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02. 白百合の少女

 ルーファス達はルイザの視界から逃れるように再度場所を変え、パーティー会場に選ばれたこの国随一の高級ホテルの、中庭に面したテラス席に腰を落ち着けた。

 初夏の爽やかな風が、夜気と共に中庭に咲く薔薇の香を運んでくる。


「そう言えば、ハーデンの大学に通うんだって? ……君の専攻を聞いても?」


 中庭を点々と照らす橙の明かりの中、ぼんやりと浮かび上がる白や黄、ピンクの薔薇を眺めながら、ルーファスは何気なさを装ってオディリアへ問いかけた。

 ハーデンに唯一ある大学は、医学を志す者が多く集う。優秀な学生は在学中から率先して軍部が勧誘をし、卒業後は様々な研究に携わらせている。勿論、そればかりでは国民の理解を得られない為、数こそ絞ってはいるが、まさかイングラム卿は孫娘を使ってその方面から軍内部に更に手を伸ばすつもりなのか。

 ルーファスの抱くオディリア自身に対する興味も相まっての、問いだった。


「……薬学です」


 言い淀むこともなく、オディリアは端的に答えを口にする。そうしておいて、グラスの中身に口をつけ、ゆっくりと嚥下した。

 たったそれだけの、ありきたりな仕草。その筈だった。だが、夜の間接照明の中で彼女のその姿は酷く艶めかしく映り、ほんの僅か、ルーファスの視線を否応なく惹きつけた。


 息をすることを忘れて見入ったルーファスを我に返らせたのは、オディリアの口から零れた、ほっと息を吐く微かな音だった。次いで、真っ直ぐとオディリアがルーファスを見やって、一時、意図せず二人は見つめ合ってしまう。


「……何か?」


 長い睫毛に縁取られた瞳が瞬き、微かに首を傾げたオディリアの、ともすれば冷たく突き放すような響きの一言に、ルーファスは慌てて首を振った。

 うっかり見とれている場合ではない。相手は、あのイングラム卿の孫娘なのだ。


「いや、ごめん。随分と勉強をしたのだろうと思って……」


 慌てて言葉を取り繕って笑顔を浮かべてみるものの、オディリアは無言で瞬くばかりで、その胸の内で何を考えているのかは、まるで読み取れない。それでも、ルーファスに対してどう答えるか考えようとしてくれているのか、形の良い唇が思案気に引き結ばれたのは見て取れた。

 そのオディリアの様子にルーファスもようやく平静を取り戻し、咄嗟とは言え、自分の口から出た言葉に自分自身でも考えを巡らせる。


 流石のイングラム卿でも、コネや金でどうにか出来る程、この大学は易しくはない。軍部の監視の目だってある。少なくともオディリア自身に、ある程度か相応の学力がなければ、たとえ編入であっても、入れさせることは難しい。

 これが正規の手段で入ったのだとしたら、見事なものだ。お世辞でも何でもなく、余程真面目に勉強をしたのだと、素直に感心する。それがたとえ、イングラム卿の指示であったのだとしても。


「……兄の為に学びたいと、思ったのです」

「お兄さん? 君の?」


 こくりと頷くオディリアに、ルーファスの胸の内に再びの驚きが広がった。

 イングラムの白百合が実在したなら、その話に出て来る兄も実在していてもおかしくはないが、まさかこんなにあっさりと、その存在がオディリア自身の口から証明されるとは。


 いよいよ、イングラム卿の陰謀めいてルーファスが心の内で警戒を強くする一方で、オディリアは憂うように瞳を陰らせていた。

 噂通りであれば、オディリアの兄は事故の後遺症で、歩行に支障をきたす体になってしまっているとか。そんな彼のことを思っているのだろうか。


「君は、お兄さん思いなんだね」


 会話の流れとしては、決して不自然ではなかった筈だ。それに、これはオディリアを探るつもりで発したものでもなかった。ごく自然な、彼女の表情を目にしての言葉。

 だからこそ、オディリアがあまりに勢いよく顔を上げたことに、ルーファスは驚き戸惑った。


 伏し目がちだった琥珀の瞳が大きく見開かれて、陰りのない、純粋な驚きに彩られた一対の宝石がルーファスを見つめる。心なしか震えているようにも見えて、声にこそ出さないまでも、ルーファスの戸惑いが瞬きの数となって現れる。


 自分は、何かおかしなことでも言ってしまっただろうか。そう思うものの、オディリアからの言葉が何もないのでは、迂闊に口を開けない。

 驚く少女と戸惑う青年。そんな構図でしばし見つめ合って、先に変化があったのはオディリアの方だった。顔からさっと表情が消え去り、視線が下がって、愛らしい口が開く。


「……失礼しました」


 ともすれば消え入りそうな声が微かに耳に届き、ルーファスは軽く首を振った。


「失礼なんて。俺は素敵なことだと思うよ。少なくとも、君がお兄さんを好きな気持ちは恥じるものではないだろう? 家族なんだから」


 その時見せたオディリアの表情を、ルーファスはきっと忘れないだろう。そう思う程、次に見せた彼女の表情は、ルーファスの中の彼女の印象を大きく変えるものだった。


 一瞬、はっとしたように今一度その瞳を見開き、そうかと思った次の間には目尻を心ばかり下げ、その琥珀色の瞳に、微かではあったが紛れもない喜びを浮かべる。頬には仄かに朱が差して柔らかくふやけるようで、そこには、偽りのない、兄を思う彼女の確かな愛情が現れていた。

