第3回
竜心珠とは、主に結界強化に使われる道具である。
フォリアス国にある岩壁に黒々と焼きついた竜の影の心臓部から発掘された石でできており、内にこもった高貴な力のみを残して研磨されている物だ。その内に秘められた力は、上級魅魍と呼ばれる魅魔や魎鬼帝をも封魔し、自然浄化させてしまうほど大きいという。
もっとも、それは使用者にそれだけの力を操れる技量があればの話で、個人では持て余すほどにあるその力は、実際には退魔法師たちが町などに張り巡らせる守護結界を強化するために使用されている。
400~500年ほど前、魅魎の襲撃に遭って岩壁は破壊された。今では数の限られた物だ。数字にすれば軽く国の予算50年分には相当するそれを、なぜ個人で所有できているのか……。
驚きに目をしばたかせながら、もっとよく見ようと注意深く目を凝らし、そして凍稀はようやくそれが別物であることに気がついた。
よく似ているが、違う。本物の竜心珠も翠がかってはいるがどちらかといえば青自く、そして力は内部に抑えこまれて普段は無に近いはずだ。これは、わずかだが力がもれている。
率直にそういったことを口にしたなら、男は顔をしかめて身を後ろにひいた。
「ま、これは試しに作ったやつだからな」
でもそれなりの力はあるんだぞ。
得意げに言った言葉には、素直に頷いて同意を見せる。
そんな凍稀に気をよくしてか、しばらく手の中で弄んだあと、男はおもむろに外のほうに向かってそれを転がした。
入り口へたどりつく途中の小石にぶつかって止まったそれは、そこで朱金のカを煙のようにくゆり出し始める。天井に触れ、壁を伝って地に降りて対流を始めたそれは、やがて薄霧の幕となって広がった。
あれだけの力がこもっていれば、ゆうにこの洞穴くらいの範囲は結界内に封じられるだろう。
どうやら本当に安心して身を休めることができそうだと、確信できた途端、凍稀はずっしりと両肩にのった重しを感じた。
先の闘いの折り、右膝につけられた傷がうずく。手も足も、どこもかしこも張ってパンパンだ。こめかみがやたらズキズキと痛み、頭も重い。
極度の緊張を解いたためだというのはすぐに悟れた。
軽く頭に手を添えたとき。男が話しかけてくる。
「あれがどうして竜心珠じゃないと分かったんだ? 本物を見たことでもあるのか?」
前髪をかき上げて梳く。その仕草に、男の髪が黒でなく、これまた瞳に負けない深い紅であるのを確かめつつ、凍稀は答えた。
「そうです。わたしの町にもありました」
「……おまえの?」
きらり。
なにやらあやしい色合いをした光が男の瞳中を走ったような気がしたが、それは自分をよく見ようと傾げた首の角度のせいかもしれないと思い直す。
一応このことについては箝口令が言い渡されていたが、今は口にしたところでもはや意味のないことだと、凍稀はさして注意も払わず説明を続けた。
「20日ほど前に町長が砂漢商から購入したんです。ああいった物は法師の管轄ですから、あまりよくは見ませんでしたけれど」
「それは? まだ町にあるのか?
