6話 19歳の『ごっこ遊び』
「コホン。あー……カーテンの交換か?」
「は、はい。エルレッド殿下のご在室時に申し訳ございません」
クレアは頭を下げまくった。上手いこと声色を調整し、美しきダミ声を出せたところは及第点だろう。
あのエルレッドだって、まさか侍女がクレアだとは思うまい。全く気がついていない様子で「かしこまるな。楽にして良い」とか王族っぽいことを言う。楽にできるわけもない。
それにしても運が良かった。もう少し早く彼が私室に戻ってきたのなら、寝室で鉢合わせて大変なことになっていただろう。この部屋は用済みだ。このまま何食わぬ顔で退室すればミッションコンプリート。
しかし、どういうわけか話しかけてくる王子。普段、侍女は空気扱いで構うタイプではなかろうに。
「……それと、ついでに着替えの手伝いをしてもらいたい」
「え? あ、はい。か、かしこまりました」
クレアは内心で首をかしげる。今までずっと、着替えも自分ひとりで済ませていたはずなのに、どういうことだろうか。だが、王族対侍女だ。断れない……。
―― 長居したら、さすがに気付かれてしまうわ!
咄嗟にポケットからハンカチを取り出し、ゲーホゲホゲホと咳をしながら、それを口元に巻きつける。あわよくば体調不良で帰してもらえないかな、と期待する。
「風邪か? 声もしゃがれているようだし、医師を呼ぼう。僕のベッドで休むと良い」
「!? めめめっそうもございません! これは地声でございます」
「そうか、美しい声だ。では、寝室へ。衣装部屋から適当に見繕ってくれ。この後はティーサロンに行く予定だから華やかな方が良い」
―― サロン? いつも通り、わたくしとティータイムを過ごすつもりなのかしら
てっきり中止だと思っていたが……。聞き返すわけにもいかず、曖昧な返事だけしておく。
そして、彼の胸ポケットから取り出された鍵によって、衣装部屋へと舞い戻る。エルレッドは寝室で待っているというので、ここは敏腕侍女になりきって手早く服を選んだ。
「おまたせいたしました」
「……早いな。もう良いのか?」
「え? は、はい」
彼はふむと顎に手を当ててから、少しだけ目を丸くして「あぁ、なんだ。もう済んでいたのか。しかし、鍵は……なるほど。さすがだな」と嬉しそうに笑う。
―― 侍女相手にずいぶんと愛想がいいのね
とにかく早く立ち去りたいクレアは、選んだ衣服をハンガーにかけ、小物をベッドに並べる。最速で済ませるのが敏腕侍女なのだ。
「こちらでよろしいでしょうか?」
「うん、よく好みを分かっている。君はとてもセンスがいいね。あとは一人で――」
「では、お召し物を替えさせていただきます。失礼いたします」
「え」
クレアは迷わずクラヴァットを緩め、ボタンを外していく。ご尊顔を拝しては大変まずいので、下を向きながら素早さを極める。今のクレアは、もはや侍女のドーラだ。
しかし、シャツのボタンを外して彼の素肌を見たときに、ドーラ魂は引っ込む。大人になった彼のそれを見るのは、初めてだったのだ。
―― あ……これ、恥ずかしい……
眼鏡の下が熱くなる。その熱が指先まで広がって、上手く動かない。
しかし、クレアは侍女なのだからシャツを脱がさなくてはならない。ときめかずに、エルレッドを脱がすのだ。
「では、参ります!」
クレアは背後に回り込み、シャツをひん剝いた。やたら引き抜く力が強い。ものすっごい勢いで、彼の素肌をシャツが滑る。
「ぎゃっ!」
勢いは止まらず、クレアはシャツを握りしめたままベッドにダイブする。白いシーツに眼鏡がぶつかり、視界は真っ暗。
こういうとき、敏腕侍女はどうするのだろうか。脳内を侍女ドーラや侍女長メラニーが駆け巡るが、そもそも彼女たちは主人のベッドに顔面ダイブなどしないのだと思い至り、微動だにできなかった。
すると、またもや「ぶふっ」と吹き出す声が聞こえる。
「気にするな。そのシャツは滑りが良いから、僕も転ぶことがあるよ」
「痛み入ります」
どんなドジっ子王子だ。シャツで転ぶことがあるわけもないのに、エルレッドはそう言ってくれた。
相変わらず優しい人だ。こんな彼が浮気をするだろうか。資産も減っていなかったし、何かの間違いだったのかも。
クレアには言えない事情があって、ああするしかなかっただけで……婚約破棄なんて、彼の本心ではないのかもしれない。クレアはシャツをぎゅっと握りしめた。
問い質したくなってしまう。ダメだ、早く起き上がって、早く部屋を出ないと。
しかし、そこでベッドが大きく揺れて沈む。うつ伏せのままチラリと左方向を見ると、そこにはエルレッドの手が置いてある。これは何の手だろうか。
「……大丈夫か? どこかぶつけた?」
どうやら怪我の心配をしてくれているらしい。ベッドはふかふかだし怪我はない。そう答える前に、また一つ深く沈んでいくベッド。右方向を見れば、右手がある。沈み率から察するに、きっと彼の両膝はベッドの上にあるはずだ。
王子スイッチがオフになってしまったのだろうか。いや、メンズスイッチがオンになったのかも。
唐突に落とされていく甘い雰囲気。クレアはただベッドにダイブしただけなのに、めくるめく情事の予感さえしてくる。
―― こ、これはどういう状況……? エルレッド様ったら、侍女相手になにをするつもりなの……!?