 言葉はなくとも兄が大好きなのだと、初対面のルーファスにすら分かる程、初めて明確に彼女の心からの感情が現れた瞬間だった。


 これまで無機質で冷たく見えていた、オディリアと言う少女に明確に命が吹き込まれたようでもあり、ルーファスは我知らず、息をのむ。


 イングラムの白百合。


 不意に、その言葉が蘇る。

 ああ、と感嘆の吐息が漏れた。


 確かにこれは、こんな表情を浮かべる彼女を見れば、イングラム卿が囲ってしまうのも無理はない。そう、すんなりと頷けるほど、目の前のオディリアはルーファスの目に純粋に美しいものとして映った。

 同時に、そのことが酷く惜しく思えた。


 もしも彼女が、イングラム卿の孫娘などでなければ――


 思わず浮かんだ考えに、咄嗟に首を振る。自分は何を考えているのか、と。もしも「これ」がイングラム卿の狙いなのであれば、危うく飲まれるところだ。

 グラスを握る手に力を込め、気を引き締める。オディリアはまだルーファスの言葉に兄へと思いを馳せているようで、ほわほわと琥珀色の瞳に光を揺らめかせていた。


 その表情は、どこか夢見がちな少女とも蠱惑的な美女とも見えて、引き締めた筈の気持ちが、引き締めたそばからぐらつく。

 彼女の美しさが、ルーファスを惹きつけて止まない。


「……たった一人の、家族、なんです」


 これは良くないとオディリアから視線を外したルーファスの耳に、そんな彼女の言葉が甘く届く。視線を外したからこそ良く分かる、情に満ちた柔らかな音。

 こんな声も出せたのかと驚き心躍らせる半面、ルーファスの冷静な部分が、握手を交わした時の無機質な顔を思い浮かべさせようと必死になった。


 だが、そんな努力を嘲笑うかのように、オディリアの声はまるで麻薬のようにルーファスの脳を痺れさせ、気付けば視線は彼女に吸い寄せられていた。



 それからどう会話を続けたのか、後から振り返ってみても、ルーファスの記憶には定かなところがない。

 ただ、出来るだけ他愛のない話を続けつつ、軍人である矜持が少しでもイングラム卿の側の情報を引き出せないかと苦心していたことと、それ以降どんな話をしても、もうオディリアがあれ程に明るい表情を見せることがなかったことだけは、妙に記憶に残っていた。


 そして、別れる間際に彼女が見せた、心が悲鳴を上げているかのような凍り付いた顔もまた、ルーファスの記憶に刻み込まれている。



「――イングラムの、白百合……?」


 初耳だったのか、反応薄く訝しむオディリアに、ルーファスは「そうだよ」と軽い調子で頷いた。


「そう噂されてる。オディリアは本当に知らなかった?」


 自分でも驚くことに、ルーファスはこの短時間で、オディリアを名で呼ぶまでになっていた。当然のように、自分のことも名で呼んでほしいとも告げて。

 普段なら、初対面の女性に対してここまで距離を詰めることはないのに随分珍しいことだと、自分自身の冷静な部分が少しばかり驚いていたのを、よく覚えている。


 この頃には、イングラム卿の狙いなどどうでもいいと、どこか吹っ切れて――自棄になっていた、とも言えるかもしれない――ルーファスはほんの少し、踏み込んでみることにしたのだ。

 彼女にまつわる、噂について。


 さてどんな反応をするだろうかと、オディリアの反応を楽しむ心を押し隠し、伏し目がちに考え込む彼女の、その愁いを帯びた表情を眺める。

 そんな顔も綺麗だな、などと頭の片隅で思いながら。


「……白百合……」

「君を表すのに、これ程似合う花もない」


 言ってから、我ながら軟派な男の薄っぺらい台詞だなと反省しつつ、口の中で噛み締めるように言葉を繰り返すオディリアの反応を待つ。

 その時、彼女の遥か向こうに見知った顔がこちらにやって来る姿を見つけ、ルーファスの胸に酷く残念な気持ちが湧いた。オディリアと二人きりの時間は、どうやら終わりらしい。


 仕方なく思いながらも軽く手を挙げれば、つられるようにオディリアも首を巡らせ、そこに自分の保護者の姿を見て、小さな声がお祖父様、と音を発する。

 どこか恐れを含んだその声には、これまでのルーファスとの会話の中では一度として聞いたことのない怯えが滲み、ともすれば震えているようにも感じられた。そして、ルーファスへと戻って来たオディリアの顔は案の定、凍り付いたように白く変じていた。


 背後へ振り向くまでは、少なくともルーファスの目には、示すものは淡くとも人間らしい柔らかな雰囲気に包まれていたその顔が、すっかり固く青褪めた白磁の作り物に戻っている。感情と言う感情が彼女の瞳からも表情からもすっかり抜け落ち、ルーファスに対する拒絶すら感じられた。

 その唐突な変化に、ルーファスは眉を顰める。


「オディリア?」


 ルーファスの問いかけには応えず、静かに立ち上がったオディリアの瞳が、一度、遠くを見やる。そして、まるで独り言のようにぽつりと零した。


「……私は、白百合などではありません。私は……鈴蘭なのです」


 どう言う意味かとルーファスが聞き返す間もなく、その一言を最後に、再び人形に戻ってしまったオディリアは、イングラム卿の元へと去っていった。

 戻ってきた伯父からの、お嬢様のお相手ありがとう、との労いの言葉を右から左に聞き流しながら、ルーファスは去っていくオディリアのその背中を、見えなくなるまで見送った。


 どうしようもなく、その心をざわつかせながら。


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