第2話 魔王の城
黒い門が、音もなく閉じた。
振り返った時にはもう、馬車の姿は見えなかった。門の向こうに人間の世界がある。三日かけて走ってきた道がある。公爵邸がある。泣いてくれた弟がいる。
その全部が、黒い壁に閉ざされた。
リーシェは左手の花を握りしめた。茎がへたっている。三日間、ずっと握っていたから。でも花弁はまだ開いている。枯れてはいない。不思議と、枯れない。
——行こう。
前を見る。
◇
魔王城の内部は、リーシェが想像していたものと違った。
暗い。それは確かだ。人間の城のように窓が多くない。光源は壁に埋め込まれた青白い石で、冷たく淡い光が回廊を照らしている。
しかし——汚れていない。血の匂いもしない。
人間の歴史書には「魔王城は人骨で築かれた禍々しき要塞」と書かれていた。嘘だ。壁は磨かれた黒い石で、天井には細密な紋様が刻まれている。美しいとすら思える意匠。人間の宮殿とは違うが、確かに「誰かが大切にしている場所」の空気がある。
回廊の左右に、異形の兵士たちが並んでいる。直立不動。リーシェを見ている。角のある者。鱗のある者。闇そのもののように輪郭が曖昧な者。
隣を歩く老いた従者——公爵家から同行を命じられた世話係のヨルグが、歯を鳴らしている。七十を過ぎた細い体が、枯れ葉のように震えていた。
「ヨルグさん」
リーシェが小声で呼びかけた。
「だ、大丈夫です、お嬢様。わ、私は——」
言い終わる前に、兵士の一人が身じろぎした。鱗に覆われた巨大な腕が揺れただけ。それだけで、ヨルグの膝が折れた。
崩れ落ちる老人。石の床に手をつく。立てない。
兵士たちの視線が集まる。異形の目が、倒れた人間を見下ろしている。
リーシェの心臓が跳ねた。
——怖い。この目が怖い。人間を見る目じゃない。虫を見るような、あるいは石を見るような、そういう目。
でも。
リーシェはしゃがんだ。ヨルグの腕をとり、肩に回す。七十の老人は軽かった。こんなに軽い体で、三日間馬車に揺られて、ここまで来てくれた。
「立てますか」
「お嬢様、い、いけません。私のことは——」
「立てますか?」
もう一度、静かに聞いた。ヨルグが顔を上げた。リーシェの目を見て——泣きそうな顔で、頷いた。
リーシェはヨルグを立たせ、自分が半歩前に出た。兵士たちの視線を正面から受ける。
「大丈夫です。私たちは、歩けます」
兵士たちに言ったのか。ヨルグに言ったのか。自分に言ったのか。わからない。ただ、声に出さないと足が動かなかった。
一歩。
もう一歩。
異形の兵士たちの間を、小さな人間の少女が老人を支えて歩いていく。
兵士の一人が——角の生えた、赤銅色の肌の大男が——わずかに目を細めた。値踏みするような、あるいは。
少しだけ、感心したような目。
リーシェはそれに気づかない。前を見ている。足が震えていることを悟られないように、背筋だけは伸ばして。
◇
回廊は長かった。
歩きながら、リーシェは気づいたことがある。この城は、静かすぎる。
人間の城なら使用人が行き交い、声が響き、馬の蹄の音がする。しかしこの城には、兵士の息遣いすら聞こえない。靴音はリーシェとヨルグのものだけ。まるで城全体が、息を殺しているような。
——何かを、待っているような。
回廊の突き当たりに、扉があった。
巨大な扉。見上げるほど高い。黒い木に金の装飾が施されている。装飾の紋様は——花だ。枯れた花。かつて美しかったであろう花の意匠が、色褪せたまま扉を覆っている。
扉の前に、一人の男が立っていた。
壮年の魔族。銀縁の眼鏡をかけている。魔族に眼鏡は珍しいのではないか、とリーシェはぼんやり思った。整った身なりで、背筋がまっすぐで、回廊の兵士たちとはまるで空気が違う。
男がリーシェを見た。
冷たい目ではなかった。かといって温かくもない。何かを確かめるような、探るような目。
「人間の御供か」
「はい」
「名は」
「リーシェ・フォン・グランハイドです」
男が一瞬、目を細めた。
「——そうか」
間があった。短い間。「そうか」の二文字の後に、何かを飲み込んだような、微かな間。
リーシェは聞き返したかった。でも、その前に男が口を開いた。
「私はデミウルゴ。陛下の側近を務めている」
陛下。この扉の向こうにいる存在。
「一つだけ伝えておく」
デミウルゴがリーシェを真っ直ぐに見た。眼鏡の奥の目が、初めて感情を帯びた。
「陛下は——お前が思っているような方ではない」
それだけ言って、デミウルゴは扉に手をかけた。
リーシェは聞きたかった。では、どんな方なのですか、と。
しかし扉はもう開き始めていた。
重い音。空気が変わる。扉の隙間から、光が漏れる。青白い光ではない。温かくも冷たくもない、月のような白い光。
扉が開ききった。
闇。
広大な空間。天井は見えない。どこまでも高い。光源は一つだけ——玉座の背後から差す白い光。
その光の中に、人影がある。
リーシェは足を止めた。
光に照らされた人影は、動かない。玉座に座っている。しかし不思議なことに、威圧感よりも先に、リーシェが感じたのは——
静けさだった。
怒りでも、悪意でも、威圧でもない。ただ果てしない、底のない静けさ。長い時間をたった一人で過ごした人間だけが纏う、あの種類の静けさ。
リーシェは公爵家で、その静けさを知っていた。誰にも顧みられない夜を、何百回と過ごした少女は。
——この人は。
——ずっと一人だったんじゃ、ないだろうか。
その考えが浮かんだ瞬間、低い声が響いた。
「——入れ」
空気が震えた。
リーシェは花を握りしめた。左手が白くなるほど、強く。
そして——闇の中へ、歩き出した。
◇
ヨルグが回廊に残された。入ることを許されたのはリーシェだけだった。
扉が閉まる直前、デミウルゴが一人、回廊に立ち尽くしていた。
扉の向こうから、主の声が聞こえる。御供の名を問うている。
デミウルゴは、眼鏡の位置を直した。千年前からかけている、この眼鏡を。
リーシェ・フォン・グランハイド。
あの目だ。
あの日と同じ、あの光を宿した目。
千年前——すべてが終わった日に、同じ光を見た。
陛下は気づいているだろうか。いや、気づいている。だからこそ、あんな声で「入れ」と言った。千年ぶりに、あんな声を出した。
——どうか。
デミウルゴは、誰にも聞こえない声で呟いた。
——どうか、今度こそ。
扉が、完全に閉じた。
お読みいただきありがとうございます。
「お前が思っているような方ではない」
デミウルゴのこの一言が、次話で意味を持ちます。
扉の向こうで、リーシェを待つものは——
第3話「千年」です。
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