プロローグ:境界線を越えて
プロローグ:境界線を越えて
湿ったアスファルトが放つ、埃っぽい雨上がりの匂い。 34歳の俺、佐藤真司は、ひび割れた交差点の隅で、肩に食い込むビジネスバッグの重みに耐えていた。
「佐藤さん、また未達っすか? 効率悪いっていうか……正直、やり方古くないっすか?」
年下の後輩が向けた、あの蔑むような薄笑い。ネクタイを締め直す指先は、趣味の模型作りでこびりついた塗料と、コンビニ弁当の摂りすぎでむくんだ肉で、ひどく不格好に見えた。 言い返す言葉なんて、もう何年も前に枯れ果てている。俺にあるのは、中途半端に積み上がった「作りかけのプラモデル」の箱と、情けなく膨らんだ腹回りだけだ。
(……あーあ。どっか、誰も俺を知らない遠くへ行きてぇな)
青信号が点滅する。思考を止めたまま、重い足取りで一歩を踏み出した、その時だった。
キィィィィィィィィッ!!
鼓膜を切り裂くような金属の悲鳴。視界を真っ白に塗りつぶす、暴力的なヘッドライトの光。 不思議と衝撃はなかった。ただ、身体が羽毛のようにふわりと浮き上がり、自分の吐いた息の白さだけが、スローモーションで闇に溶けていくのが見えた。
(ああ……俺、死ぬのか。結局、誰の役にも、何の結果も残せないまま……)
「……ちょっと、いつまで寝てるのよ。目覚めなさい、迷える魂さん」
鈴を転がすような透き通った声。……のはずなのに、どこか「面倒くさそう」な響きが混じった呼びかけに、俺は意識を浮上させた。
そこは上下も左右もない、どこまでも透き通った純白の空間だった。目の前には、現実のどんなモデルも足元に及ばないほど、神々しい美しさを湛えた女神が立っている。 深い青色の髪を揺らし、慈愛に満ちた……いや、よく見ると「早く仕事を終わらせてお茶にしたい」と言わんばかりの、少し尊大な瞳で俺を見下ろしていた。
「あなたは命を落としました。不運だったわね、あんなトラックに跳ねられるなんて。でも安心して。あなたの心に眠る『創造の火』を消すには、あまりに惜しい……。というか、これ、私の査定にも響くのよね」
あまりに唐突で、そしてどこか世俗的な理由を口にした女神に、俺は呆然とする。女神は(あ、今の失言だったかしら)という顔で一瞬だけうろたえたが、すぐに優雅な微笑みを取り繕い、俺の胸にそっと手を置いた。
「大丈夫。次はもっと、身軽になれるはずですよ。……あ、向こうに行っても、私の名誉を傷つけるような恥ずかしい死に方だけはしないでちょうだいね?」
視界が再び光に包まれる。彼女の指先から伝わってくるのは、圧倒的な神の力と、それ以上に「なんとかしてよ!」という必死な祈りに似た、妙に身近な温もりだった。
「……ん、っ……」
頬を撫でる、乾いた風の心地よさに目を開けた。 鼻を突く排気ガスの臭いではない。そこにあったのは、焼きたてのパンの香ばしさと、石造りの建物の重厚な佇まい、そして遠くから聞こえる馬の嘶きと活気に満ちた人々の喧騒だった。
「ここは……?」
慌てて立ち上がろうとした瞬間、俺は自分の身体を貫く「衝撃的な軽さ」に息を呑んだ。 立ち上がるたびに悲鳴を上げていた膝の軋みが、どこにもない。ベルトの上で見苦しく揺れていた重い肉の塊が、まるで最初から存在しなかったかのように消え去っている。
自分の手を見る。 むくんでいた不恰好な指は、驚くほど細く、しなやかに引き締まっていた。手の甲をなぞれば、そこにはかつての自分が遠い昔に失った、吸い付くような若々しい皮膚の弾力がある。
「えっ……若返ってる……? それに、この身体の軽さは……なんだ……!?」
まるで重力そのものが優しくなったかのような高揚感。 目の前に広がるのは、かつて画面越しに憧れ、夢中で模型を作っていたあの「中世ファンタジー」の世界そのものだった。
34歳の、何者にもなれなかった「佐藤真司」の人生は、あの日、冷たいアスファルトの上で終わった。
そして―― 新しい俺の人生が、この輝く世界で、今、産声を上げたんだ。




