつも本当にありがとうございます。
ここまで読んでくださったあなたのおかげで、物語の花が咲いています。
第2章も、どうぞよろしくお願いいたします。




