16話 猛毒
医師は城の裏手に住んでいるというので、パラジルを置いて一人で訪ねる。
城との間には高い塀が伸びているが、備え付けの扉で行き来可能だ。いわば、離れのような扱いだろう。
「これはこれは殿下ではございませんか。あぁ、少し顔色が悪いようですな。すぐに薬を調合いたしましょう」
医師は年老いた男性だ。昔は紺色だったと思わせる青い髪は、ランプの灯にあたると少し赤く見える。
「とても良い髪色だな。ただの青ではなく、奥行きのある色だ。見ていると心が和む」
「おやまあ、そんな誉めていただけるのは久しぶりですよ。長く生きてみるものですなぁ、はっはっは!」
医師は気をよくしたのか、途端に饒舌になる。薬を調合しているところを見学したいと言ってみると、どうぞとうぞと中に入れてくれた。
小さな調合室だが、天井が高いせいか異様に広く見える。背の高い棚もテーブルも、薬草だらけだ。その数は三百種類を超えるだろう。
しばしの談笑のあと、エルレッドは切り出した。
「……貴方は、ラメール国の生まれか?」
ごりごりと薬草をすりつぶしていた音が止まる。医師はよくわかりましたね、と笑った。
「両親のどちらかがラメール国なのだろう。赤が混じっているから、すぐに分かった」
「さすがお察しが良い」
「同じ境遇だ。私の母親もラメール国の生まれだよ。つい先々月まで留学をしていたが、太陽に近く暖かい。草花が育つ良い国だ」
エルレッドは棚から瓶を一つ取り出す。それは赤い薬草だ。煎じていない無臭の状態ではあるが、この赤色を見ると独特な匂いを思い出させる。あるいは、部屋に匂いが染み込んでいるからだろうか。
「……なるほど。留学というのは建て前でございますね」
「察しの良いことだ。この薬草……ラメール国でしか生育しないものだろう」
半年前に第一王子セシルドからフォクル領の調査を任されておきながら、エルレッドは一か月経たずに留学している。重要任務をそっちのけで、のん気に外遊をしていたわけではない。
クレアには伝えられなかったが、ラメール国への留学はフォクル領の調査の一環だった。
多角的にフォクル領を調査していた段階で、いくつか不審な点を見つけたという話があったが、その一つが輸入品についてだ。
マルヴィナが当主になったのを皮切りに、不自然に輸入量が増えた品物があった。
貿易に関してはノアの生家であるノラディス家が一手を担っているため、マルヴィナを通さずとも細かく把握するのは簡単だった。
それはラメール国からの輸入品であり、品目は薬草とされていた。まあ、よくある頭痛薬や鎮痛薬だ。王都を含め、どこの領地でも輸入はしていた。
しかし、フォクル領だけは輸入量、すなわち使用量が突出している。
ここに何かある気がして、エルレッドは留学という建て前でラメール国に渡航したのだ。
その薬草を多く、さらに質の良いものを生育している領地を持っていたのが、レベッカの生家であるレカルゴ男爵家だ。ここでノアとレベッカの恋が始まっちゃったわけだが、それは置いておいて。
輸出量が増えたことは、レカルゴ男爵も不思議に思っていたらしい。先の台風で他の薬草への被害が大きく、借金もかさんでいたことから、無事であった赤い薬草が売れて助かっていたという。
男爵の伝手で口の堅い薬師を雇い、薬草の特性を実験していたところ、ある仮説が生まれた。
鎮痛作用のほかに、いくらか気分を高揚させる効果があること。
そして、過剰摂取をした場合に、意識錯乱や精神異常が起こるのではないかということ。
この薬草の危険性を知るのが遅くなった原因として、ラメール国民の認識では赤い薬草の鎮痛薬は効き目が弱いとされており、ラメール国内での流通量が少なかったというのが挙げられる。
すなわち、ラメール国民は赤い薬草に耐性がある。エルレッドはそう推測していた。
というのも、しばらく実験部屋に入り浸っていると、ノアやダミアンは酒に酔う感覚がすると言っていたからだ。頭がぐちゃぐちゃとかき回され、思考が鈍るようだと。
