第5回
「おい、起きろ」
そう言って触れられた肩よりも、ひそめられた声に含まれた緊迫感が、凍稀を眠りから揺り起こした。
いつの間に眠ってしまったのか……横になっていた身を起こして目をこすり、しぱたかせる。まだ夢の中なのではと迷った。それほどに闇の蒼さは深く、朝の気配は遠かった。
「なにか……」
「いいご身分だよなぁ、全然気付かず寝てられるんだから」
傍らに片膝をついた男から皮肉った返事が返る。
凍稀はここにたどりつくまでの2日間、気を張り通しだったのだからその疲れから深い眠りに陥るのはしかたのないことなのに、男にはそれすら許す気はなさそうだった。
ただ黙して洞穴の入り口を見続けることで、凍稀に自力で今置かれている状況を悟ることを促す。
まだ睡魔が抜けきっていなかったのか、あとで思い出せば赤面してしまうほどだらしなく、なんの気構えも持たずに男の視線を追った先。そこにある影を目にして、凍稀は愕然となった。
一瞬で眠気は消滅し、かわりのように底冷えのする寒気が地面についた手足を伝って忍び入ってくる。
それは影に釘づけになって、他の一切に対して全く無防備でいた凍稀をたやすくからめとり、瞬く問に頭中をしびれさせた。
まさか、そんな。
あり得ない、これはやはり夢だと、朦朧とした頭で口走る。
こんな現実、あるはずがないのだ。あるとすれば夢の中。現実に戻った瞬間、もう二度と見ることのできない悲しみに暮れ、絶望し、自ら死を選びたくなるほど残酷な、悪夢でのみ存在する光景。
まさに地獄と呼ぶべきその光景は、今凍稀の身をおく空間に現実として存在していた。
どれだけ否定しようとも、確固たる事実として。
外部へ向けて大きく口を開けた洞穴の入り口からは、まだ夜気におおわれた暗い空が見えていた。黄砂混じりの黒土と、土中がら突出した岩の群れ。雨はすっかりやんで、予想していたとおり霧が出ている。
そして、風に乗ってゆっくりと砂漠から流れこんでくる霧を膝の下辺りまでまとわりつかせ、岩壁に手をかけて、いたのだ。それは。
王都で流行りの上品なドレープがたっぷりとついた、ゆったりめの白のミニドレスの上からも十二分に分かるその豊満な肉体は、年ごろの女性らしく丸みを帯びて、なんとも艶っぽい。
壁に肩を預けて腕を組み合わせると、胸の形はさらにはっきり表れた。ゆるく足を交差させたなら短めの裾丈はますます上がり、形良い足が太股の半分ほどまで露出する。
蜂蜜色の髪は豪奢に波打ち、夜明けが近いことを告げる微風に前髪が細かく震えている。その間からは、洞穴内からの火に照らされた金と緑の瞳が明るく輝いていて……。
まるで誘っているようなそのさまは、なまめかしく、生身の魅力にあふれたものだった。
にこやかな表情。
かすかに開いた桃色の唇は、今にも「凍稀」と発しそうだ。
「まさ、か……」
からからに乾いたのどから、かすれたつぶやきがこぼれた。
絶対にあり得ないと告げる理性と、そうであればいいという願望が真っ向からぶつかり、交錯し、火花を散らしてめまいを起こす。
だがたとえどれだけの知識と理性が彼女の死を現実として受け入れろと叫ぼうとも、こうして彼女の命ある姿を前にして、抱きしめたいという衝動を抑えきれるはずもなかった。
挑戦的に覗きあげる目。右肩を疎めて笑う癖。
「シャナ……!!」
名を呼び、立ち上がって駆け寄ろうとする凍稀。
その肩を、次の瞬間すっかり存在を失念していた男がつかんで地面に引き倒した。
「おまえ、ばかかっ!? あれが『人』に見えるのか、おまえ!」
おまえの目は節穴か!!
