5話 パスコードは901
通り魔事件の翌日。クレアは出掛ける支度をしていた。
「まあまあ、クレア様ったら。昨日、あんなことに巻き込まれたのにお出かけなさるだなんて」
「一晩寝たら、恐怖心は吹っ飛んだわ。護衛の人数も増やしてもらったし大丈夫よ」
父親に婚約破棄の話や昨日の事件のことが伝わったら、身動きが取れなくなるかもしれない。クレアは焦っていた。
「ははぁ、なるほど。クレア様は本当に働き者でらっしゃる。解決こそできませんが、応援することならできますからねぇ」
「ありがとう、ドーラ。買ったばかりの紺色のドレスを着ていくわ。自分で脱ぎ着できるから、あとは大丈夫よ。すぐに王城へ向かいます」
昨日の通り魔事件、クレアは足が立たなくなるほどに恐怖した。
火事場の馬鹿力というやつだろうか。橙色の商人が奇跡的な反射神経を発揮してくれたおかげで、クレアも侍女ドーラも助かった。
彼の鞄が重かったのか秘められたパワーなのか、鞄アタックは驚くべき大打撃を与えたのだ。あるいは、商人より騎士の方が適職なのではないかと思ったほどだ。
橙色の商人は命の恩人だ。今後も事あるごとに呼んで、ドレスも宝飾品も彼から買い続ける所存だ。一生、贔屓にしようと心に決めた。
心に決めたと言えば、もう一つ決めたことがある。
やはり昨日の夜はどうにも眠れなくて、すがるようにエルレッドのことばかり考えてしまった。そして、同時に落ち込んだ。
レベッカは彼に貢いでもらうのが目的だと言っていた。
確かに彼女のドレスや宝飾品は、クレアの目から見ても超一級品だ。もしも、それらがエルレッドからの贈り物であれば、財源は彼の個人資産だろう。湯水のごとく資産を使っているというわけだ。
―― 相当、惚れ込んでいるってことよね
あぁ、心が潰されそう。思わずエプロンを握り締めてしまい、もうしわしわだ。
―― ダメよ。冷静にならないと。事実を調べて、第一王子……いえ、第二王子に相談すると決めたんだから!
第一王子は事実を明るみにするよりも、握った弱みを全力で使い切るタイプだ。相談という名の密告をするのであれば、断然、第二王子だ。
もちろん、不貞行為と金使いが荒くなった程度では、なんの罪にも問えない。それでもレベッカとの仲を割くには十分だ。
彼女はラメール国へ強制送還。色香に惑うエルレッドは目を覚まして、元の彼に……。
そこまで考えて、エプロンの紐を結ぶ手が止まる。
―― 元の彼に戻っても、もう元には戻れないのよね……
『仲直り』なんてできる状況ではない。クレアは王城の一室で天井を見上げる。こんな涙をこぼしたくはない。
横目で時計を見ると、もうそろそろ良い時間だ。頭と心を切り替えよう。
伊達眼鏡をかけ、紫色の髪をすべてメイドキャップの中に押し込む。着ていた紺色のドレスを空き部屋の棚に隠し、使用人を装って廊下の隅を歩いた。
向かうは、エルレッドの私室。クレアは、彼の資産の隠し場所を知っている。それがどれだけ減っているのか確認するのが目的だ。
本来ならば王族専用の区画に入るだけでも非常に難しいが、通い慣れたクレアにとっては造作もない。
区画内はもちろんのこと、私室の前にも警備の騎士はいる。ドレス姿の婚約者クレアとして訪問しても、アポイントメントなしでは私室に入れない。
アポなし訪問で通されるのは、第三王子付きの侍女くらいだろう。だから、侍女に変装したのだ。
王城使用人の制服はどれもこれも似たり寄ったりであるが、実は仕事の種類によって決まった色合いがある。第三王子付きの侍女は、胸に質の良い緑色のリボンをつけている。
……と、王城で働く人間のほとんどはそう認識しているが、真実は異なる。それはエルレッドが遊び半分に考案したブラフだ。
緑色のリボンの他に、メイドキャップとエプロンのリボンにワンポイントの刺繍がされているかどうか。警備の騎士はそれを見て判断している。
時間はちょうど昼食後。掃除やリネン交換が終わったあとの時間を狙う。
彼は自分でやれることは、なるべく他人に任せない。侍女の仕事と言っても、部屋の掃除やリネンの交換、あとは給仕くらいだ。
「お疲れ様でございます。リネン交換に参りました」
下を向いて、ぺこりと挨拶をする。私室前にいる警備の騎士は訝し気にしながら、リネン交換は先程終わったのではないかと尋ねてくる。
その視線はクレアの顔ではなく、小さな刺繍だ。クレアは抱えていたカーテンを見せつけるようにして、顔を隠しながら答える。
「本日はカーテンの交換日なのですが、一か所だけお取り替えを忘れてしまったのです」
「おひとりで作業を? 侍女長殿は?」
「交換は一部屋目の一か所だけですので。本日は婚約者様とのティータイムの日ですので、メラニー侍女長はそちらの準備をしております」
当然、そんな約束は反故だ。中止の連絡はもらってないが、ナシナシ。
「ああ、そうか。今日は週の真ん中ティータイムか。ははっ、殿下が溶ける日だ」
「溶け……? ええ。では、入室させていただきます」
警備の騎士は笑いながら通してくれた。案外、ゆるい警備だと思われるかもしれないが、その理由は彼の私室の構造にある。
