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第1章:第1話:黄金色の果実と小さな契約

第1章:第1話:黄金色の果実と小さな契約


「……はぁ、本当に夢じゃないんだな」


眩しい陽光が石畳を照らす、見知らぬ街並み。 俺は自分の引き締まった腹をさすりながら、その場に立ち尽くしていた。 身に纏っているのは、丈夫そうな麻のシャツと、使い込まれた風合いの茶色いズボン。安っぽいけれど、どこも締め付けない「旅人の服」は、重いビジネスバッグを肩に食い込ませていた頃の俺には考えられないほど軽やかだった。


身体が軽い。羽が生えたみたいだ。……けれど、その分エネルギーの消費も激しいらしい。


ギュルルルル……。


情けない音が、澄んだ空気に響き渡る。 (腹が……減った。最後にあいつらに揶揄われながら、デスクの隅で食べたあの味の薄いコンビニ弁当以来、何も口にしてないんだ……)


その時だった。 **コロコロ……**と、足元に真っ赤に熟れたリンゴが転がってきた。 まるで誘惑するように、俺のつま先にコツンと当たる。


「あ……」


拾い上げるリンゴからは、芳醇な甘い香りが、目に見えるほどの濃度で立ち上っている。気づけば俺は、野生の獣のようにその果実に食らいついていた。 シャリッという小気味いい音と共に、溢れ出す奔放な果汁。 現代の、糖度ばかりを求めて品種改良されたものとは違う。野生の力強い酸味と、脳を直接震わせるような濃密な甘みが、空っぽの五臓六腑に染み渡っていく。


「ぷはぁ……うまい……! なんだこれ、生きてる味がする……」


「――はい、まいど。1ゴールドね」


突然、頭上から鈴を鳴らすような、それでいて妙に図太い声が降ってきた。 顔を上げると、そこには腰に手を当て、逃がさないわよと言わんばかりの笑みを浮かべた少女が立っていた。亜麻色の髪を元気よくポニーテールにまとめ、勝気そうな瞳が俺を上から下まで値踏みするように眺めている。


「えっ……1ゴールド?」


「そう。今あんたが食べたのは、うちの馬車から落ちた最高級の『ハニー・レッド』。食べたなら払ってもらわなきゃね。……あ、もしかして、持ってないの?」


彼女は、俺の新しい「旅人の服」をじろりと見た。 「……あんた、服は普通だけど、中身はいい身体してるじゃない。筋肉のつき方が、そこらの怠け者とは違うわね」


「……すまん。今、一文無しなんだ」 「やっぱりね。……いいわ、私はミーシャ。見ての通り、これから露店を広げるところなの。お金がないなら、たっぷり『身体』で払ってもらうわよ、お兄さん!」


ミーシャは俺の腕を強引に引っ張り、野菜や果物が山積みになった馬車の方へと連れて行く。 会社員時代、上司の顔色を伺いながら分厚い報告書を運んでいた俺が、今度は異世界の少女に顎で使われ、カゴを運び、声を張り上げて客を呼ぶことになった。


「いらっしゃい、いらっしゃい! 採れたての新鮮な野菜だよ!」


最初は戸惑った。だが、身体を動かすたびに、若返った筋肉が喜びの声を上げる。 カゴいっぱいの重いジャガイモを運びながら、俺は隙を見て、ずっと喉の奥に引っかかっていた疑問を口にした。


「……なぁ、ミーシャ。ここって、一体どういう場所なんだ? いや、その……『どんな世界』なんだって言えばいいのか……」


自分でも要領を得ない問いかけだとは分かっていた。だが、目の前の石造りの建物も、自分の若返った身体も、あまりに現実味がなくて、言葉が宙に浮く。


「……それに、その。例えば……『剣と魔法』とか、あるいは『魔王』とか……そういうのが、本当にいたりするのか?」


俺の、あまりに要領を得ない、それでいて必死な問いに、ミーシャはジャガイモの土をポンポンと払いながら、呆れたように鼻で笑った。


「はぁ? あんた、どこから来たのよ。頭でも打ったわけ?」


彼女は腰に手を当てて、街並みをぐるりと指差した。


「ここは地方都市リーベル。王都から馬車で何日もかかるような、のどかな片田舎よ。……そりゃあ、街の外に出れば凶暴な魔物だって出るし、あんたが言うような剣を振るう冒険者も、魔法を操る魔導士だって、ギルドに行けばいくらでもいるわよ。それが『普通』でしょ?」


ミーシャは、そこまで言ってから、少しだけ声を潜めて肩をすくめた。


「でも、魔王だの勇者だのっていうおっかない話は、今はまだ物語おとぎの中の話みたいなもんね。そんな大層な噂、王都の騎士団様たちが酒の肴にするようなもんでしょ。この街で一番の事件っていえば、せいぜい隣町の若い衆が祭りで暴れたとか、そんなレベルよ。ほら、ぼーっとしない! 良い声してるんだから、もっとそこの奥様を呼び込んで!」


働きながら聞く話は、どれも新鮮だった。 ギルドという組織の実在、魔法が日常の一部であること、そして外の世界には本当に命を脅かす魔物がいるということ。


(営業は苦手だったはずなのに……。このミーシャとかいう小生意気な女の子の手伝いをしている今は、不思議と、あの会社にいた時のような泥を啜るような息苦しさがないんだ……)


若返った俺の身体は、心地よい労働の汗をかき始めていた。 石造りの街に響く自分の声が、これまでになく力強く感じられた。


34歳の「ダメ営業マン」だった俺の人生は、あの日終わった。 そして、この穏やかなリーベルの空の下で、新しい俺の物語が、今、静かに動き出したんだ。

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