08. 不機嫌な赤
眼前にはリンデンバウムの並木が広がり、その奥にいくつもの建物の姿がある。
まず目に入るのは、どっしりと構えた石造りの重厚な建物。その建物の左手には、やや小ぶりの赤レンガの瀟洒な建物が建ち、緑が茂る。反対に、中央の建物の右手側は整地された土地が広がり、近代的な冷たい作りの建物が一棟建っていた。
視界をあちらこちらに歩き去って行く人の姿がまばらに存在するそこは、ハーデンの大学。ルーファス達の目的地だ。
現在地を認識して、呆気に取られたように目を開くハーシェルを無視して軍帽を被り、ルーファスは運転席のドアを開けた。後部座席に放り込んでいた鞄を手に取ったところで、ハーシェルも観念したように助手席から降りてくる。
「……ルーファス」
「少し黙ってろ。小言は聞き飽きた」
今はこれ以上ハーシェルの話を聞きたくないし、周囲に人のいる状況で誰かに聞かれていい話でもない。
車のドアミラーに映った自分の赤い髪を、同じく映った碧眼で睨み付ける。
(……忌々しい、色だ)
この髪色は、母譲りだ。だが、母はルーファス程濃い色はしていない。どちらかと言えば赤茶に近く、母方の血縁者もその多くが赤みの強い色をしてはいても、ルーファス程に濃い赤毛を持つ者はいない。遡って一人、この国の歴史に大きく名を残す人物が、ルーファスと同じ、見事な赤毛だったと聞いたことがあるだけだ。なかなかに偉大な人物だったと、歴史の授業でも時間を割いて学んだに程度には、その功績は称えられている。
当時のその人物の姿を教える肖像画では、馬鹿みたいに真っ赤な色で頭髪が表現されていたが、先祖返りだか何だか知らないが、今の自分も正にそれに近い。余程忠実にその姿を絵画に閉じ込めたのだろうが、ルーファスにとっては、その画家の腕の良さは忌々しいことこの上なかった。
そんなものが残っているから、現在のルーファスが無駄に苛立つことになるのだ。その人物が亡くなって一体どれ程の時が経過していると思っているのか。それなのに、いまだにその時代を望もうとする人間がいる事実に、吐き気すら感じる。
ルーファスを巻き込まないでいてくれたなら、どうぞご勝手にと言えただろうに、どうしてその手をこちらにまで伸ばそうとして来るのか。どうせ欲しているのはルーファスの才などではなく、象徴としての存在だけ。そんなに見事な赤毛が欲しいなら、丸刈りにでもして、髪を高額で売り付けてやりたいくらいである。
鬱々とした気持ちを抱えたままハーシェルを従えて大学内を進み、ルーファスは駐車した場所から右手に見えた、軍の研究棟へ足を踏み入れた。
建物内は、軍関係者以外の立ち入りは許可されていない。
身分証の提示、用件確認、手荷物検査。いつもなら何を思うこともなく事務的に済ませてしまえるそれが、今日はやけに煩わしかった。
何処か病院にも似た無機質な棟内を慣れた足取りで進み、ルーファスは一つの部屋の前で足を止める。軽くノックをし、中からの返答を待たずにドアノブを捻った。
黙っていろと言うルーファスの命令を律義に守っているハーシェルからの、無言の非難の視線には気付かぬ振りをして、そのまま勝手知ったる室内に足を踏み入れる。
途端。
「おお! 待ってたよー、私の愛しい――」
両手を大袈裟に広げて歩み寄って来た白衣の女性が、ルーファスの視界にぬっと現れた。ルーファスに抱きつかんばかりの勢いに背後のハーシェルはぎょっとしているが、ルーファスにとっては見慣れた彼女の挨拶だ。
だが、いつもであれば勢いのまま既に抱きつかれているところだが、今日は寸前で相手の動きが止まっている。ルーファスの方も、今ばかりは彼女の明るい挨拶に応える気分ではなかった為、いつもであれば差し出していた腕は体側に沿ったままだった。
「……今日は、やめておいた方がよさそうね」
「そうしてくれると助かります、ファニー」
直前までのテンションの高さをあっと言う間に消し去ったファニー――フランツィスカ・レルシュ――へ、ルーファスは事務的に、鞄の中から取り出した小包と茶封筒を手渡した。
「本部からの依頼品と、新しい発注書です。それから、今日の午後には新しい荷が届くと。立ち会うのであれば――」
「ううん、立ち会いはいいわ、ありがと。ところで、後ろの子は? 今日はいつもの女の子じゃないのね」
荷物を受け取り、ルーファスの背後を覗き込むようにフランツィスカが体を傾ければ、彼女の白衣の肩から赤みの強い葡萄色の髪が流れ落ちる。いつもであれば何とも思わないと言うのに、今日に限っては、そんな動きでさえルーファスの神経を逆撫でた。
だが、フランツィスカにこの苛立ちをぶつける訳にはいかない。一呼吸を置き、ルーファスは体を半歩開けて、フランツィスカに紹介するようにハーシェルを指し示した。
「……しばらくの間押し付けられた、俺の部下です。こいつはここに置いて行きますから、存分にどうぞ」
「わぉ! いいの?」
「えっ!?」
目を輝かせたフランツィスカに対し、流石にこれは声を上げずにはいられなかったのか、ハーシェルが両目を開いて驚いている。直後に、ルーファスの視線を受けて慌てて口に手を当てていたが、ルーファスはそれを無視した。
いくら命令したとは言え、そんなに細かいところまで咎める程、自分は狭量な上官ではないつもりだ。それに、そもそも命令自体がハーシェルに対する八つ当たり。苛立ちをぶつけた結果だ。
そんなものを、部下だからと言うだけで律義に守ろうとするハーシェルの態度に、フランツィスカと言う第三者を前にしてようやく冷静さを取り戻した思考が、ルーファスに少しの罪悪感を抱かせていた。
折角、ハーシェルの気分転換になればと外に連れ出したと言うのにこれでは、気分が晴れやかになるどころか降下するばかりだろう。自分の不機嫌を部下に押し付けるなど、上司としても褒められたものではない。
そんな反省と後悔が、ルーファスにハーシェルをこの場に残すと言う選択肢を取らせた。
この部屋の主、フランツィスカは実に明るい女性である。やや、人を揶揄うと言う悪癖があるもののその程度は弁えているし、性格的にはハーシェルと気が合うタイプだ。
そんな彼女と、しばらく世間話ででも盛り上がってくれたなら、ハーシェルも今度こそ気分転換が出来るだろう。フランツィスカは、ルーファスのことをよく知ってもいる。いっそ、ルーファスに対する愚痴でもいい。それで、一時でも嫌なことを忘れさせることが出来るならば安いものだ。
ただ、先程のハーシェルとのやり取りが尾を引いて、それを素直に口にするにはルーファスの中の変なプライドが邪魔をしてしまっていた。
「じゃあな、ハーシェル。彼女の言うことを聞いて、ここで大人しくしていろ」
結果、鞄を抱え直して冷たく告げると言う、またしても自己嫌悪に陥る態度を、ルーファスに取らせてしまっていた。
そして、その後悔をハーシェルに悟られたくない気持ちが、困惑しきりの彼をそこに残して、さっさとルーファスをその部屋を後にさせる。まさに、フランツィスカに押し付けて逃げた形だ。冷たい態度ここに極まれり、だろう。
呆気に取られたハーシェルが、慌てて制止の声を上げるのを閉まる扉の奥に微かに聞きながら、ルーファスは相手に届かない謝罪の言葉を、小さく口にした。




