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要らない娘と呼ばれた私を、魔王は千年待っていたそうです ~捨てた公爵家は没落し、私は世界で一番幸せになりました~  作者: 蒼空ルーシェ


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第1話 要らない娘

「お嬢様。どうか、お気をつけて」


 老いた庭師が、震える声でそう言った。


 リーシェは微笑んで、皺だらけの手をそっと握り返す。


「ロッドさん。あなたの薔薇、今年もとても綺麗でした」


 明日にはもういなくなる人間の言葉とは思えないほど、穏やかだった。


 グランハイド公爵邸の裏口。早朝の薄い光の中に、使用人たちが並んでいる。正門ではない。正門は家族のためのもの。リーシェが使っていいのは、いつだって裏口だけだった。


 料理番のおばさんが目を赤くしている。洗濯係の少女が唇を噛んでいる。リーシェは一人ひとりの前で足を止め、名前を呼び、何かしらの言葉をかけた。


「マリーさん、焼きたてのパンの匂いで目が覚める朝が好きでした」

「エミル、よく一緒に井戸水を汲んでくれたね。ありがとう」


 誰も、何も言い返せなかった。

 泣くことしかできなかった。


 この少女が明日、魔王への人身御供として差し出されることを、使用人たちは三日前に知らされた。


 人間と魔族の停戦条約。その代償として、人間側は十年に一度、一人の人間を魔王に差し出す。今回、グランハイド公爵家は末娘を選んだ。魔力を持たない、何の役にも立たない末娘を。


