05. 鈴蘭の彼女
その日、仕事が休みだったルーファスは、ふと思い立って市内の図書館へと足を運んでいた。散歩をするには丁度良い、青空の広がる穏やかな天気だったこともある。
普段は自転車で走る道を、景色を楽しみながら徒歩でのんびりと進み、トロリーバスで図書館のある地区へと移動する。バスを下車後、途中にある公園のワゴン販売でサンドイッチを購入。空いたベンチに腰掛けて、零れたパン屑を鳩が啄むのを眺めながら小腹を満たすと、自分と同じく散歩をする人々の間を抜けて目的地へ。
図書館では過去の新聞のいくつかを改めて読み漁り、北方の地方新聞にも目を通した。念の為にゴシップ紙のバックナンバーも取り寄せ、最後に植物図鑑をしばらく眺める。
たっぷり数時間を図書館で過ごした後、ここまで来たついでだと、普段のルーファスならば、まず足を運ぶことのない場所へと足を向けた。
思えば、この時の気の迷いが過ちだったのだろう。図書館を出て、素直に来た道を自宅へと戻れば良かったのだ。それを、植物図鑑で開花の時期を知ったばかりに、間に合うようならば花をこの目で見てみたいと思ってしまった。
図書館からそう遠くない場所にあることを知りつつも、全くもって縁がなかったナーセリー。初めてその場所にまともに足を踏み入れたルーファスは、ポットに植えられ地面に所狭しと並べられた数々の植物を物珍しげに眺めながら、店員に教えて貰ったその場所へと足を進めた。
プラタナスの並木の作る木漏れ日の下。木製の棚の並んだそこに、ルーファスの目的の物はあった。
一株ずつを小さなポットに入れられた、長く楕円に伸びた大きな葉。その中からするりと伸びた花茎は緩く弧を描いて垂れながら、ころりと丸い、広鐘形の白い花をいくつもつけている。
開花時期の終わりに当たる為か陳列されたポットの数は少なかったが、すっかり寂しい姿になった株が多い中にも、少ないながら可憐な花をつけて芳しい香りを放つ株も、それなりにまだあった。
「……鈴蘭……」
目的の物を前にして、ルーファスは自分の行動に呆れ返った。
オディリアの言葉が気になって思わず図鑑で調べ、現物まで見に来てしまったものの、これを目にして自分は一体何がしたかったのか。
白百合か、鈴蘭か。
自分を鈴蘭と言ったオディリアの姿を思い出しながら、まだ花を咲かせているポットの一つを手に取る。
谷間の百合や聖母の涙と言った別名を持つ鈴蘭は、確かに、儚げなところや繊細な面はオディリアに似ていなくもない。彼女の細く涼やかな声は、凛とした美しい花を咲かせる白百合よりは、この鈴蘭の方が合っているだろうか。
「だからってなぁ……」
はあ、と大きく息を吐き、ルーファスは手に取ったポットを棚へと戻そうと、腕を動かした。だが、殆ど花を落としたそれらの中にまだ花をつけた一株を戻すことが、何故か躊躇われた。
ぴたりと途中で止めた手の先から、緩く吹く風に乗って、花の香がか細く届く。
じっと、手の中の鈴蘭を見つめること十数秒。
開花の時期が終わろうとしているものを今更購入する、少しおかしな客と見られることを覚悟の上で、ルーファスは渋々その株を手元へ引き寄せた。
そしてもう一つ、こちらは丁度開花に差しかかった花の元へと足を向ける。
アルケミラの鮮やかな黄緑、サルビアの目を引く青紫。寂しい土色を可愛らしく覆うセダムに、赤や黄、ピンクに橙と言った色とりどりのヘメロカリスが一面に植えられたエリアを抜けた先。煉瓦の敷き詰められた小道を、両側から彩るように百合が植えられたその場所に足を踏み入れて、ルーファスはぴたりと足を止めた。
我知らず、目を見開く。
ルーファスはこの日、二度目の過ちを犯した。
見なかった振りをして踵を返せば良かったのに、それを選択しなかったのだ。
しばし無言で自身の視界に収まっている存在を見つめ、ここにはいないハーシェルにひっそりと詫びを入れた。
「オディリア」
その名を口にして、視線の先の白金の髪が、動きに合わせてゆらりと揺れる様を目に焼き付ける。
瞬く琥珀が振り返り、ルーファスの姿を認めて微かに揺れた。珊瑚色の唇が薄く開き、ルーファスの見間違いでなければ、結局パーティー中には呼ばれなかったルーファスの名の最初の文字を形作る。
だがそれが音を奏でることはなく、二人の距離が縮まることもなく。中途半端に距離を空けて立ったままの二人の間を、緩く風が吹き抜けた。
どれ程、そうしていたか。
先に動いたのは、今度はルーファスの方だった。ゆっくりと足を踏み出し、百合の中に立つオディリアとの距離を縮めていく。そうして、出来るだけ気安い調子で片手を挙げた。
「やあ。驚いたよ、こんなところで君に会うなんて」
オディリアの瞳が、再び迷うように揺れる。何故、と言う疑問さえ浮かぶそれに苦笑しながら、ルーファス自身も己の行動に呆れていた。
オディリアの反応を見るに、ルーファスが話し掛けて来るとは露程も思っていなかったことが分かる。実際、ルーファスの取るべき行動はそれが正解だった筈なのだ。それを無視して声を掛け、あまつさえ距離を縮めるなど、この場にハーシェルがいればルーファスは即座に罵倒され、問答無用でその場から連れ出されていただろう。だが、残念ながらこの場に彼はいない。