ああ、あるわけないか。あったら魅妖なんかに襲われるわけないもんな」
自答して岩壁に背を凭せかけた男に、しかし凍稀は首を振ってみせた。
「いえ、もともとそれは王命により代理購入した物で、厳重に箱にしまわれていました。もう1日2日ほどしたら王郁より使者が到着するはずだったんです。それに……」
口にするのもつらそうに言いよどむ。
その理由は言葉にされずともあきらかであったため、男も促そうとはしなかった。
竜心珠の力を活用できるほどの力量を持つ法師がこんなヘンピな町に配置されるものか。
それくらい、初めから男にも分かっている。
やっぱり当たりだ。
俯き、したり顔でそうつぶやいた声は、故意か偶然か、火のはぜる音で凍稀の耳には届かなかった。
「さて。じゃあ俺は寝るからな。おまえもさっさと寝ろよ」
新しい固形燃料を割って焚き火にくべると、マントをかぶってさっさと横になる。
思い切りがいいというか何というか。初対面で名も知らない相手への警戒心というものがまるで感じられない、その無防備な姿にあっけにとられてしまう。
それほど信用されているのか、それともよほど自信があるのか……この姿を見る限りではそのどちらとも思えないことについ、苫笑しながら、凍稀もまた、ひざを抱く手を解いて岩壁に背を預けた。
全身で息をつき、最後の緊張を解くと改めて横になった男へ目を向ける。
美しい男だった。つくづく思う。
細身で、すらりとした手足はとても砂漠を横断する者の持ちものには見えず、どちらかといえば町でも裕福な家の育ちのような、洗繰された繊細さを感じさせる端麗な造りなのだが、そのどこからも柔さは感じない。そして優美な肢体に相応する、整った面。
どう見ても人としては不自然すぎるほどに。
人の中にもごくまれに、種を超越したような異質の美貌をまとう者が存在するが、人と魔断の美しさはそもそもの根底からして全くの別物だ。
男の性が自分と同じ、魔断であるのは洞穴内に歩を進めたときから気付いていた。
この広い大陸、紅い瞳と暗紅色の髪、褐色の膚をした人間は山ほどいるし、その上でさらに類いまれな美貌を備えた者もいるだろうが、おのずと漏れる人外の気配だけは隠しようがない。
なんらかの方法を用いてひそめさせており、人相手であれば隠せるかもしれない程度にまでおさえられてはいても、剣柄に刀身化しておさまるため気の流れには特に敏感となる魔断の目をごまかすのは無理だ。
しかし、これだけみごとな火炎系の魔断を目にしたのは初めてだと、凍稀はいささか感嘆の思いでまじまじと男を見た。
魔断の力量は生まれつきでもある日突然増すものでもない。さながら樽で寝かされ、熟成する酒のように年月が必要なのだ。
過ぎる歳月、浄化を繰り返し、蓄積され、徐々に高められる力は、外見にも変化を及ぼす。たとえば凍稀のような凍気系は明るい輝きを伴った銀に、火炎系であればより深い紅にだ。
男の瞳は濃くあざやかな紅。髪は一見には黒と見間違えそうなほど暗く深い紅だ。ここまでなるには800……いや、きっと軽く1000年はかかる。
自分の5倍以上という、その途方もない年月を過ごした相手を目の前にしているということに、一瞬腹の奥がぞくりとする。同時に背筋をかけ登った畏怖めいた感覚に、知らぬうち両腕を体に回し、抱きこみながら、凍稀はなおも観察を続けた。
魔断であるなら間違いなくザナを襲った魅妖がまだこの地を離れていないことを悟れているはずなのに、なぜ危険極まりないここにいるのか。その謎がどうにも解けない。
操主とともにここの魅妖を退魔しにきた、とは思えない。荷はどう見ても1人分だし、なんらかの出来事が起きて主と離れてしまっているのであれば、とてもこんなふうに休んでなどいられないだろう。退魔師と魔断はともにいてこそ力を発揮する存在で、作戦で別行動をとっているなどとはいささか考えづらい。
癖のない、さらさらの前髪の隙間から覗き見える額のどこにも誓血石がないところを見ても、この者が『はぐれ』なのはまず間違いなかうた。
『はぐれ』とは、操主を持たない魔断を指す言葉である。
それは操主を失った心の痛みのあまり、新たな主を持つことを拒否して幻聖宮に戻らなかった魔断に多いが、中には未熟な種族である人間に服従を誓うことに疑問を持ち、自らの命を他人に左右されることを嫌って初めから操主を持ちたがらない輩もいる。
この魔断はおそらくそれだ。誓血石は1度でも操主を得たことのある魔断であればだれもが持つ物で、自分の額にも、凍気を操る魔断であることを示す金剛石色の結晶体が――――。
そこで、何気に額へとあてた指に触れた、硬く、ひんやりした感触に、凍稀は一瞬息をつめた。
指先からすうっと血の気が引き、心臓の音が格段に高まる。
これを手にしていた者を、思い出してしまったからだ。
金に縁どられた緑の瞳をした、少女。砂漠からの風に吹き流していた明るい茶色の長い髪が陽の光を浴びてはちみつ色に輝くさまは、うっとりするほど美しかった。
髪を梳く、形の良い指先ひとつまではっきりと思い出せる。
甘やかな声で、彼女はとても愛しげに自分の名を呼んでくれていた。この腕の中、その身を委ねきり、まっすぐ瞳を覗きこんできた、柔らかな、金と緑の瞳……。
「……………………シャナ……」
ひざに額をこすりつけ、小さく、呻くように、凍稀はようやく言葉にすることのできたその名を噛みしめた。