1話 初恋の子に婚約破棄を告げる
「クレア……いや、アーレイ伯爵令嬢。君との婚約を破棄したい」
厳かな王城の一室。その窓から見えるのは、散り落ちていく花びらだった。
第三王子エルレッドは窓から視線をそらし、目の前に座る見慣れた婚約者にそれを向ける。
右手に女をはべらせ、足を組んでソファに背を預ける。金色の髪を軽く払いながら浮かべるのは、ひどく嗜虐的な笑みだ。
クレアもエルレッドの変化に気付いていたのかもしれない。
しかし、それが現実になるとは思っていなかったのだろう。堪えきれない様子で紫色の瞳に涙を浮かべる。
「なぜ……ですか?」
「理由を問うか。自覚が持てないほどに、自然な悪行だったのだな。レベッカ嬢にひどい嫌がらせをしていた件だ」
エルレッドの隣に座る可憐な女性、レベッカの表情が強張った。
エルレッドはそれを目の端でとらえ、慰めるように肩に手をやる。レベッカは眉を歪ませ、苦痛に耐えているようだった。
「留学中、レベッカ嬢にはとても世話になったんだ。恩返しのつもりで僕が招待したにも関わらず、よくそんな傲慢な振る舞いができたものだ。君がそんなことをするだなんて信じられなかったが……目撃情報が多数寄せられている。ノア」
「はい、殿下。こちらに」
後ろに控えていた側近ノアから書類の束を受け取る。それを、彼女の目の前に叩きつけた。
「これが証言だ。餞別に持っていくといい。ドレスを破いた。物置に閉じ込めた。浅慮なことだ。一つ一つは小さいが、積もれば山となる」
「そ、そんな……わたくしはなにも――」
「言い訳無用だ」
「どうか信じてください、エルレッド様。本当に、わたくしは何もしておりません」
そう。クレアは本当に何もしていない。嵌められた、ということだ。
「アーレイ伯爵令嬢。嫌がらせの件は公にするつもりはない。だが、もう君を愛することはできない。……わかるだろう?」
同い年、同じ誕生日の二人は、二十歳になった日に婚姻を結ぶことになっていた。その日まで、残り一年を切っている。
それなのに、エルレッドのたった一言で、十二年も築いてきた婚約契約は白紙になるのだ。
七歳のとき、スミレの花壇の前でプロポーズをしたこと。欠かすことはなかった、週に一度のティータイム。十八歳の誕生日に交換したファーストキス。それらは全て、なかったことになる。
クレアは何も言わなかった。冷たい鉄仮面をつけた騎士が扉を開けると、彼女はようやくお辞儀をする。茫然自失といった様子で部屋から出て行ってしまった。
床には、彼女の涙の跡が残されていた。
「え……辛い。うわ、きつい、尋常ではなく辛いんだが。え、クレア泣いてたよな? これは現実か? うわ……僕が……泣かせた……」
誰か僕を殺してくれぇええ。エルレッドはそう言いながらソファに突っ伏した。くぐもった声で、うわーとかぬおーとか叫ぶ。
「あぁ、ダメだ。致死量を超えている。心がえぐられすぎて死ぬ。あぁ……好きだ、愛してるクレア、ごめん……泣かせてごめん」
ふよよんと弾力のあるソファに愛を叫ぶ王子の横では、はべり要員であるレベッカが顔面蒼白で立ち上がる。
「ちょ、ちょっと待って! わけわかんないんですけど!? なに今の。なんで破局した? さっきの女性、エルレッド殿下の婚約者様ですよね? わたし、嫌がらせなんて受けてないんですけど」
レベッカには何も伝えていないのだから、こうして慌てるのも当然だ。
先ほどもクレアを庇おうと余計なことを言い出しそうだったので、エルレッドがものすっごい力で肩を掴んで黙らせた。レベッカの顔が苦痛に歪んだのは、メンタルではなくフィジカル面でのダメージだ。
「婚約者様を追いかけた方がいいですよ、殿下! まったく、なんで嫌がらせなんて嘘を……ん? 待って。今の状況、まるで……わたしが」
「殿下の浮気相手、だね」
あははと笑いながら、側近ノアは現状を突きつける。
「なに笑ってんのよ。わたしはノアの恋人でしょ!?」
「恋人だね。愛してるよ」
「愛してるなら、尚更不可解だわ。……さては、ノアの両親がわたしのことを認めてくれないからって、殿下の愛人にあてがってキレイサッパリ別れようって魂胆ね?」
「邪推ー。違うって。オレがレベッカを殿下に貸してあげてんの。浮気相手役がいないと始まらないでしょ? あ、この場合は終われないって言った方がいいか」
それで、選ばれた浮気相手役がレベッカってこと。そう言いながら、ノアは彼女のピンクブロンドの髪を撫でる。
「っていうか、レベッカも変だなと思わなかった? ここ最近、ずーっと殿下と一緒にいさせられたじゃん」
「え? わたしはノアと一緒にいたつもりだったんだけど。言われてみれば、いつも三人だったような。あ、鉄仮面の騎士さんも加えて、四人?」
「鈍感ー。殿下もシャキッとしてくださいよ。自分で決めたことでしょー? ほら、初志貫徹!」
二人の言い争いが耳に入るわけもなく、エルレッドはソファにでろりんと頭を預け、号泣中だった。
そこで、扉をノックする音が響く。涙を瞬間乾燥させ、第三王子エルレッドはソファに座り直す。とても姿勢が良い。
「失礼いたします。殿下、定例会のお時間です」
「わかった。すぐに向かう」
部屋の時計を見れば、もうすぐ午後三時。第三王子付き執務室の定例会が始まる。
「レベッカ嬢。今日は時間が取れないが、どこかで作戦内容の説明をさせてもらいたい」
「はぁ、作戦ですか?」
「目的は、すったもんだの婚約破棄騒動を起こすこと。その見返りに、ノアとの婚姻を後押しするよ。第三王子の僕が全力でね」
レベッカの目がきらりんと光った。食いつきが良い。もうキャストの変更は不可能なのだから、そうでなくては困るのだが。
「良い働きを期待できそうだ。では、また後日」
今日という日。初恋の子に婚約破棄を告げた王子は、もう後戻りできない道を進み始めた。
彼女に向けた冷ややかな視線も、えぐるような別れの言葉も。
全ては、愛するクレア・アーレイのためなのだ。
婚約破棄で一つ書いてみました。
よろしくお願いいたします。