第8回
「ほんに、待ちかねておったぞ。たかだか魔断風情が、いみじくも私に卑怯との口上を述べた、あれはいつぞやのことであったかの。
おまえも見たであろう? 宙天を巡る月は、もはやその面影もとどめてはおらぬわ。いいかげん思わせぶるのはおやめ。おまえなぞがこの私に意見することすら身のほどを知らぬというに」
自ら口にすることでそのときのことを思い出してか、そこで一度誘は言葉を止め、形の良い細指を膝の上で軽く組みあわせると、幼子さながらあどけなく徴笑んだ。
「まあ、時にはこういうのも一興かの。
かわいいおまえでなくばその生気、とうに喰ろおておったわ。弱者の遠吠えほど、聞くに堪えぬものはないゆえ。
それで? 凍稀、心は決まったかえ?」
優雅に波打つ黒髪を梳いた手を差し伸べてくる。
来いというのか。跪き、その手に口付けろと?
そうするに決まっていると思われていることに一瞬で赤く染まった頭中で、凍稀は返す返すも忌々しい、誘の言葉を思い出していた。
この姿を気に入って配下の者になれと提案した、その傲慢さを。
はねつけた途端、誘はシャナと自分を引き離し、まるで虫けらを扱うように彼女を殺した。
「……だれが、きさまなどの……!」
こみ上がる熱い憤怒にのどをふさがれ、言葉が続かない。
誘より漂い来る負の気に反応して活性化を始めた脇腹の傷の具合をはかりつつ、剣柄を握る力をさらに強めた凍稀を見下ろしながら、何を思ってか、ちらと男は背後の扉に目を向けた。
「まあ、そのような顔をして。ほんにかわいいこと」
自分を強く睨みつけてくる凍稀を見て、誘は嬉々として目を細め、ほほ、と笑う。まるで拗ねた子どものたわいない駄々を受け流すように。
だがその面が再び元の涼しやかな表情を取り戻したとき。瞳には、かすかに怒りと呼ぶべき鈍色が混じっていた。
それは、事が自分の思いどおりにならないことへのいら立ち――幼な子同然の、肥大しきった醜い我であるはずなのに、なぜか、それすらも彼女をよりあでやかな華へと変え、魅了の力を増加させてしまうようである。
現実とはなんと冷酷なものか。
「凍稀、そろそろ我を張るのはおやめ。そのように隠そうとしたとて私に分からぬはずがなかろう。おまえの内を侵す闇は、私に属する。
わがままも、もう十分であろう。それ以上おまえの美しさが損なわれるのは私も見るに忍びぬ。さあここへ来て、私の手を取るがいい。私の眷属におなり。さすれば身を蝕むその闇ですら、おまえの支配に甘んじよう」
それほど高いわけでもないのだが、細部まで消えることのない声が、部屋中に朗々と響き渡る。
その偽善めいた誘惑に、凍稀は言葉としては何も返さなかった。すらりと鞘から破魔の剣を抜き放ち、切っ先を玉座の2人に向けてかまえる。
「わがきみ」
その礼儀というものに欠けた姿に、これまで無言で背後に控えていた魘魅が誘の耳元でささやいた。
「どうやら愚かな今のあやつめには、わがきみの温情ある御心も通じぬ様子。
ここは私めにお任せ願えませぬか?」
「巳麻?」
ちらり、誘の視線が脇の配下の者へと向けられる。巳麻との名で呼ばれた魘魅はここぞとばかりにあざやかな笑みをその朱唇に浮かべ、自信満々に告げた。
「わがきみのおめがねにかない、あえて見逃されたわがきみのせっかくのご温情も理解できぬ様子。あの自惚れに盲いた目を私の力で多少なり開かせてやれば、泣いて御手にすがり、その慈悲を請いましょうや」
どうやらこの生まれて日の浅い若い魘魅は、自分の内にある力をふるいたくてしかたないらしい。
主君の対話中、求められたわけでもなしに意見を述べるなど従者としては少々出過ぎた行為ではあったが、その自信にあふれた不敵な笑みが、傍らへその身を置くことを許した理由のひとつでもあったために、怒りを買うまでには至らなかったようだ。
しかしその申し出もまた、受け入れられることなく退けられた。
「よい巳麻。私がしよう」
立ち上がり、ぱさりと肩かけをその場へ落とす。
「誘さま!?