一方で、エルレッドや薬師は全く無感覚であった。耐性の有無は、ラメール国民の持つ体質に由来するのかもしれない。
フォクル領で失踪者が増えている件もあり、この薬草を使って誘拐事件を起こしているのではないか。そう推測したところで、セシルドの病が発覚する。一時中断し、帰国したという流れだ。
女狐、女狐と悪口を唱えてはいるが、マルヴィナだって昔は正しき心術を持つ貴族の子だった。エルレッドもセシルドも、それを知っている。
まさか危険性のある薬草を使い、書類を捨てるように証拠隠滅をしていただなんて。
……婚約破棄をしてクレアを遠ざけたのは、きっと正解だった。マルヴィナの歪んだ初恋はエルレッドにまとわりつき、そんな彼の重い初恋はクレアに捧げられているからだ。
鉢と棒が削りあう音が鳴っている。ここからどう攻めて証言を得るか。しかし、老人は口を開く。
「殿下がここに何をしに来たか、私はよく分かっています。殿下を止めるつもりもございません。ですが、マルヴィナ様を止めるつもりも、ないのです。……いくら調べてもなにも出てきやしませんよ」
「どういう意味だ?」
「そのままの意味でございます。その薬草も、他の薬草と変わらずに法律で認められたものです。あのマルヴィナ様が、何かを残すような細やかさをお持ちだと思いますか?」
ある程度の秩序があるから証拠が出てくるのです。無駄ですよ、おやめなさい。医師はそう言う。
「……貴方が証言すれば、それは『証拠が出てきた』ということになるのでは? 協力でも拷問でも、好きに選べば良い」
医師は笑った。そんなことを考えたこともなかったと代弁するような朗らかな声だ。
「マルヴィナ様のことは生まれたときから存じております。あの方が『何をしたか』なんてどうでも良いのです。誰がやったことなのか、それだけが全てです。……老い先短い人間の妄言でございます。お許しを」
削り合っていた音が消え、「薬は飲まれますか」と尋ねられた。
エルレッドは調合鉢を奪い取り、置いてあった水と共にそれを流し込んだ。
「甘いな。良薬は口に苦しと聞くが?」
「はははっ、思い切りの良い方だ。マルヴィナ様が懸想するのも分かります。貴方が良き薬になることを願うばかりでございます」
そんな願い、押し付けないでくれ。エルレッドは眉をひそめるだけでそれを伝えた。
被害者家族の自死、薬草の使用方法、医師の話。彼にとって、それらは少しこたえるものだった。
追い討ちをかけるように、フォクル城に充満する嫌な匂いがエルレッドを突き刺す。先ほどよりも匂いが濃くなっているのだ。
いつもは落ちることのない視線を床にそうしながら、ひたひたと廊下を歩いた。
「エルレッド殿下! あぁ、お会いしとうございました」
「……今日は戻ったのか。フォクル公爵も忙しいだろうに」
「あら、嫌ですわ。わたくしたちは将来を誓った仲ですもの。マルヴィナとお呼びくださいな」
「早いな。ずいぶんと味のないことを言う。それは、少しずつ仲を煮詰めた先にあるものだろう?」
エルレッドが微笑むと、マルヴィナは夢うつつと瞳を潤ませる。夕食をぜひにと誘われたので、笑顔を貼り付けてディナーを囲った。
「殿下も災難でございましたね。あの猫かぶりのクレア・アーレイが殿下を貶めるだなんて、きっと愛などなかったに違いありません」
「そうだな」
パイ生地に包まれた肉の赤身にナイフを刺し込む。じわりと滲む肉汁に、痛みを訴えられているような気分になる。
マルヴィナには家族がいない。現国王の弟が臣籍降下したことでフォクル公爵を授爵しているため、まだ歴が浅いのだ。
親戚と言えば、現国王の血筋であるエルレッドたちになるだろう。この屋敷で誰かと共に食事を取ることなど、滅多にないはずだ。さぞかし楽しい晩餐なのか、マルヴィナはよく飲み、よく喋る。
「それにしても、殿下も殿下でございます。裏帳簿なんて作らなければ暴かれることもなかったでしょうに」
「……ほう? それは、どういう意味だ」
「だって、そうでございましょう? 書類は全て燃やしてしまえばよかったのに」