私室は四つの部屋に分かれている。入ってすぐにソファやテーブルが並べられた来客スペース。ここは普段から鍵もかかっていない。
その隣に書斎部屋。その奥に寝室。さらに奥が衣装部屋だ。彼の資産が置いてあるのは、その衣装部屋の隠し金庫。
でも、書斎から先に入ろうとしても、鍵がかかっていて入室はできない。
書斎へと続く扉の鍵を持っているのは二人だけ。エルレッド本人と、彼が生まれたときから面倒を見ている第三王子付き侍女長のメラニーおばあちゃんだ。
書斎、寝室、衣装部屋の三部屋に入れるのは、メラニーが認めた侍女のみということになる。超狭き門だ。
でも、問題無し。
「ふふふ、十二年間の歴史は伊達ではなくてよ」
クレアは来客スペースに置かれている調度品の一つ、へんてこな金細工をじっと見る。
「あら? あ、明日は調度品の掃除日だから場所を変えたのね。えっと……エルレッド様のことだから……ここね」
迷うことなく、クレアは本棚から一冊の分厚い本を取り出す。ケースから本を取り出し、そのケースを逆さにすれば、そこから小さな鍵がコロンと出てくる。
さらにもう一冊、鍵付きの本を取り出して先程の鍵で解錠する。中には、書斎に続く扉の鍵が入っていた。
このように、エルレッドは侍女長メラニーに内緒で置き鍵を用意しているのだ。
数年前の出来事だ。鍵を忘れて外出してしまい、夜遅くに帰ってくるも部屋はメラニーが施錠済み。状況を察した警備の騎士が夜中にメラニーを叩き起こすという珍事件が発生したのだ。
メラニーにちくちくトゲトゲ文句を言われてしまい、エルレッドは困っていた。
それならば置き鍵を作ったらどうかしら、なんてクレアが冗談混じりに言ったら、こうなってしまった。
あの日、冗談を言った自分自身に感謝をしつつ書斎を通り抜け、その奥の寝室に忍び込む。
「わぁ……懐かしい」
いつの頃からか、寝室には入れてもらえなくなっていた。
記憶にある風景と、ほとんど変わっていない部屋。大きなベッドに、紫色のカーテン。
寝る直前まで本を読むから、ベッドサイドには栞を挟んだ本と小さなランタンが置いてある。
「今、読んでいる本はこれね……面白そう。それにしても、最後に寝室に入ったのはいつだったかしら?」
衣装部屋への扉の解錠は別の鍵が必要なので、それを探しながら思い出す。
あれは十四歳の頃だった。王都では冒険小説が流行っていて、試しに読んでみたら二人とも見事にはまってしまった。
少しハードボイルドな気持ちになっていたこともあり、主人公のマネをしてお行儀悪くベッドに寝転び、その小説を読みふける。
そうしてしばらく経った頃、クレアはいつの間にか寝落ちしてしまった。
目を覚ますと本は片付けられていて、エルレッドから「間違いが起きたらまずいから、もう寝室で遊ぶのはナシだね」と言われた。
当時は、さすがにお行儀が悪かったわね、なんて可愛いらしい反省をしていたが、十九歳になった今では彼の言葉の意味がわかる。
―― お互いに、ずいぶんと大人になっちゃったのね
あれから五年。たっぷりと貯め込んでいるはずの隠し金庫の前を陣取る。ちなみに、衣装部屋への鍵も難なく見つけた。
こんなに簡単に侵入できるのは、国中探したってクレアくらいだろう。彼は、なかなか手の内を見せない男だから。
棚を動かし、さらに壁を外したところに隠し金庫がある。最後の砦は王城専任の鍵師お手製、暗証番号式のカラクリ金庫だ。
さて。暗証番号が変わっていても、変わっていなくても、どちらでも複雑な気持ちになりそうね……なんて思いながら、番号を押す。
―― えっと……九・〇・一と
あっさりと開いた。ということは、クレアのことを思い出しながら暗証番号を押し、中の金を取ってはレベッカに貢いでいたということか。ご令嬢的に申し上げれば、お反吐が出てしまいそうになる。
しかし、その中身は驚くべき状況だった。
全て現金、且つ、数えやすいようにきっちり整理されているというのは彼らしい一面だが、なによりもその金額だ。
「えーっと、総計は……え!?」
半年前のことだった。エルレッドが留学にいく直前、彼は資産額を教えてくれたのだ。目標金額まであと少しなんだとか、謎にはにかみながら。
なぜそんな情報を教えたかと言えば、ティータイムのエルレッドは溶けているからだ。
ちなみに、彼の言う目標金額とは、将来的にクレアと住むための巨大新婚ハウスと結婚式のドレスや指輪の金額のことを指している。
そして、今日。聞いていた資産額と比べると、むしろ増えていることが発覚してしまったのだ。
―― どういうことかしら? レベッカ様への贈り物は、エルレッド様からのものではない? あるいは、財源は他にある?
ここで悩んでいても仕方がない。手早く元に戻し、来客スペースまで戻る。抱えていたカーテンを回収して、部屋を脱出しなければならない。
しかし、そこで扉が開く。やってきたのは、侍女か来客か。クレアは震え上がりながらもカーテンを抱え直し、さっと頭を下げる。
入室してきた人物は「ぶふっ……そうきたか」と何やら吹き出していた。
お読みいただき、ありがとうございます。
ブクマ評価して下さった方、感謝です。とてもうれしいです。