10話 毒盃を交わす
フォクル公爵からの収支報告書が王城に届いた翌日。すなわち、公爵八家が集まる告発の場まで、あと二日。
エルレッドは王城の廊下を歩いていた。嫌な空気を感じ取り、いつもより早足になる。
これは空気というよりも、匂いというべきか。ここを通ったであろう人物の香水が残っている。吐きそうだ。
―― 今日は公爵八家の登城予定日だったか
数日後には社交シーズンが始まる。オフシーズンは領地に引っ込んでいる貴族たちも、シーズンが始まると少しずつ王都へ居を移すのだ。
―― ……クレア、どうしているかな
週の真ん中ティータイムを二人で過ごさなかったことや、レベッカが腹から声を出して婚約破棄だの殿下の心変わりだの吹聴してくれたおかげで、噂が出回り始めている。
第三王子とアーレイ伯爵令嬢の破局だ。
まだ婚約破棄の手続きを進めていないため、クレアとは婚約関係のままである。
だが、明後日の公爵八家がそろう催しはもちろんのこと、来週に開催される王城の舞踏会についても……何の約束もしていない。
贈ろうと思っていたドレスは、王城に置いておくわけにもいかず、ノアに頼んでノラディス公爵家の空き部屋に置いてもらっている。
使い道もないし、そのまま掛け布団にできたらいいなと思っている。夢の中で着てもらうのだ。いろんな意味で重い。
この二週間、クレアが登城してくるときは、こっそりと城門を覗いていたエルレッド。
彼女の着ているドレスや身に着けている宝飾品が、エルレッドからの贈り物でなくなったとき。すでにえぐられていた心の穴に、釘を刺された心地がした。
近衛騎士ダミアンに聞けば、それらは橙色の商人である彼から買ったというではないか。それ即ち、ほぼダミアンからの贈り物だと言える(わけもない)。若干ぶち切れてしまい、久しぶりに手合わせをしたくらいだ。
―― もうすぐ終わりなんだな
彼の愛したクレア・アーレイは、強い女性だ。エルレッドがいなくても、きっと何も変わらない日常を過ごせるだろう。
そのうち、他の誰かと婚約したなんて噂話を聞かされるかもしれない。どうか幸せになってほしい。
でも、それを寂しいと感じてしまう情けない心を……一体どこへ追いやればいいのだろう。
―― 会いたい
そう願って会えるのは、なぜ会いたくない人物なのか。
「あらぁ、エルレッド殿下ではございませんか!」
角を曲がってすぐ、甲高い声が響く。真後ろを歩いていた仮面の騎士ダミアンが微かに反応するが、相手を見て元の位置へと戻る。
一介の貴族がこんな風に声をかけるのは不敬であるが、この人物であれば許されるからだ。
「……フォクル公爵か。久しいな」
「お会いしとうございました。殿下ったら、北部の大改修事業で近くまで来てらっしゃるのに、お顔を見せて下さらないんですもの。寂しゅうございました」
この会話だけ聞いたならば、なんだこのベタベタしたババアと思われるかもしれない。
しかし、その絵面は完璧だ。金髪緑瞳の王子様と赤紫色の髪に碧眼の美女。王城の廊下が急に華やかになる。
彼女こそフォクル公爵家の現当主、マルヴィナ・フォクル。国で唯一の女性当主であり、まだ二十一歳という若さだ。
そんな若い女が公爵を授かるなんて有り得ない。そんな風に訝しげに品定めをしていた人間も、どういうわけかすぐに籠絡されてしまう。
彼女の人生は波瀾万丈だ。父親は王弟、母親は北の隣国の第三王女。二国の王家の血を引くサラブレッドということになる。
もう少し付け加えると、王弟の母親はラメール国出身の側妃であったため、マルヴィナは三国の血を受け継いでいることになる。
そんな両親から華々しく誕生したマルヴィナは、生を受けた瞬間に第一王子の婚約者筆頭になる。将来の国母だ。
幼少期から王妃教育を受け、あと少しで婚姻というところまでは順風だった。
しかし、悲劇が起きる。ある日突然、家族全員――父親、母親、兄、弟を同時に亡くしたのだ。
男性のみが爵位を受け継ぎ、女性は継承権を放棄するのが慣習であったため、フォクル公爵家は家系の断絶となるはずだった。
しかし、彼女は継承権を放棄せずに授爵することを宣言する。同時に第一王子との婚約を解消。
このとき涙ながらに行われた演説は、一年以上経った今でも人々に熱く語られるほどの名演説だ。
そんな気高き悲劇のヒロインとも言える人生だが、それを引き起こしたのは誰なのか。考えるだけでおぞましい。エルレッドが毛嫌いするのも当然だ。
「ふふっ、明後日は公爵八家の催しがありますでしょう? 事前にご挨拶を、と思いまして登城して参りましたの。……セシルド殿下にもお会いしましたわ。痩せておいでで……誠に残念でございます」
「慎め。ここで話す内容ではない」
第一王子セシルドの病については、まだ公にされていない。本人から伝えられたのは、自身の妻、両親である国王と正妃、弟である三人の王子たち、そして公爵八家の中でも権力の強い三人の公爵当主だけだ。
「あら、失礼いたしました。では、密談のできる部屋に場所を移しませんこと? ふふっ、エルレッド殿下もようやく目が覚めたと聞きましてよ?」