貴様はそうしているのか。喉まで出掛かった問いを飲み込んだ。
裏帳簿というのは、正しい帳簿のことを指す。表に出すべき帳簿を改ざんし、正しい帳簿を隠す。それを裏帳簿と呼んでいるだけだ。正しいものを把握せずに、賢く悪事を働くことができるだろうか。
「分からんな。真の収支を残さず、どのように政を行う?」
「ふふっ、簡単な足し算ですわ。足りなければ、足りるように補うのが領主の役目でございましょう。それだけで良いのです。……あぁでも……そうございますわね。これからのフォクル領は殿下と共に盛り立てなければなりませんもの。色々と相談させてくださいませ」
なるほど。こんな話までしてくれるとは、横領という犯罪を背負って近づいた意味があった。同族認定。気を許しているのだろう。
しかし、実際はどうだろうか。グラスを片手に横領を語るエルレッドは、どこからどう見ても王子様だ。
一方、赤ら顔でふわふわと喋るマルヴィナは、とても公爵当主とは思えない。一口食べて、気に入らない料理は廃棄させる。秩序なく全てを壊し、捨ててきたのだろう。
彼女の香水、赤い薬草の独特な匂いに吐き気がする。
―― 毒は、この女だ
それも中毒性のある、猛毒。彼女が生きている限り、忠臣たちは誰も口を開かない。きっと証拠と言えるようなものは残されていない。罪に罪を重ねることで、消去し続けているだけだ。
そんなやり方でフォクル領を維持することは難しいだろう。医師が証言する気がないのも、近い内に崩壊すると分かっているからなのかもしれない。
しかし、今日明日に崩壊するものでもない。それを待っていたら、犠牲者は増えるだけだ。
「……そうか、なにやら手腕がありそうだ。次に悪いことをする機会があれば、きみに相談するよ」
「ふふっ、殿下ったら御冗談がお上手! それは秘密のお話になりますものね。続きは寝室でいかがかしら? 早く二人きりになりとうございます」
げ。
と、口から出そうなところを、必死にワインで流し込む。給仕係が殺気立っているが、気付かぬフリでやりすごそう。
想像するだけでおぞましい。こういうときは、胸ポケットに入っているスミレの栞を上から撫でる。それだけで女狐の匂いは蹴散らされ、エルレッドは癒されてしまう。
そんな彼の仕草を見て、マルヴィナはワイングラスを見つめた。
「あら? ワインがお口に合わないのでしょうか」
「いや、良い味だ。だが、寝室で酒を飲むのは婚姻後だ。それまでじっくりお互いを知らねばなるまい」
「まあまあ! 誠実な愛でございますね。でも……あと二か月。待ちきれるか心配でございます」
どーでもいいから待てや。いや、待つな。その言葉も、ワインで飲み込んだ。
翌朝、マルヴィナは王都に戻っていった。汚れなき御身を守れた。
しかし、残り二か月だ。口振りからすると、証拠品を見つけるのは難しいだろう。女狐に化かされた男共の中に、証言者として名乗り出てくれる者もいない。
残された手は三つある。
一つは……マルヴィナを殺すこと。もっともシンプルであるが、その選択肢を取る覚悟ができていない。
二つ目は、ノルデン王国の奴隷の中から、失踪した子供を見つけ出すこと。これはセシルド主導で進めている。
かの国は奴隷大国だ。砂漠の中から金の粒を見つけ出すよりは簡単だろう。
三つ目は、子供をさらった自警団がノルデン王国の国境を越える瞬間を押さえること。現行犯だ。
今のエルレッドが選べるのは三つ目だけ。翌日から、時間が許す限りノルデン王国にかかる橋を見張った。
もちろん、医師の説得や他の証言者を探すことも並行してやった。
しかし、橋を渡る者も口を開く者も、一人もいないまま二か月が過ぎようとしていた。その間、失踪者はゼロ。見事、収支は赤字に戻る。
明らかに、彼の存在が人身売買の抑止力になっている。喜ばしいことではあるが、毒を根絶やしにできない歯がゆさが彼を追いつめていく。
そんな最中、転機が訪れる。時を同じくして、王都で事件が起きたのだ。
次回、クレア登場です