表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
9/120

第1章:第8話:琥珀色の祝杯と、相棒の証

第1章:第8話:琥珀色の祝杯と、相棒の証


隣村に到着したのは、太陽が西の山の端にかかり、空が濃いオレンジ色に溶け始めた頃だった。 馬車の車輪が村の入り口の石畳を叩き始めた時、ミーシャが「あ、しまった!」という顔で俺を振り返った。


「ごめんシンジ、今日の転職は明日でいい!? もうすぐ夕市が閉まっちゃうわ! 転職の神殿に駆け込むより先に、残りの商品を全部捌ききっちゃいたいんだけど……いいかな?」


「ああ、構わないよ。俺も、まずはこの荷物をなんとかしたいしな」


俺の返事を聞くや否や、ミーシャは「よしきた!」と手綱を強く引いた。


「さあシンジ、ぼーっとしない! 宿に入る前に、全部売り切っちゃうわよ!」


ミーシャの号令と共に、村の中央広場の一角で最後の一仕事が始まった。 家路を急ぐ村人たちに向けて、シンジは昼間の経験を活かし、通りかかる人の目線に合わせて野菜の並びを微調整する。


「いらっしゃい! 鮮度抜群のリーベル野菜だよ、奥さん、夕飯の材料にどうだい?」


営業マン時代に培った、相手の懐にするりと入り込むような物腰。それが若返った張りのある声と合わさると、驚くほど客が集まった。 ミーシャが代金のやり取りをし、シンジが素早く袋に詰める。二人の息の合った連携で、馬車に積まれていた商品はあっという間に完売した。


「ふぅ……! 完売御礼! シンジ、あんた最高よ! 魔物も蹴散らせたし、売り上げも目標以上。今日は野宿じゃなくて、村で一番の宿屋に泊まりましょ!」


夜の帳が下り、村の窓々にポツポツと暖かな灯りがともり始める頃。 上機嫌なミーシャに連れられてやってきたのは、村で一番活気のある酒場だった。 重厚な木の扉を押し開けると、エールの芳醇な麦の香りと、村人たちの野太い笑い声、そして吟遊詩人が爪弾くリュートの素朴な旋律が溢れ出してきた。


「さあ、座って! マスター、一番のご馳走を全部持ってきて!」


ミーシャがカウンター越しに景気よく声をかけると、ほどなくして大振りのジョッキに注がれた黄金色のエールと、脂がじゅわじゅわと音を立てる骨付き肉のローストが運ばれてきた。


「シンジ、今日一日お疲れ様。……正直、驚いたわ」


ミーシャはエールの泡を薄い唇につけたまま、ふと動きを止めた。酒場の喧騒が遠のくほど、彼女の瞳が真剣な光を帯びていく。


「……あのまま車軸が直らなきゃ、今頃私は道端で途方に暮れてた。それに、あんたのあの『呼び込み』がなきゃ、商品は半分も売れ残ってたはずよ。私一人でも力ずくで魔物を追い払って、歩いて帰るくらいはできたかもしれない。……でもね」


彼女はジョッキを置き、テーブル越しに俺の目を見つめた。その眼差しは、昼間の明るい少女のものとは違う、一人の「勝負師」としての、そして一人の「人間」としての、嘘偽りない熱を持っていた。


「今日一日、あんたの戦う姿も、商売を手伝う姿も……全部隣で見てた。あんたは自分が『ダメだ』なんて言ってたけど、私はそうは思わない。あんたのその指先と、泥臭くても前に出ようとするその心……私は、それが凄く、欲しくなった」


ミーシャは一度言葉を切って、深く息を吐き出した。少しだけ震える手を、そっと俺の方へと差し出す。


「……シンジ。これは、仕事の契約じゃない。一人の商人として、そしてミーシャという一人の女として、あんたに正式に頼みたいの」


彼女の顔が、火影ほかげのせいだけではなく、ほんのりと赤く染まる。


「……私の『仲間』になって。……ううん、私の、唯一無二の『相棒』になってほしい。……ダメ、かな?」


その真っ直ぐすぎる言葉に、俺の胸が熱く震える。34年間、誰かにこれほどまでに「自分自身」を求められたことがあっただろうか。


「……ああ。こちらこそ、よろしく頼むよ、ミーシャ」


俺がその手をしっかりと握り返すと、彼女はパアッと、夜の闇を溶かすような最高の笑顔を見せた。


「……決まりね! さあ、私たちの門出に……乾杯!」


――カンッ!


木製の手付きジョッキが、乾いた心地よい音を立ててぶつかり合う。 冷たく、爽やかな苦味を含んだ琥珀色の液体が、戦いと労働で火照った喉を駆け抜け、五臓六腑に染み渡っていく。


(……会社での飲み会は、いつも上司の愚痴や達成不可能な数字の話ばかりだった。でも、今のこの一杯は……どうしてこんなに、喉の奥が熱くなるほど美味いんだ)


「あはは! シンジ、鼻に泡がついてるわよ! さてはあんた、そんなに嬉しいの?」


笑い転げるミーシャの横顔を見ながら、真司は心の底から、子供のように笑っている自分に気づく。 34歳の「ダメ営業マン」としての仮面は、もうどこにもない。 ここには、信頼できる相棒と、明日への確かな希望を手にした一人の男がいるだけだ。


酒場の喧騒と温かなランプの光の中、二人は夜が更けるまで語り合った。 これからの旅のこと。そして、明日こそ出会うという『転身の神官』が、俺にどんな「運命」を提示してくれるのか。


その夜の星は、いつにも増して明るく、俺たちの進むべき道を照らしているように見えた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