帰還
血の味。鉄臭い味。胃のむかつき。身体のこわばり。手の甲に食い込む、爪の痛み。遠くなっていく思考。
「ねえ、立花、聞いてる?」
隣席の上司の声に、ふと机の前の現実に引き戻される。横には、私をにらみつける上司の青白くのっぺりした、不健康そうな顔。目の隈が心の闇そのものを表わしているよう。その闇を覗こうとすれば、また私は上司の話など、上の空になるだろう。
「聞いてるの?」
念押しされて、渋々、はいと気のない返事をする。
「じゃ、今俺が言ったこと、復唱して」
ふっと、私の心に、消えたい、という言葉が浮かぶ。目頭が熱くなる。強い眠気を感じる。視界がぐわっと傾いた。あ、って上司が言ったのを最後に、そこで私の記憶は途絶える。
目が覚めると、鼻を刺す薬品の匂い。ふかふかのベッド。クリーム色のカーテン。その向こうで、やさしく風を送るエアコンの音。
ほおの感覚が鋭い。上にひきあげられているみたいだ。え? と思い、ずっしり重い掛け布団の中から、右手だけを出す。ほおを触る。うそだ。うそみたいだ。そんなことって。
私は飛び起きる。やっぱりだ。通っていた中学校の保健室。
さああ、っと目の前のカーテンが開いた。これもやっぱり。
「どう? 具合は」
たしか、久保田先生、だった気がする。ポニーテールに、黒縁眼鏡。目元に薄っすらそばかすのある先生。
「あ、はい、もう大丈夫です」
すごい。十何年も前の口癖がそのまま、口から出た。それも、今とほとんど変わらない、女性にしてはやや低い声で。
「そう? 三時間目まであと四十分もあるわ。もうちょっと、休んでいったら?」
大丈夫、もう戻ります。と、答えるのはやめにした。
「はい、ありがとうございます。午前中いっぱい寝ててもいいですか?」
「もちろんよ」
久保田先生は笑った。
「給食、クラスの子に運んでもらうように頼んどくね」
私が答える間もなく、カーテンが閉まる。
私はそっと、身を横たえる。
眠ろう。このままずっと。私は、いまが夢の中だということはわかっていた。でもいいんだ、このまま、ずっとずっと眠り続けて、もう元の世界に戻らない。そんなことだって、万に一つだってあるかもしれないじゃないか。私はその万に一つに賭けてみる。