なにもあのような不遜な輩をわがきみがじきじきにお相手なさらずとも――」
急いで椅子を回り、脇についた巳麻のあわてようがおかしくてたまらないというように、誘は鈴のような声でころころと笑った。
「なに、私も少々退屈しておった。
かわいい飼い犬の仕付けは、主の務めであろう」
楽しげにそう言う。
「おさがり」
何気ないその一言が誘の唇を離れた瞬間。
驚きの表情を浮がべたまま、巳麻の姿はかき消すようにその場から消失していた。
「さて、凍稀。3の昼、3の夜もの時を重ねてもそれとは、少々物分かりが悪すぎるというもの。己の分というものをわきまえぬ犬に仕置きは当然のこととはいえ、それ以上傷つけずに傍らにと望んでおった、私の失意も汲んでおくれ」
さも残念そうに口にしながら夢見心地で弧を描くように手を掲げ、指を鳴らした直後。その先から突如として巻き起こった風は、容赦なく凍稀たちへと襲いかかったのである。
「くっ」
手で顔と胸を庇い、踏みしめた足に力をこめる。押されながらも耐えるその後ろで、直撃を受けた頑健な扉の片方が壁ごとはがれて弾けとんだ。
風という形をとってはいたが、それは一般的に呼ばれる『風』とは根本から違う。
ひれ伏せとばかりに、ごうと吹き荒れる力は凄まじく、凍稀が対抗して張った力の防御壁をたやすく削り落としていく。ほつれた箇所からもぐりこんだ力は凍稀の力に中和される前に服を引き裂き、手や頬を切りつけた。
力が違いすぎる。
完全に破られるのは時間の問題だったが、対抗しようにも動くことさえ今の凍稀にはままならない。
耐えかねた柱や床、壁にひびが入り、亀裂が走る。
これだけの力が直撃すれば、腕が飛ぶだけですまないのはまず間違いないだろう。本当にこれで惜しがっているのか……それはともかく、そうなる前に何か手だてはないかと周囲へ視線を走らせた彼の視界に入ったのは、黒に近い深い紅色の炎の防御壁を張った男の姿だった。
さすが千を越えた魔断というべきか。地鳴りめいた、低い、重い音がして床からはがれたタイルが風に乗り、向かってきていたのだが、それすらも彼の張り巡らせた炎に触れた瞬間、かけらも残さず蒸発していく。
その様は、見ているこちらの方が小気味いいほど派手で、力にあふれている。
だが男自身はなぜか、自分たちにこれほどの力をふるってくる誘を警戒する様子を見せず、むしろ無視するように彼女に背を向けていた。
「ほ。これはまた、なんともめずらしいものがおったとみえる」
きらきら輝く瑚珀の目を細めて、ゆうゆうと段を下りた誘が告げる。
「卑しい剣ごときの身でそれほどの力を導こうとは。この私も初めて目にしたわ。みごとぞ、火炎系の」
誉めながらもどこかで嘲た声だ。
それでも私には遠く及ばぬがの。そう付け足した言葉に触発され、彼女へ走らせると思われた目はしかし誘へ向く途中で伏せられ、男は雑な仕草で前髪をかき上げると、そのまま出口へ向けてすたすた歩き出した。
「お待ち! おまえ!」
自分を無視するという、尊大すぎる態度に腹を立てた誘の止めがすぐさま入る。
男は、自分に向けてさらに強まった風に、タイルだけでなくはがれた壁や柱の瓦礫片まで飛んできたことに、肩越しに振り向いて、まるで言わなきゃ分からないのかとでも言うように息を吐くと、ようやく口を開いた。
「ああ面倒くさいな。俺にかまわず勝手にやってろよ。あんたの目的はこいつなんだろう?」
「なに?」
その横柄な物言いに、ぴくりと誘の眉が反応し、目がきつく締まる。そんな彼女の姿にも怖じる気配を見せず、男はさらにこう言った。
「あいにく俺のほうにはこいつをかばう義理はないし、その気もないから安心していいよ。あんたとやりあう気もない。
お互い、自分の目当てのことだけしような」
じゃあね。
さらりと手を振って背を向ける。男には、誘を恐れ、警戒する気は一切なさそうだった。
魅妖の町で魅妖本人を前にして、一体どこへ行こうというのか。
再び歩き始めた男が踵を下ろそうとした先の床が、次の瞬間下から突き上げられたようにせり上がって割れる。間をおかず、割れた瓦礫片から噴き出した風をぎりぎり紙一重でかわす様を見て、おかしそうに誘が笑った。




