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04. 白百合の罠

「イングラム卿が連れて来ていたし、孫だと紹介を受けた」

「紹介を受けたってお前……それで、のこのこご一緒しましたっての?」

「仕方ないだろ。あの爺さん、孫を俺に押し付けてさっさとどっかに行ったんだ。彼女を一人にしておく訳にいかないだろうが」


 至近距離に迫ったハーシェルの体を押しやり、大袈裟に不満顔を作る。面倒臭がっていたのは初めの内で、その後は彼女との会話を楽しんでいたとは、口が裂けても言えない。

 そして、もしもルーファスがあの時オディリアの言葉を真に受け、自分の面倒臭さを優先させて仕事を放棄し、あの場を去っていたらと思うと、酷く心が冷えた。


 何と言ってもあれだけ美しい彼女だ、女に飢えた軍属の男共が放っておく訳がない。どこの誰とも知れない別の男が彼女に声を掛け、その手を取る場面を想像すると、冷えた心にどろどろとした感情が流れ込んでくる。


「それで?」

「……本っ当に、本物?」


 口々に問われ、湧き上がる不快感を消し去るようにルーファスは首肯した。


「噂通り殆ど感情を見せなかったし、兄もいると喋った。彼女本人は、自分がイングラムの白百合と呼ばれていることは知らない様子だったけどな」


 白百合ではなく鈴蘭だと言った、すっかり感情の失せた彼女の声が脳裏に蘇る。

 あの言葉は、どう言う意味だったのだろう。謙遜か、願望か。あるいは、悲しみか。

 自分の目の前で咲き誇っていた花が、途端に枯れ落ちたようだったオディリアの変化が、どうにも胸に痛い。


「変なこと喋ってないだろうな?」

「俺だって軍人の端くれだ、喋るかよ。世間話に織り交ぜて相手に喋らせようとはしたけど、大して収穫もなかった」


 ルーファスが何度となく話を振り、オディリアから言葉を引き出そうとしたが、彼女から返ってくる答えは無難で、かつ、言葉数は少なかった。

 それでも、全く収穫がない訳でもない。それが、イングラム卿の悪事を暴く助けになるものかどうかは別として、だが。


「……本当に、それだけだったんだな?」


 エリオットの鋭い視線が、ルーファスの瞳を覗き込む。

 相手が孫でも、イングラム卿に最も近しい人間と接触したのだ。ルーファスが初めてオディリアと対面した時と同じ危惧を、エリオットが抱いていることは明白だった。


 だが、イングラム卿は兎も角、オディリアからは、まるで策謀の意図は感じられなかった。会話は常にルーファスから。彼女はそれに言葉少なに答えるだけで、向こうから話題が振られたことは一度もなく、何も知らないまま祖父に連れられて来たと言う印象しか残らなかった。


「それだけだよ。向こうが俺のことを探る様子もなかったし、何かを盛られてもいない」

「検査は」

「勿論」


 ルーファスとて、イングラム卿を前にして何の対策も講じないでいる程、馬鹿ではない。オディリアとの距離は常に一定に保っていたし、頼んだドリンクだってカウンターで一度口をつけて以降は、飲んでいると見せかけて一口も含まなかった。なおかつ、帰宅して真っ先に、念の為に薬物の検査もしている。その結果は白だ。


 ただ一つ、あるとすれば。


「あー……まあ、あまりに美人で驚きはした。あれじゃ、爺さんが囲うのも無理はないな」


 思い出すのは、オディリアが初めて見せた柔らかな表情。兄への確かな情愛に溢れた光の滲む琥珀の瞳、ほんのり朱に染まった透き通る白い肌。吹く風にさらりと靡いた白金の髪に、珊瑚色の唇。そこから紡がれる、鈴のような愛らしい音。

 ルイザが眩しい太陽なら、オディリアは湖面に浮かぶ月だ。


「超絶美人ってのは大袈裟じゃなかったのかよー。チクショウ、俺もパーティーに行きたかった!」

「やめとけ。パーティーなんて、面倒臭いだけだぞ。それに、顔を見たいならパーティーなんかに行かなくたって、その内見られるようになる」


 頭を抱えて大袈裟に残念がっていたハーシェルが、ルーファスのその一言に、途端に真顔を寄越してきた。何度目か、至近距離にずいと緑褐色の瞳が迫る。


「それはどう言うことだろうか、ルーファス君」


 わざとらしく声まで真面目を装って、しかし言っている内容はただの好奇心。ルーファスは今一度間近に迫ったその顔を押し退け、入手した情報の共有を兼ねて二人に向かって口を開いた。


