第5章:第111話:断崖の博打、泥濘の脱出行
第5章:第111話:断崖の博打、泥濘の脱出行
…
豪雨は、もはやカーテンのように視界を遮り、叩きつける水音は互いの怒号すらもかき消していた…
目の前に立つ黒鉄の騎士。
その掲げた大盾は、フィリアの精霊の矢を無造作に弾き、セシリアの回復魔法の残光すらも虚無へと飲み込んでいく…
「……っ、ハァ、ハァ……! シンジ、このままじゃ……全滅よ!」
ミーシャが泥濘に足を取られながらも、鋭く叫ぶ。
ガルド隊長は、片膝を突き、折れた槍を杖代わりにしながら、立ち塞がる黒い死神を睨みつけていた。
「分かってる……ッ! 正攻法じゃ、あの盾は抜けない!」
シンジは、痺れた右腕を左手で強引に回し、感覚を取り戻そうと唇を噛み切った。
鉄の味が口中に広がる。
(魔法が無効なら、物理的な『現象』で何とかならないか…)
「みんな、俺に合わせろ! 一回きりの勝負だッ!!」
シンジの声が、雷鳴を切り裂いて仲間に届く。
「……っ、心得ました! 精霊よ、一時の凪を!」
フィリアが残された最後の魔力を振り絞り、弓を極限まで引き絞る。
「わ、分かりました……っ! 皆さんを、守って……!!」
セシリアもまた、泥に濡れた法衣を翻し、震える手で聖杖を掲げた。
「――仕掛けるぞッ!!」
シンジが地を蹴った。
最初の一手は、殺傷を目的としない、泥臭い撹乱。
「『砂けむり』……ッ!! 泥にまみれろッ!!」
雨に濡れた重い砂と、足元の泥濘を、シンジの短剣が豪快に跳ね上げる。
立ち込める土煙と泥の飛沫。豪雨の中では、それは一瞬で重い泥の塊となり、黒い騎士の兜の覗き穴、そして光を吸い込む盾の表面を物理的に塗りつぶした。
「……姑息な真似を」
黒い騎士の声に、初めて微かな苛立ちが混じる。
視界を奪われた騎士が、反射的に盾を突き出したその瞬間。
「フィリアッ!! 今だッ!!」
「……貫けッ!!」
放たれた矢は、騎士の本体ではない。その足元、雨水を含んで限界まで脆くなった『地盤』へと突き刺さる。
精霊の力が大地を震わせ、泥濘をさらに滑りやすく、底なしの沼へと変質させた。
「なっ……!?」
巨躯を支える重厚な鎧が、皮肉にも自らの重みで泥の中へと沈み込み、黒い騎士の体勢が大きく崩れた。
「ガルド隊長! 今ですッ!!」
「……応よッ!! 総員、退けェェッ!!」
ガルドの号令と共に、生き残った二十五名の兵士たちが、一斉に隘路の奥へと駆け出す。
だが、黒い騎士はまだ止まらない。泥の中から這い出そうと、黒い長剣を地面に突き立て、執念深く四人を追おうとする。
「……最後だ、これでおしまいよッ!!」
ミーシャの叫びに応えるように、シンジが岩壁へと飛びついた。
見上げる先には、雨によって亀裂が入り、今にも崩れ落ちそうな巨岩。
「……頼むぜ、相棒ッ!! 『ウイングブロウ』ッ!!」
シンジの拳から放たれた、最大出力の衝撃波。
それが岩壁の急所を直撃した瞬間、山全体が悲鳴を上げた。
「ガ、ガァァァッ……!!」
轟音と共に、数トンに及ぶ土砂と巨岩が、滝のように黒い騎士の頭上へと降り注ぐ。
あの無敵を誇った黒い盾も、重力に従って落ちてくる大地の質量までは防ぎきれない。
ズゥゥゥゥゥンッ……!!
大地を揺らす衝撃と共に、隘路は完全に塞がれた。
土煙と雨霧の向こう側。黒い騎士の姿は、冷たい土塊の下へと完全に没していた。
「……逃げるわよ! 立ち止まらないで!!」
ミーシャの手綱がしなり、馬車が猛然と走り出す。
シンジは、崩落した土砂の山を一度だけ振り返った。 あの下から、再び黒い腕が這い出してくるのではないか……そんな恐怖を、降りしきる雨が洗い流してくれることを願いながら。
「……ハァ、ハァ……。やった、のか……?」
「……ひとまずは、ね。でも、これで終わりじゃないわ」
ミーシャの瞳は、すでに前方の闇を見据えていた。
四人と、満身創痍のガルド隊長たちは、泥にまみれ、息を絶え絶えにしながらも、ついに死地を脱した。
背後に残されたのは、沈黙した黒い墓標と、止まない雨の音だけだった。
命を繋いだ。 その重みを、シンジは泥だらけになった掌の震えで、痛いほどに感じていた――。