「顔にキズはない? ……見せて」
耳元で囁かれ、頭が沸騰する。耳の奥を起点にして、全身が赤く染まる。上手く口が動かず、小さく首を振った。
その動きを止めるように、彼は首筋に軽く触れてくる。触れたのは、きっと指先ではない。
十八歳の二人の誕生日に、初めて交わしたキスを思い出す。少し肌寒いロイヤルガーデンで抱き寄せられ、触れた口先。
「はぁ……君を目の前にするとダメだ。もう頭がどうにかなりそうだ」
彼は何を口走っているのだろうか。クレアは事態を飲み込めず、とにかく首を振って拒否を伝えた。
「……わかっている。わかってるんだ。でも、もう少しだけでいいから。……これで最後だから」
耳の後ろにキスをされ、心臓がはねる。いつの間にかスカートの上に乗せられた、迷うような優しい手。
「顔が見たい。こっちを向いて」
そう言って、彼はその手をクレアの肩に置いた。無理やり起き上がらせるつもりなのだろう。
しかし、引っ張られると思った瞬間、ノックの音が響く。その手は止まり、掛けられていた体重も触れていた唇もふわりと解かれた。
「お邪魔様ー。侍女相手に何やってるんですか。お遊びはそこまでですよ」
書斎から先、全部開けっ放しだった扉たち。寝室のそれをトントンと無遠慮に叩くのは、側近のノア・ノラディスだ。金色という珍しい虹彩は、侍女の姿をしたクレアに向けられていた。
勿論であるが、クレアはノアとも面識がある。父親同士が学生時代に仲が良かったらしく、ノアとクレアは生まれたときからの友人だ。公爵家と伯爵家の男女なので少し距離はあるが、幼なじみとも言えるだろう。
実はクレアとエルレッドの運命的出会いも、ノアがきっかけだ。将来、側近になることが決まっていたノアが、幼少期に開いたノラディス公爵家のガーデンパーティーにエルレッドを呼び、さらにクレアもお呼ばれしたことで二人は出会ってしまった。
というわけで、ノアに顔を見られては大変まずい。クレアは顔面をシーツに押し付け、やりすごす。
エルレッドは「はーーぁ」と巨大なため息を解き放ち、ゆっくりとベッドから降りてくれた。
クレアも飛び起きて、安息のカーテンを抱きかかえて下を向く。
「ノア、面倒をかける」
「いーえ。まあ、同じ男として気持ちは分かりますけどねぇ。あ、そこの侍女殿。ここはいいから退室してくれるー?」
クレアはノアに感謝しつつ、そそくさと扉へ向かう。
しかし、その横顔を見るノアの表情はひどく冷たいものだった。
「……殿下、もうティータイムのお時間です。いつものサロンでレベッカ嬢がお待ちですよ」
「レベッカ嬢? なにを言って……ノア、だめだ。それだけは――」
「エルレッド殿下。侍女遊びもほどほどに。さあさあ、本命のために急がないと。ティーサロンへ、どーぞ?」
ギイッと何かが軋む音がして、三拍ほどの静寂が流れる。エルレッドは「わかっている」と肯定を返した。
「あー……そうだな。そうだった。着替えたらレベッカ嬢に会いにいく」
クレアの心が軋んで、割れた。
―― え……レベッカ様? 週の真ん中の、この時間に……約束しているの?
先程あがった体温は急激に下がって、爪先の感覚すらなくなる。思考の巡りが鈍くなっていく。
だって、あの可愛らしい小さなサロンは……十二年間、どんなに忙しくても欠かさなかったデートの場所。
離れていて会えないときでも、そこに手紙を置いておき、どちらか一方が訪れて時間を共にした。笑ったことも、悲しかったことも、誰にも言えない不満や不安も。二人の秘密を交換しあってきた場所だ。
あの場所だけは、この時間だけは、エルレッドとクレアの大切な――。
息を吐いたら、わめき散らしてしまいそうだった。震える肩を自分で抱きしめ、一礼だけして退室した。
きっと、心のどこかで彼を信じたい気持ちがあったのだろう。寝室のカーテンが紫色で、パスコードは九〇一。クレアはそれにすがりたかった。
でも、その儚く幼気な気持ちは割られてしまった。
―― レベッカ様とサロンでデートですってぇ!? しかも、侍女に手を出しておきながら、デート!? 今までだって、こうやって知らないところで女遊びをしていたのね……? ずっと信じていたのに……!