第5章:第108話:血路の撤退、北西への咆哮
第5章:第108話:血路の撤退、北西への咆哮
石畳を叩く雨のような魔物の足音。
シンジの腕は、もはや自分の意思で動いているのか、それともただの反射なのか分からなくなっていた。短剣を振るうたびに走る鈍い痛み。
隣で弓を絞るフィリアの指先からは血が滲み、セシリアの祈りの声は、枯れて掠れた悲鳴に近いものへと変わっていた。
「……っ、ハァ、ハァ……! ミーシャ、まだか……ッ!?」
シンジが魔物の首を蹴り飛ばし、背後のミーシャへ叫ぶ。 だが、その叫びをかき消すような、野太い怒号が広場に響き渡った。
「――全軍、撤退だッ!! 陣を畳めッ!!」
声の主は、ボロボロになった青い外套を翻す、正規軍の指揮官の声だった。
「これ以上の維持は不可能だ! 負傷者を中央へ! 北西、カルディアを目指して引くぞッ!!」
「……っ、バルディアを捨てるっていうの!?」
セシリアが、避難民を庇いながら悲鳴を上げる。 だが、ミーシャの瞳は冷徹なまでに戦場を捉えていた。
彼女は指揮官と一瞬だけ視線を交わす。言葉はなくとも、その瞳の奥にある『生き残れ』という戦士の誓いを、彼女は確かに受け取った。
「シンジ! フィリア! セシリアッ!! 馬車へ戻るわよ! 私たちが殿を務める正規軍の横を固めるわッ!!」
ミーシャの鋭い号令に、四人は弾かれたように走り出した。 背後からは、獲物を逃がすまいとする魔物たちの、地を這うような咆哮が迫る。
「させるかよ……ッ! 『砂けむり』!」
シンジが最後の一掻きで砂を巻き上げ、魔物の視界を奪う。その隙に、四人は残してきた馬車へと飛び乗った。
幸いにも、馬車はまだ無事だった。積み込まれた大量の武器と食料が、激しい揺れと共に音を立てる。
「……合流するわよ! 遅れないでッ!!」
ミーシャが手綱を荒々しく引く。馬車は正規軍の退却列の側面へと滑り込み、血路を切り開くための巨大な楔となった。
右には、必死に剣を振るい続ける兵士たちの列。 左には、家を、財産を、そして家族を失い、ただ泣きながら歩く民たちの列。
シンジは、馬車の荷台から燃え盛るバルディアを振り返った。 夕闇に染まり始めた空を、黒煙がどこまでも汚していく。
「……カルディア、か」
その街に何が待っているのか、今はまだ分からない。
潮騒の消えた街を背に、四人の、そしてバルディアの生き残りたちの、命を懸けた北西への逃避行が始まった――。




