第3話 千年
闇の中を、歩いた。
光は遠い。玉座の背後から差す白い光だけが、広大な謁見の間を照らしている。リーシェの足音が石の床に響く。それ以外に音はない。
兵士はいない。高官たちが左右に並んでいるはずだが、闇に溶けて姿が見えない。ただ気配だけがある。何十もの視線が、リーシェの背中に突き刺さっている。
歩く。
光が近づく。
玉座が見えてきた。黒い石を削り出した玉座。装飾はない。ただ大きく、重く、長い年月を経た石の塊。その上に——
人影が、座っている。
リーシェの目が闇に慣れた。
光の中に浮かび上がったのは、一人の男だった。
銀灰色の髪。長く、緩やかに背に流れている。白い肌。人間のものとは質感が違う。月光を固めたような、冷たくなめらかな白。頬から首にかけて、淡い紋様が走っている。魔力の証。
金の瞳。
リーシェは息を忘れた。
美しい、と思った。それが最初の感想だった。恐怖よりも先に、ただ純粋に。——こんなに綺麗な人がいるのかと。
しかし次の瞬間、気づいた。
瞳の奥が、空洞だった。
宝石のように美しい金色の瞳。でもその奥には何もない。感情も、温度も、生きている者の光もない。千年という時間を一人で過ごした目。燃え尽きた暖炉のような、何かが確かにあったはずの場所に、もう何も残っていない——そういう目。
リーシェは知っている。公爵家の自分の部屋で、鏡を見た時。誰にも必要とされない夜が積み重なって、鏡の中の自分の目から光が消えていくのを見た時の、あの感覚。
この人の目は。
十七年の比ではないほど長い時間を、映している。
「名を」
低い声。玉座の上から降ってくる。空気が震える。周囲の高官たちが息を呑む気配。
「リーシェ・フォン・グランハイドです」
声が震えた。喉が乾いている。でも、名乗らないわけにはいかない。
「……グランハイド」
魔王が、その名を繰り返した。
そして——リーシェの顔を見た。
目が合った。
金の瞳が、リーシェの目を捉えた。
一秒。
二秒。
何かが変わった。
空洞だったはずの瞳に、光が灯った。燃え尽きた暖炉に、小さな火が点いたように。微かに、しかし確かに。
魔王が立ち上がった。
周囲の空気が凍りつく。高官たちが後ずさる気配。リーシェには何が起きているのかわからない。ただ、目の前の男が動いたことだけがわかった。
玉座から降りてくる。
一段。
また一段。
長い階段を、一歩ずつ。銀灰色の髪が揺れる。金の瞳がリーシェから逸れない。一瞬も。
高官たちの間に動揺が走る。誰かが小さく「陛下」と呼んだ。返事はない。
階段を降りきる。
リーシェの前に立つ。近い。手を伸ばせば届く距離。
背が高い。リーシェの頭ひとつ分以上。見上げなければ顔が見えない。
見上げた。
金の瞳が——潤んでいた。
魔王が、跪いた。
片膝をつき、リーシェを見上げる形になる。謁見の間が凍りついた。高官たちが石のように固まっている。千年の歴史の中で、魔王が何者かの前に跪いたことは一度もない。
リーシェは動けなかった。何が起きているのか、頭が追いつかない。
魔王の唇が開いた。声が震えていた。千年を生きた存在が、こんなふうに震えるのだと、リーシェは思った。
「——ようやく、見つけた」
涙が、頬を伝った。
金の瞳から溢れた雫が、白い肌を伝い、顎から落ちる。
たった一粒。
「千年——待った」
声が割れた。最後の一音が掠れて消えた。千年分の何かを、たった二語に詰め込んだような声だった。
リーシェの頭は真っ白だった。理解できない。自分は人身御供だ。要らない娘だ。公爵家に捨てられて、魔王に差し出されただけの、魔力もない、何の価値もない人間だ。
なのに、なぜ。
この人は、泣いているのだろう。
魔王の手が動いた。リーシェの手に向かって伸びる。長い指。
——しかし。
指先がリーシェの手の数センチ手前で、止まった。
震えている。
その手は確かに震えていた。触れたい。でも、触れられない。見えない壁があるかのように、指先が空を掴む。
「……すまない」
声が落ちた。涙の滲んだ声。
「まだ——怖いのだ」
誰が。何が。リーシェにはわからない。この、大陸最強と恐れられる存在が、何を怖がっているのか。
魔王の涙が、もう一粒落ちた。
石の床に雫が弾ける。
その瞬間。
雫が落ちた場所から——花が咲いた。
小さな白い花。石の床の隙間から、茎がするすると伸び、花弁が開く。涙が染み込んだ場所から、光が淡く溢れて、花になった。
謁見の間が、静まり返った。
リーシェは花を見つめた。魔王を見つめた。涙を見つめた。
何もわからない。何一つ。
でも、一つだけ——一つだけ思ったことがある。
この人の涙は、花を咲かせるほど、綺麗だ。
◇
謁見の間の外。
扉が閉まった後も、デミウルゴはしばらく動かなかった。
中から聞こえた主の声を、聞いた。
千年待った、と。
そうだ。千年だ。自分もまた、千年を数えていた。主の隣で。主の孤独の傍らで。一日も欠かさず。
デミウルゴは眼鏡を外し、目元を指で押さえた。
——陛下は、あの少女を知っている。
知っているどころではない。
千年前と同じ目をしている。すべてが終わった日——あの方を失った日と同じ、あの目を。
デミウルゴは眼鏡をかけ直した。千年前のあの方が好きだと言ってくれた、この眼鏡を。
「——どうか」
声にならない祈り。
「今度こそ」
千年前は守れなかった。
今度こそ。
今度こそ、あの光が消えませんように。
謁見の間の扉の向こうで、石の床に、小さな白い花が咲いている。
千年ぶりの、花だった。
お読みいただきありがとうございます。
魔王が流した涙。
石の床に咲いた花。
伸ばしかけて、止まった手。
あの手が止まった理由を、彼はまだ語りません。
語れる日が来るまで、もう少しだけ。
次回、第4話「月の塔」。
魔王城で目覚めた朝の話です。
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