野球ボールを取りに来たら死体を発見したんだけど、ただの死体じゃなくて死神だって言い出しやがった
目の前に死体がある。
こんなこと言うと『いったいそれってどんな状況よ?』とか思われるかもしれないけれど、別に俺が殺した~とか、殺人現場を目撃して~とか、そんなんならまだ良かったって思えるような感じで。つまり、何だかよく分からないけれど『死体とこんにちは』してしまっている訳だ。
人間って、自分の想定外のことが起きるといたく冷静になるものらしい。きっと俺は傍から見れば図書館で本を読んでいる勤勉学生のように穏やかで平常な男に見えているだろう。実際、心理状況はそう悪くない。だって見てるだけだから。状況分析だってできる。
ここは使われなくなった旧校舎で、俺は(たぶん)元々割れていた窓からボールを放り込んでしまった、運の悪いホームランバッター。ここは壊されることが決まってからずいぶん長い間放置されていて、まだ着工すら始まっていない。さっさと壊してプール作れってんだ。そしたら俺はこんなに怖い思いをしなくて済んだのに。
旧校舎はその名の通り古くて、ボロボロになっているせいか変な噂が後を絶たない。夜に見ると窓ガラスに女の影が映るとか、ここで死んだ生徒がいるから壊すんだとか。正直ホラーが苦手な俺はそういう話すら避けて通ってきたというのに、なんでこんな所に入らなきゃならないのかと思うわけで。確かにボール入れたのは俺なんだけどさ。
夕方だからまだ何も出ないと思って、でもそれなりにびくびくしながら一人で入った旧校舎。ああ、やっぱり何も居ないんじゃん、と安心した四階へと続く階段を上った先。
俺は運よく(?)死体とご対面。
ああ、こう順序立てて物事を整理してみたら心臓が痛くなってきた。体の前で手を組むと、指先が異様に冷たい。これ動き出したりしないよな? いや、でもこれがもし本当に死体だったとしたら俺は相当やばい経験をしているんじゃないだろうか。
変色した皮膚。
骨ばった顔。
ボロボロの制服。
そしてまさかとは思うが、口には真新しい野球ボール。
嘘だろう? いや、だれか今すぐ嘘だと言ってくれ。たしかに俺が打ったボールは(自分で言うのもなんだが)美しい弧を描きながら旧校舎へと吸い込まれていった。それも四階の、ちょうどその死体がある辺り。
でもなぁ。まさかなぁ。
……これが死因、じゃねぇよなぁ……?
見つけて、すぐ電話できる奴って格好いい。俺は今、どうしていいか分からない。声をかけるのが先だろうか。いや、電話が先? それとも先生を呼ぶのが先か? てか言ったら俺が真っ先に疑われんじゃん! ボールを調べられたら一発だ。だってあれは今日出したばっかりの新品ボールなんだ。それが口にホール・イン・ワンしてる死体なんてさ。しかもこの場にいるのが俺なんてさ。ああ、俺って超不幸。朝の占いで乙女座最下位だったのはこのことだったんだな……。さよなら、俺の平凡な人生……。
「なんで助けてくれないんですかー!!」
急な声にビクッとして足が数歩、後ろに下がった。その拍子にもつれて尻餅をついてしまったが、体が動かせることが分かって、ちょっと安心した自分がいる。
そうではなくて、声の主。そう、それが問題。
だって喋ったのはアレなんだ。察しのいい奴は分かるよな? そうそう、その通り。その頭に浮かんだとおりのソレ。
目の前の死体だったヤツだ。
閉じていたはずの目がカッと開いて、黄ばんだ白目をもつ茶色い瞳がキョロキョロ動き、口にボールを銜えたままフガフガと何事か喚きだして、手足をバタバタさせて動き出す。
そうして目が合った。その瞬間にそれはにっこりと笑いやがった。