 リーシェは、抵抗しなかった。



   ◇



「行く前に一つ言っておく」


 正面玄関の広間。グランハイド公爵——リーシェの父が立っていた。


 目を合わせない。この人はいつもそうだ。リーシェの顔を見ない。まるで、そこに誰もいないかのように、少しだけ視線をずらして話す。


「魔王の前では粗相のないようにしろ。公爵家の名を汚すことだけは許さん」


「はい。お父様」


 感情を消した声。もう慣れている。


 父が背を向ける。広間を去る足音。革靴が大理石を叩く、硬い音。


 その背中に向かって、リーシェは何か言おうとした。——行ってきます、とか。お元気で、とか。十七年間、一度も言えなかった言葉を。


 しかし父は振り返らなかった。


 ただ最後に、廊下の向こうから、低い声が届いた。


「お前でちょうどよかった」


 足音が遠ざかる。


 リーシェは唇を引き結んだ。泣かない。泣いたところで、この家では誰も振り返らない。十七年かけて学んだことだ。


 ——お前で、ちょうどよかった。


 要らない娘で、ちょうどよかった。


 その言葉が胸に落ちて、沈んでいく。深く、深く。慣れているはずの痛みが、今日は少しだけ重かった。最後だからだろうか。



   ◇



 馬車が正門の前に用意されていた。


 見送りはない。母は不在。長兄も次兄も姿を見せない。使用人たちは裏口から見送ってくれたが、家族の中でリーシェを送り出す者は——


「ねえさまっ!」


 足音。石畳を駆ける、軽くて必死な足音。


 リーシェが振り返ると、十二歳の少年が走ってきた。アルト。リーシェの弟。公爵家でただ一人、リーシェを「姉」と呼ぶ子。


 使用人が慌てて追いかけている。「アルト様、お父上が——」


 アルトは聞いていない。リーシェの前で足を止め、息を切らし、涙をぼろぼろ流しながら、小さな手でリーシェの手を握った。


 何かを、押し込んだ。


 花。庭の片隅に咲いていた、名前もない小さな野の花。


「ねえさま、ぼ、ぼくっ——」


 声にならない。伝えたいことが溢れすぎて、十二歳の喉が追いつかない。


 リーシェはしゃがんで、弟の目の高さに合わせた。涙だらけの頬を、そっと拭う。


「ありがとう、アルト。大切にするね」


 穏やかに笑う。——お姉ちゃんは大丈夫だよ、と言いたかった。でもそれは嘘になるかもしれないから、代わりに花を握りしめた。左手で、きゅっと。


 使用人がアルトの腕を引く。「アルト様、行けません」


 引き離される。アルトが手を伸ばす。リーシェも手を伸ばしかけて——やめた。この子を困らせたくない。この家で、この子だけは守られていてほしいから。


 小さな背中が邸の中に消えていく。


 リーシェは花を見つめた。茎が少し折れている。走って持ってきたのだろう。小さくて、名前もなくて、折れかけていて。——自分みたいだと、思った。


 馬車に乗り込む。扉が閉まる。


 走り出す。


 公爵邸が遠ざかっていく。十七年間過ごした場所。一度も「おかえり」と言われなかった場所。


 リーシェは窓の外を見なかった。振り返ったら、泣いてしまう。だから花だけを見つめた。


 涙が一粒、花弁に落ちた。



   ◇



 馬車の中で、リーシェは小さな花を胸に抱いた。


 怖い。


 魔王。人間を喰らうと噂される存在。千年を生きる闇の王。その元に送られる。帰ってきた人間はいないと聞いた。


 怖い。でも。


 ——泣いてくれる人が、一人だけいた。


 それだけで、まだ歩ける。


 馬車が大陸を南へ走る。人間の領域を抜け、魔の森に入る。光が薄くなる。空気が変わる。甘い、花の腐ったような匂いが——いや、違う。腐っているのではない。この匂いを、リーシェは知らなかっただけだ。


 知らない世界の匂いがする。


 三日間。


 リーシェは花を握りしめたまま、眠れぬ夜を過ごした。



   ◇



 三日後。


 黒い城壁が空を覆った。


 魔王城。


 人間の歴史書には「災厄の玉座」と記される場所。その門が、音もなく開く。


 リーシェは馬車を降りた。足が震えている。でも、花を握る左手だけは離さなかった。


 門の向こうに、異形の兵士たちが並んでいる。角を持つ者。翼を持つ者。人間の倍の体躯を持つ者。全員がリーシェを、無言で見つめていた。


 同行した老いた従者が、腰を抜かしている。動けない。


 リーシェは深呼吸をした。花を握りしめた。


 ——怖い。足が笑っている。でも、この人を置いていけない。


「大丈夫」


 リーシェは従者の手を取り、立たせた。


「私が先に行きます」


 異形の兵士たちの間を、小さな人間の少女が歩いていく。背筋だけは伸ばして。左手には、弟がくれた折れかけの花。


 長い回廊の果てに、巨大な扉があった。黒と金の装飾。扉の前に一人の男が立っている。銀縁の眼鏡をかけた、壮年の魔族。


 男はリーシェを一瞥した。冷たくはない。しかし温かくもない目。


「人間の御供か。名は」


「リーシェ・フォン・グランハイドです」


「——そうか」


 微かな間。その「そうか」に、何かの感情が混じったように聞こえた。でも、聞き返す余裕はなかった。


 男が扉に手をかけた。


「入りなさい」


 扉が開く。


 闇。


 広大な空間に光源は一つだけ。玉座の背後から差す、月のような白い光。


 その光の中に、人影がある。


 リーシェの目が闇に慣れるまでの、数秒。世界が変わるまでの、最後の静寂。


「——入れ」


 低い声が、空気を震わせた。



 リーシェは知らない。


 三日後。いや——あと数分後に。


 大陸で最も恐ろしいと恐れられたその存在が、彼女の前に跪くことを。


 涙を流すことを。


 「千年待った」と、震える声で告げることを。


 リーシェはまだ、何も知らない。


 ただ左手の花だけを握りしめて、闇の中へ、一歩を踏み出した。


お読みいただきありがとうございます。蒼空ルーシェです。


小さな花を握りしめたまま、闇の中へ歩き出した少女。

あの扉の向こうで、彼女を待っているものが何なのか——次話でお届けします。


一つだけ。

泣くことしかできなかった弟の花が、この先どんな意味を持つのか。

覚えていていただけたら、嬉しいです。


次回、第2話「魔王の城」。


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