第1章:第4話:産声は、鋼の音と共に
第1章:第4話:産声は、鋼の音と共に
「……ん、……あと五分……」
耳元で響く、のどかな馬の嘶きと、どこか懐かしい藁の匂い。 34年間の染み付いた習慣で、脳裏を「会社に行きたくない」という鉛のような思考が掠める。 けれど、頬に伝わる指先のプニプニとした柔らかい感触に、俺の意識は強引に現実へと引き戻された。
「ちょっと、いつまで寝てるのよ、シンジ! お日様はもうあんなに高いわよ!」
「……っ!? ……ミーシャ、か」
目を開けると、すぐ目の前にミーシャの呆れたような、けれど朝の光を浴びてキラキラと輝く笑顔があった。 慌てて起き上がると、身体が驚くほど軽いことに改めて気づく。満員電車で凝り固まっていた肩も、慢性的に重かった腰も、今は嘘のように健やかだ。
昨晩、彼女が「護衛も兼ねるなら、これくらい持ってなさい」と貸してくれた装備に手を伸ばす。 使い込まれた麻の服に、ずっしりと木の香りがする小盾。そして、しっかりと研がれた木の剣。 質素なパンとスープの朝食を大急ぎで胃に流し込み、俺たちは再び馬車を走らせた。
御者台に座るミーシャの隣で、俺は周囲を警戒する……。 いや、警戒というより、流れる瑞々しい景色に、ただただ目を奪われていた。
「……綺麗だな、本当に」
「何言ってるのよ。さてはシンジ、本当に都会育ちなのね? こんなの、リーベルの周りじゃどこにでもある風景じゃない」
ミーシャが笑いながら手綱を引く。 だが、その平穏は唐突に、そして暴力的に破られた。
――ギィィィィィィィッ!!
街道沿いの背の高い草むらが激しく揺れ、低く、湿った唸り声が響く。 馬が怯えて前足を上げ、ミーシャが短く叫んだ。
「……出たわっ! 魔物よ!!」
現れたのは、青く透き通った体躯を揺らす、数匹のスライム。 そして、その背後から這い出してきたのは、小柄だが濁った殺気を放つ、三匹のゴブリンだった。
(……来る。これが、この世界の『現実』なんだ)
足が震える。心臓が、会社で重大なプレゼンを前にした時よりも激しく鐘を打っている。 だが、隣に座るミーシャをふと見ると、彼女は怯えているというより、どこか冷静に獲物を観察するような、鋭い光を瞳に宿していた。
「……ミーシャ、馬車から離れるな! 荷台の陰に隠れてろ!」
俺はぎこちない動作で、けれど退かない意思を込めて、腰の剣を抜いた。 シュッとした新しい身体に、初めて「命を奪い合う」ための殺気が突き刺さる。
(……俺に、できるのか? ――いや、やるんだ。俺はもう、誰かの後ろで謝り続けるだけの男じゃない!)
「……ふーん」
背後で、ミーシャの小さく、試すような声が聞こえた。 彼女は手綱を握り直し、身構える俺の背中をじっと見つめている。その立ち姿には、ただの商人とは思えない、無駄のない「芯」が通っていた。
先頭のゴブリンが濁った咆哮を上げ、錆びた短剣を振りかざして飛びかかってきた。 真司にとって、本当の意味での「新しい人生」の幕が、今、激しい激突の音と共に切って落とされようとしていた。