それまで不思議なほど冷静でいられた感情が一気に沸騰する。思わず叫びそうになって、だがまだ理性がサヨナラしていなかった俺はあわてて口を押えた。いけない。ここで叫んだらもしかして先生が来たりなんかしちゃって、俺の人生が終わるんだった。ナイス、俺。冷静な俺が頭の中でなだめる一方、激しく動揺した本体は感情の震えるままに身体を震わせる。
「お、おおお、お前っ! なッ、なん……!?」
口の開くままに喋った俺を見て、屍一号(仮)がゆっくりした動作で右手を持ち上げて口の中からボールを取り出した。ボールからねっとりと糸を引いたのは唾液だろうか、死体ならではの体液だろうか。どっちみち、あのボールはもう使えない。
それから屍一号(仮)はいままで地面に寝てたとは思えないくらいの身軽さでひょいと立ち上がり、俺を悠然と見下ろしてきた。それにしても気持ちの悪い顔だ。
「びっくりしちゃいました?」
そう言いながら屍一号(仮)は歯をむき出しながら笑って見せた。歯茎が溶けて数本しかない歯が逆に痛々しいので見せないでほしい。あとなんか臭い。
おかしなところはいくらでもあるのに、屍一号(仮)があまりにも自然に喋るものだから、俺のほうも少し慣れてきたみたいに普通に話す。……というか、一方的に畳みかけた。
「びっくりするに決まってんだろ!? うちの制服着てるヤツがこんなボロボロの廃校舎に居やがって! しかもなんかお前紫色だし、動くとか思ってねぇし!!」
そこまで一息に言い切ると、さすがに息が持たなくて肩で呼吸をする。屍一号(仮)はそんな俺を見ながらフフッと笑った。怪しいとは思ってたけど、ますます怪しくなってきた。もしかして俺は地雷を踏んだ? ねえ、俺ってば貧乏くじ引かされた!?
「侵入するのに制服は有効なんですよ~。途中で有刺鉄線に引っかかったり何だりしてたらこの様ですけどね。それに、私の存在なんてみんな気づきませんし。あと、全体的に不健康そうなこの色はデフォルトです。いわば自前? 生まれつきの体質?」
そんなようなものです、と穏やかに答えられ、頭の中でプツンと切れる音がした。
「ふざけんなよお前! その変な紫キャベツみたいな色してて何が『制服は侵入するのに有効です』だ!! そんなんが有効ならうちの学校はホームレスとコスプレ趣味の変態と、お前みたいな死体の宝庫じゃねぇか! とりあえずお前いま紫キャベツに謝ってこい! 同じような色しててごめんなさいって言ってこい! おい、屍一号。お前の他にこの場所には一体何号まで死体があるんだ、言ってみろ! そしてなんでお前はこんな目立つとこで寝てんだ! 死体ならちゃんと土に埋まってろ! 成仏しろ! てかよ、誰もお前の存在に気付かねぇとか言ったか? 現に俺は気づいてますけど、俺はどうなるんですかー? そこんとこちゃんと説明してみろッ!」
昔から、自分が対処しきれないような凄いことに出くわすと、ものすごい勢いで頭と口が回る。事の始まりは小学校一年生の時、姉貴と冷蔵庫に入っていたプリンを取り合ったことだと思う。『私のほうが年上だし、アンタのものはアタシのものよ!』なんて傍若無人なことを言われて怒った俺は、テレビや学校で聞いた言葉やらを駆使して原稿用紙一枚分ぐらいの文句をほぼ無呼吸で喚いたことがある。姉貴はあまりの事に驚いてプリンを黙って差し出してきた。だから俺は『まくし立てれば相手は黙る』ということを知ってしまいそれが今でも治らない。
だが屍一号(仮)は俺がズラズラと喋ったことには驚いてみせたが、肝心の内容を不気味な笑顔ひとつで蹴散らした。
「私はね、死神なんです」
語尾に♡や♪でも付いてるのかと思うほどの軽いテンション。
そんなんでサラッと、息をするぐらいに至極当然、普通の事として発せられたために俺は理解するのに時間がかかった。
――死神?
ちょっと待って、俺べつにノートとか拾ってないけど!?