腹立たしそうに言ってくる、男の言いたいことは凍稀の本能もとうに悟っていることだった。
そうだ、人であるはずがない。あれほど禍々しい力に溢れた存在が、到底人であるはずがないのだ。
全身から放出される力は、身を置いた空間すら歪ませるほど負の気を帯びている。
まだこの世に誕生して二百数十年。シャナが初めての主だが、これほどの力を持つものの呼び名は凍稀もよく知っていた。
魘魅。
魅妖などが己の有り余るカの一部を移送した物に人格と仮の命を与えた、禍いモノだ。
今この近辺に現れる魘魅であれば、まず間違いなく誘の配下の者だろう。
だがどうだ? あの瞳が、あの体が、シャナではないというのか。
あの瞳がもう一度命の輝きを取り戻してくれるなら、こんな自分など死んでもいいと、あんなに願ったのに……。
そうだ、そんなはずがない。シャナが、魅魎に汚されるなんて。まだ神が自分の願いをききとどけられたのだと信じた方がましだ。
「シャナ……」
真実を確かめたい気にかられ、再びひざを立たせようとした、直後。
「だーっ! もおっ! 寝てろ、おまえはっ!」
自分で起こしておきながら勝手なことを口にして、立とうとした先から男が服をつかんで引き戻し、荒々しく地面に押さえつける。
押さえこまれた下からなおも食い入るように見つめる、そんな凍稀の狼狽ぶりをさんざん楽しんだあと、女はくつりと嗤って髪を梳きつつ口を開いた。
「誘さまの気の満ち溢れたこの一帯にまるで似つかわしくない、目障りな歪みを感じて来てみれば。魔断が2匹とは。これはまたずいぶん奇妙な組み合わせだな」
つい、と視線を巡らせて、彼らの背後を見る。
「ふん。やはり人の気配はなし、か」
そうつぶやいた直後。こらえきれないとでもいうように、ククッとのどを震わせた。
「わがきみは聡明なる御方であられる。大敗という現実を直視することもできぬ、目のくらんだ愚かな魔断が戻ってくるなど、われには想像だにできなかったことをこうして予見されるとは」
その嘲りを、凍稀が聞いている様子はなかった。言葉の意味すらつかんでいないようである。
ただじっと、彼女の見せる仕草ひとつひとつにまで注目し、どこか、ほんのわずかでいい、シャナとの相違点が見つかることを求めてひたすら凝視していた。
しかしどこからもそれを見つけることができず、声すらも耳になじみのあるものであることに打ちひしがれる。
当然だ、あれは全部、シャナの持ちものなのだから。
けして似せているわけではないと、いまいましい思いで確信する。
シャナを穢しているのだ。
だがそれならそれで、まだ希望はあった。
ときに魅魎は気まぐれで人間の体に憑依することがある。
シャナほどの美貌の持ち主の体であれば、魅魎が好んで戯れてもおかしくない。
彼らは生きた人間にしか憑依できない。その魂をむしばみ、生気を削って、力をふるうのだ。
あのときシャナは誘の闇に捕らわれていた。自分は彼女を腕に抱いて、はっきりとその死を確かめたわけじゃない。
もし……もし、シャナは生きていて、魘魅に愚依されているのであれば。一刻も早く憑離させなくては、シャナが、本当に死んでしまう――――。
「やめとけ」
壁に立てかけてある剣にちらと目を配る動作で何を考えたか読まれたか。すかさず男が彼を押さえ込んだ手に力を入れて、止めてきた。
「ばかな夢を見るな。
あの球が結界を張っている限り、やつは入ってこれない。挑発に乗って、自分のほうから出ていくような愚かなまねはするなよ」
軽率な行動はつつしめと諫めてくる。
そのとおりだった。
男が転がした竜心珠まがいの球は、いまだ高められた純粋な気を立ちのぼらせ、自分たちと彼女との間に不可視の壁を作っている。彼女も、触れたならそれがどういった反応をみせるか知っているからこそ、歩み寄ろうともせずあそこでああしているのだ。
昔からの一般的な評価として、おおよそ我慢という言葉からは縁遠く、はなはだ短絡的であるとされる魅魎が、その自分の言う『目障りな歪み』を発見して、いつまでもあんなふうにかまえていられるだろうか。
凍稀が目覚める前からそこにいて、なおかつ何も手を出してこようとしない。何かを待つふうでもなく、無駄に時間をかけることはもっとも忍耐のいることだ。魅魎にはたしてそれができるのか?
触れればただではすまない結界が、あの小さな球が、彼女の目論見を阻んでいるのだ。
かといって退き、このまま放置しておくなど自尊心に傷をつけることになる。この程度の空間にしか張り巡らせることのできない小さな結界に手出しできず、おめおめ逃げ戻ってきた、そう思われるなど我慢ならない――どうせそんなとこだろう。
シャナの姿にかき乱され、彼女を救うことで占められていた頭に、そう、冷静に判断する思考力が戻ってきた。
生涯の敵である魅魎を前にしたなら、もっとも合理的でより良い退魔の手段を探そうとする――どこまでも、自分は魔断なのだ。
そのことに、やましさまで感じてしまう。
目を伏せたことでそんな弱い感情を悟られたか。彼女は岩から身を離すと正面に向き直った。
その目は、凍稀へと向けられている。
「わたしを見ただけでそれとは。これはまたずいぶんと弱腰な魔断だね。
どうした? わがきみに切っ先を向けるような、己の力量も把握できぬ愚か者の仇をとりにきたのだろう? だったらさっさと行動に移したらどうだ。いつまでそこでそうして地に這いつくばっているつもりだ?」
目を細め、腰に手をあててせせら笑う。
星一つ見えない夜空にかかる三日月のように孤高で、しかしその数倍もの残虐性をはらんだ笑みを、その口元にはいて。
一度言葉を切り、彼らに相応の反応を望む間を空ける。が、なおも沈黙を続ける2人に対し、いら立ったように髪をかき上げ、さらに彼女は続けた。
「おい。聞いているのか? こうしてわざわざこちらから出向いてきてやっているのだぞ。なのにおまえたちときたら、いつまでもそうやってそこに逃げこんでいることしかできないのか?
はっ。つくづく腑抜けた輩だ。
まあ、人などに飼い馴らされて満足しているような、いじましい、誇りがかけらもない軟弱者にはその程度の強がりが精一杯だということは、理解してやれんでもないがな。
そう、憐れんでやるよ。己より強い存在には逆らえないのが、畜生の本能だからね」
口元に手を添えて、くくっと笑う。その高慢極まりない姿に凍稀はこぶしにした手を震わせた。
シャナの体を使い、そうやっで彼女をおとしめ続けることに歯ぎしりする。
四肢に力を入れ、背に乗っていた男の腕ごと身を起こした。
この状況を続けるのは、もう一秒も堪えられそうになかった。
あんな奴がシャナの中にいるなんて。
許せない、との考えが、腹底からこみあげる冷たい怒りと結びつく。
なんとしても、憑離させてやる!