「来週からハーデンの大学に通うんだと」

「超絶美女の大学生……!」

「名前はオディリア。オディリア・イングラム。専攻は薬学。体に難を抱えている兄の為に学びたいんだと、本人は言っていた。明言はしなかったが、兄は病気ではないようだ。……これは噂通りだな。それと、詳細な場所は濁されたが、兄は国の北方にいると見ていい。彼女の言葉に北方訛りが少し出た」

「……もしくは、そう見せかけて別の場所か……」

「全く見当違いの場所、と言う訳でもないだろうけどな」


 ピュウ、とハーシェルが口笛を鳴らす。ルーファスが今更かと思いながらも「どう思う?」と端的に問えば、二人からは同時に同じ言葉が返って来た。


「罠だろ」

「罠だな」


 まるで二重奏のように揃った二人の声に、ルーファスは一つ息を吐く。そして、自分も同意の言葉を零した。


「……だよなぁ」


 どう考えても、誰が考えても答えは同じだろう。分かってはいたが、二人同時にはっきりと突き付けられて、ルーファスはひっそりと苦く息を吐いた。


「相手の誘いには乗るなよ」

「分かってる」


 心配する上司の目で、エリオットが念の為にと厳しく告げる。

 パーティーの場でオディリアの今後の所在を明かし、ルーファスとの会話を許したとなれば、イングラム卿は、こちらから接触するのを敢えて待っているとも考えられる。


「取り敢えず、上司に報告しとくよ」


 さて、この先どうするべきかと、ルーファスが考えのまとまらない頭を掻いたところで、ハーシェルが少しばかり改まった声でルーファスの肩を叩いた。


「どうするか相談しておくから、決定するまでお前は無闇に動くなよ?」

「罠の可能性があると分かって動くほど、俺は馬鹿じゃない。精々大人しくしておくさ」


 答えながら、オディリアは実に中途半端な時期にやって来たものだと、彼女のことへ考えを巡らせる。


 どこぞの大学に入学して半年学び、それからハーデンの大学へ、と考えれば多少無理矢理でも辻褄は合う。だが、やはりこの時期にすんなり入って来られたと言うことは、その優秀さを買われて他大学から引き抜かれたにせよ、イングラム卿が裏で手を回しているのは明白なのだろう。

 兄の為に学びたいと言った時のオディリアに嘘はなかったと感じたのだが、あれはルーファスの願望がそう見せただけだったのか。


 ずれた軍帽を被り直しながら、じゃあなとハーシェルが部屋の扉を開け、戻って来たクレアとぶつかりそうになって慌てる様子を眺めながら、ルーファスは今一度、大きく息を吐いた。


 こうして、ルーファスがオディリアの事に思いを巡らせること自体がイングラム卿の狙いなのだとしたら、本当に……まんまとしてやられている。



 ◇



 それからのルーファスの日常は、しばらくは実に平穏な毎日が繰り返された。

 決まった時間に出勤し、机に座り、やるべき仕事にひたすら向き合う。時折ハーシェルがやって来てはくだらない雑談をして盛り上がり、最後はエリオットの一声でハーシェルが逃げるように去っていく。勿論、クレアを弄ることは忘れない。


 新聞も、至って平和だった。どこそこの動物園で象の子供が生まれただの、迷い猫を保護した少年が表彰されただの、微笑ましい記事が紙面を賑わせていた。時折、亡くなった政治家や軍人の記事がひっそりと載っていることもあったが、それらは全て不幸な事故死や病死、自然死で、取り立てて多くの人の目に留まることはない。


 たとえそれが、軍内部では暗殺されたものと知っていても、特筆すべき事例でもなかった。残念なことに、この国では要人の暗殺は日常茶飯事とまではいかなくとも、さして珍しいことではない。勿論、新聞には載せられない類の暗殺も横行している。ハーシェルは頭を抱えていたが、大して名も知られていない一介の軍人であるルーファスには、実に縁遠いことである。


 だから、こんな何の変哲もない平穏な毎日に、偶然だの突発的事態だのなんてものはそうそう起こらない。もしも偶然に、突発的に何かが起こったのだとしたら、それらは全て偶然を装った必然、仕組まれたものなのだ。


 ――そう。例えば、ハーシェルから連絡が来る前に彼女と再会する、なんてことも。


 ルーファスは、視線の先に細い糸を束ねたような白金の髪を持つ少女の姿を見た瞬間、親友の忠告を思い出し、そして彼に対して心中で盛大に詫びたのだった。


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