すっかりオディリアの目の前までやって来てしまったルーファスを、彼女がやや見上げながら迎える。最後に別れた時の姿に少しの心配があったが、今日の彼女は花々に囲まれた場所にいるからか、凍り付いた人形のようではなかった。
ルーファスが驚かせてしまったことを除けば、どちらかと言えば、その表情はまだしも柔らかい。
「パーティー以来か。……こっちの生活はどう? 大学には慣れた?」
片手に、何事かを書き付けたメモと、植物の種が入っているらしい袋をいくつも入れた籠を下げたオディリアは、呆けたように一度瞬き、問い掛けに答える代わりに、その視線がルーファスの手元に落ちた。
「ああ、これ? 向こうのプラタナスの並木のところで見つけて。まだ花が終わってなかったから、思わず」
「……鈴蘭……」
オディリアの瞳がほんの僅か緩み、その白く細い指先が下を向く花をそっと撫でた。その形が鈴に似ているだけで実際に音が鳴る訳ではないのに、何故か彼女が花に触れた瞬間、チリンと鈴の音が奏でられたような錯覚に陥る。
だから、ついうっかり口が滑ったのは、その幻聴の所為だろう。
「可愛い花だよな。……君みたいだ」
他が花を終わらせる中で健気に咲くこの鈴蘭を、どうしてか放っておけなかった。あの日、パーティーの最後に見たオディリアの、感情をすっかり忘れ去った顔に心がざわついたように。
そんな思いを口に出してしまった瞬間、ルーファスは盛大に後悔した。
幸福をもたらす花とも言われる鈴蘭は、贈られた相手は幸せになると言う。よりにもよってそんな花を手にこんな会話、これではまるきり女性を口説く軟派男だ。その証拠にオディリアの表情はルーファスの言葉に引いたのか硬く強張り、鈴蘭に触れていた手はすっかり胸元に引っ込められてしまっている。
脳内で、ハーシェルがルーファスの襟元を絞めて揺さぶる姿が余裕で再生され、ルーファスは思わずオディリアから視線を逸らした。
「いや、その……」
深い意味はない、とルーファスが続けようとする前に、オディリアが引き結んでいた唇を開いた。
「――鈴蘭には、毒があります。特に、花と根には。……どうか、気を付けてください」
それは、単にこれから鈴蘭を育てるルーファスへの注意か、それとも、イングラム卿の孫としてのオディリアなりの忠告か。
初めて自発的にオディリアの方から喋ってくれたことにルーファスが驚く間もなく、それだけを言うと、オディリアは足早にその姿を百合の花の向こうへと消してしまった。
「……何をやってるんだ、俺は」
彼女に声を掛けることも追い駆けることも出来ず、額に手を当て空を仰いで、ルーファスは自分のあまりの情けなさに嘆息した。
◇
胸に当てた手に、心臓の鼓動が伝わる。常より早いのは、慣れない速度で歩いた所為だろうか。逃げるように立ち去った背後を一度振り返り、色で溢れる花と緑の向こうに赤い頭髪が見えないことに息を吐く。
「ああ、オディリア君。こんなところにいたんですか」
前へ向き直ると同時に横合いから現れた人影にはっと首を巡らせれば、縒れた白衣に銀縁眼鏡の、一見穏やかそうな顔つきの男性が、苗を一杯に入れた木箱を両手に、すぐ近くにやって来ていた。
「……教授」
「メモに書いていた種は全て揃いましたか?」
「はい」
買い物籠を傾けて見せ、それに教授が頷く。
「宜しい。では、行きましょうか」
真っ直ぐにカウンターを目指して歩くその背に、オディリアはあの、と声を掛けた。白衣が振り返り、眼鏡の奥の細い瞳が、何でしょう、と冷ややかに応える。
「向日葵の種を、購入しても良いでしょうか」
「……何故?」
「兄が……庭に、植えたいと。手紙で」
数秒、教授の視線が中空を彷徨う。口の中で、手紙、と言葉を転がしたのが分かった。
「……宜しい」
一旦言葉を切り、再度、冷え冷えとした突き刺すような視線がオディリアを射抜く。
「ただし、余計なことは一切しないように」
一切、の部分に力を込めて告げられ、言外に先程の一幕を咎められたオディリアは、神妙に頷いた。教授の隣を通り抜け、種の売り場へ足を向ける。その間際。
「そうそう。先程連絡が来ました。……今晩、“リリー”をご所望だそうです」
一瞬、根が生えたかのように足が動かなくなる。ぴたりと立ち止まってしまったオディリアの耳元に、教授が顔を寄せた。
「あなたのお祖父様の為です。……いいですね?」
体に巻き付く蛇のようにオディリアの自由を奪う言葉が、じわりと耳から侵食していく。だが、それに抗う術をオディリアは持ち得ない。
「……分かりました」
およそ感情と言う感情が削ぎ落された、冷たく硬質な声が出る。囁きのように小さくはあったが、教授はオディリアの返事に満足して、今一度カウンターへと歩き出した。
遠ざかる白衣の背中を呆然と見つめ、オディリアは世界が黒く塗り潰されるような感覚に、静かに目を伏せた。