言葉の出ない俺の顔に、気味の悪い色の顔を寄せてくる。近くで見れば見るほど引かざるをえない。だって青白い肌のところに青色とか紫色の血管が這い回っているのが見えるし、白目が血走ってるし、頬骨とかのでっぱりが怖い。
「実はですね、あなたがあと五分で殺される可能性があるので迎えに来たんですよー」
「あとご……ちょ、ちょっと待ってくれよ!」
俺は屍一号(仮)の顔を両手で押しのけると、そのまま自らの頭を抱え込んで床を見つめた。目にやさしいグリーンの、ビニール製の廊下。きれいとは決して言い難いが、その床に自分の顔が映る。所どころが堆積した埃で不鮮明とはいえ、そこにはまぎれもなく混乱と不安で泣きそうな顔をしている自分がいた。
ほんと死神ってなんだよ。
てか俺死ぬの?
こんな十七年しか生きてないのに?
おいおい、彼女の一人すらできたことないのに、もう死ななきゃなんねーのかよ!?
しか……違った。死神(確定)はついと離れると俺の周りをぐるぐるとまわり始めた。そういえば死神って足あるんだな、なんて気を紛らわせたくて考えてみる。ズボンの裾から覗くくるぶしは、俺が親指と人差し指で作った円の中に収まりそうなほど細い。ズボンの下は骨なんじゃないかとも思うんだけど、見えているのは限りなく骨の色に近い、乳白色の肌だった。
「私があなたに見えてしまったのが計算外だったんですが、この廊下の先で自分の人生のやるせなさに気が触れてしまった、キチガイのホームレスと鉢合わせして刺されて死ぬ手筈なんですー。罪のない被害者だから天国に行くとか思ったでしょ? 実はネタばらしすると、あなた天国からも地獄からも受け入れ拒否されてましてー。仕方なくウチで引き取る手はずになってるんですよー。だから、刺された後すぐに私が魂を刈り取りに行くんです。だって刺されてすぐ死ぬなんて、よっぽどめった刺しじゃない限りありえないじゃない? それに勝手に命絶えられたら天国と地獄がもめなきゃならないわけだし。やめてよ? また戦争なんておっぱじめられたら、こっちはたまったもんじゃないんだからー」
わかってる!? と死神は俺の顔の前に人差し指を突き出した。じいちゃんの葬式の時と同じ、死んだために饐えた、独特な体臭が鼻に入り、気持ち悪くなる。
いいえ、全然分からないです。というか分かりたくもないです。
「ねえ、人の話聞いてんの」
詰め寄られて、思わず息を止めた。前髪を、肌寒い風が揺らす。あまりにも長い時間顔を寄せてくるものだから、耐え切れずに呼吸をすると、枝のような人差し指で額をはじかれた。死神としては『こーいつッ♡』みたいなノリだったようだが、あいにく俺は額に刺さった長い爪の感触から、怒りのようなムカムカとした感情しか浮かんでこない。
「ほらほら、ぼさっとしてないの。あと十秒、九、八……」
てかいきなりカウントダウン!?
俺は立ち上がる気力もなくて、慌ててあたりを見回した。俺は一応野球部員。中学と合わせれば今年で五年目だ。どうにかすれば命だけは助かるかもしれない。
心臓がバクバクいってる。
なんかもう色々……吐きそう。
「五……四……三……――」
可能性のありそうな、自分が上がってきた階段のほうをキッと睨み付ける。
ふわりとした風が吹いたが、誰かが来る気配はなかった。
「ぉ、い……?」
ゴクリと喉を動かした。唾液なんか欠片もなくて、口の中はカラカラに乾いていた。
死神のほうをソロソロとむけば、いつの間にかに手にしていた銀の懐中時計をパチンと閉じて盛大なため息をついた。
「まあ、可能性は可能性よね。絶対じゃないし」
そして続けて言った。「命拾いしたわね、あんた」と。
途端に身体があり得ないほど震えだし、鼻の奥がつんとして、目尻がジワリと湿った熱を持つ。痙攣とともに口から言葉にならない声が漏れ、気付けばそれは笑い声に代わっていた。
「何だよ……役に立たない可能性だな……」
ハハッと声を上げて死神を見ると、何とも言えない顔をしていた。嬉しそうな寂しそうな、きっと仏陀が悟りを開いた時にはこんな顔してたんじゃないかっていうような、一介の高校生の俺には何とも形容しがたい顔だった。
「女の勘だって、時には外れるのよ」
いやいや、どう見たってお前男じゃん?
そう言おうとして瞬いた時には、夕日の差し込む静かな廊下に、白い野球ボールがぽつんと転がっていた。