クレアのことだろう。コロコロと卑しく笑う様子を見て、エルレッドは少しだけ安堵する。このまま事が運べば、クレアは標的でなくなるだろう。
このマルヴィナという女は、同性を脅して蹴落とし、異性を引っ掛けるのが趣味なのだ。第一王子の婚約者であったときはもちろんのこと、喪に服している時期ですら、平然とエルレッドに粉をかけてきた。とっても図太い神経を持っている。
そんな誘いも、これまでは容赦なくシャットアウトしていた。クレアのおかげで、身も心も婚約者一筋のクリーンな王子でいられたが、今後はそういうわけにもいかない。クズ王子として生きるのだ。
「ほう? クレア・アーレイのことか。耳が早いな。あれには……もう、飽きた」
「婚約を破棄なさるようで安心いたしましたわ。殿下ほどの男性に、あの小娘では足りませんもの」
「なるほど。自分ならば足りると壮語するのであれば、どれほどの充足感を与えてくれるか試したくなるものだ」
エルレッドが意味ありげに微笑むと、マルヴィナの香水が濃く匂う。ベタベタに塗られた口紅を動かして、それなら我が屋敷に来てほしいと言う。不躾な女だ。
「その積極性は買う。だが、何事にも順番というものがある。列の最後尾に並んで待っていろ」
「……順番。前に並んでらっしゃるのは、どちらのご令嬢かしら? ラメール国のピンク色だなんておっしゃらないでくださいな」
「あれも遊びの一つだ。先頭にいるのは、第一王子。呼ばれているので、そこをどいてもらえるか?」
期待させて落とす。お前の相手をしている暇などないのだと突きつける。
そうすれば、欲深いマルヴィナはハンカチを噛みながら駄々をこねる。床に転がって手足をバタつかせたところを食らってやる。
―― 民を食い物にし、あまつさえ僕のクレアを襲ったこと。絶対に許すものか
そのために、ここに密談しにきたのだ。
「兄上。お加減はどうですか?」
「やあ、エルド。見ての通り、最近は調子が良い。薬師が頑張ってくれているからね」
第一王子セシルドはベッドから起き上がり、ソファに座る。その足取りは先月よりも軽いようにも見えるが、半年前から比べればおぼつかない。
「今日明日で死に至る病ではないのにね。皆、騒ぎすぎだ」
「騒ぎもしますよ。……他でもない、貴方ですから」
「ははっ、私のスペアは優秀だと聞くが、まさかゴマスリまで心得ているとは。和らぐよ」
セシルドは少し痩せた肩をすくめて、エルレッドをからかう。
その肩越しに見えるのは、書類が山積みになった机だ。寝室に似つかわしくない光景。患っていても、政務は続けなければならない。
王族とは、死んだ後に初めて人になれる生き物なのだ。
「それで、クレア嬢はどうだい?」
「ノア・ノラディスの協力もあって、無事に愛想を尽かされました。明後日、告発をしてくれるようです」
「早いね。さすがエルドが選んだ子だ。そうか……ならば、弟たちにも根回しをしておかねばならない。陛下には全て任せてもらっている。ノアとダミアンはもちろんのこと、レベッカ・レカルゴも協力者として保護するよ」
「ありがとうございます」
エルレッドが礼を述べると、セシルドは小さく笑った。束ねられた青い髪が肩から落ちる。
「……この病は、マルヴィナ・フォクルを野放しにしていた罰なのかもしれない。毒は薬にもなると思っていたが、過剰な薬は毒にもなることを失念していた」
「いいえ、僕でも同じ判断をしていましたよ。あの女狐は狡賢い。これだけ調べても証拠の一つも出てこないのですから。兄上には、フォクル公爵家に火種を付けてもらいたい。あとは、僕が――」
燃やしてみせます。エルレッドは囁くように、そう告げた。
セシルドの持つカップから伸びる湯気が、わずかに揺れる。ため息とも取れる揺蕩だ。
「王族であっても蛮族であっても、死は平等にやってくる。これまで、他者を羨望することは一度としてない立場であったが、自分の身体が蝕まれていることを知り、同時にその感情も知った。私は……エルドが羨ましい」
セシルドが気弱な姿を見せるのは初めてだった。エルレッドは続く言葉を待ったが、言葉は続かず、彼は紅茶を飲み込んでしまった。
「……お言葉ですが、僕は兄上を羨ましく思っています」
「ほう? この病人のどんなところが好みだ?」
「愛する人がいないところ」
即答すると、セシルドはぶふっと吹き出してから笑い声をあげた。素朴な声を聞くのは、子供のときぶりだ。
「はははっ、相違ない。その感情を持たぬ私は、国一番の幸せ者だ。身体の死と心の死。どちらが辛く厳しい道か、我慢比べといこうか」
「最低のチキンレースですね」
「毒を食らわば皿まで。最後まで付き合っておくれ」
「ええ。この名が朽ち果てるまで、兄上と共にあります。どうです、出来の良い弟でしょう?」
肩をすくめて、おどけて見せる。セシルドの持つカップの湯気が、楽しそうに揺れていた。
※マルヴィナの年齢を間違えていたため、修正しました(2024年4月4日)