生存凶兆(10)
村からの出立といっても、キニャの持ち物は少ない。ヤック家の食卓の脇、すでに自分なりに居心地のいいカスタマイズを施した寝床の周りにしか物がないため、プカプカに背負わせる用の麻袋に、雑に詰め込んだだけで用意は済んだ。
あとは黒革の防護服の上から、前開きの白いローブを頭ごと被り、フードのなかで引っかかった灰色の髪をパパッと右手で払ったら、それだけで準備完了。
「んじゃ、いくよプカプカ」
「ギギャ!」
「わあ、初めての故郷離れ! みんなー、いってくるねー!」
表門から見える範囲にトキシック・ヴァイフログの姿はなかったため、丸太壁は留め具を外してそのまま山道へと倒された。それを引き上げる男衆のほか、多くの村民が集っていたのは、ヤックがみんなへの事情説明を兼ねてのことだ。
そのおかげで、勇敢なるコソ泥娘を見送る空気は。
「キニャちゃんに頼むのかあ。マジかあ……」
「イチかバチかオオバチかじゃねえかあ……」
「おっかあ、やっぱり家財まとめてくれ……」
多くの村民たちが変わらぬ気持ちを共有できる、よい雰囲気であった。
「ヒシュゥ……」
なかには、純粋に別れを惜しんでくれる魔生獣も一匹くらいはいたが。
「キニャ、ちょっとお待ちなさい」
「なんだよお、まだなんかあんの」
「これを」
ゼリファがキニャに一通の手紙を渡す。衛士隊への便りとは違っている。
「なにこれ」
先ほどの拷問に怯え、左手ではなく右手をおずおずと差し出す。
「大事な手紙です。絶対に、アードに到着してから開封してください」
とても真剣な目。意志がこもっている。その目は、さすがに裏切りづらい。
「……分かったよ。ふんっ。じゃあねゼリファ」
「ええ、キニャ。また」
衛士隊をつれてきてくれよー。
絶対につれてきてくれよー。
帰ってこなくてもいいから絶対絶対つれてきてくれよー。
などといった声援を背中に受け、キニャは惜しむことなく山道を下った。
足場の悪い山道の下りは、登りよりも足元が不安定だった。
固定されているようで簡単に崩れる岩石に何度も足を取られるが、身軽なキニャは転ぶことなく、スイスイと歩く。プカプカも岩肌に腹を刺されながらボヨンボヨンと跳ねてついていく。彼の柔らかい腹は、見た目通りの柔肌ではない。
「キ、キニャぁ……慎重に進まないとトキシック・ヴァイフログが出たら……」
頭上。ユビが緑の髪を揺らしておびえるが、完全に無視。
不慮も不慮の事態で、当初の予定よりも長居してしまったカパジーラ山頂村だったが、キニャは無事に村から出ることができた。
向かう先は一年ほど根城にしてきた、そろそろ住み慣れている護国都市アード。帰り道は未経験だが、不安はこれっぽっちもない。
登山よりも時間がかかる下山。三人は気付けば山の中腹、トキシック・ヴァイフログが洞窟から迂回してきているのであろう隘路までたどり着く。
村への行きにチラ見しただけの隘路は、起立した山肌が壁となり、反対側は空しか見えない崖際。心なしか足場が踏み荒らされているのが、毒ガエルが通路にした証拠か。いずれにせよ立ち止まることはせず、キニャは足を早める。
「ねえね、キニャ。アードまではどれくらい時間がかかるのー」
「二日くらい」
「へー、けっこう遠いんだ」
「ゼリファたちは一日だったみたいだけど、そんなん体力バカがすることよ」
「そーなんだ。でも村が危ないんだし、キニャも急ごうよ」
「なんで?」
「いや、なんでって……」
「追加料金でも払ってくれんの? あんたが?」
「……ほーんと、キニャってサイテー」
「ギッギャッギャ!」
帰りの道中は、カパジーラ山頂村の茂みで生まれ、目で見るものすべてが新鮮に映るユビがよくしゃべった。キニャの相づちは非常に雑であったが、次第にもっと雑になっていった。というのも、ユビは見るのは初めてだが。
「あれってスマチ高原樹林帯? マナがいっぱいたまってるんだってー」
「あっ、マレイドフォッグの足跡だ。ねえね、追ってみようよー」
「わー護国街道。こっちがアードで、あっちがメディで、むこうがサウェかなー」
茂みインプのマナ情報共有論はそれほど間違いではないのか。小さき者の知識は賢人並に優れており、キニャはそれに付き合うのがうっとおしかった。
そんな旅路を気持ち急ぎ足で進みつつ、休憩はちゃんと取りつつで歩んでいると、やがて天陽が落ちてきて、風景も朱色に焼けてくる。
「ふぎゃー、疲れたー。今日はここまでここまで。体だっる」
「おつかれー。今日はここでお休みするのー?」
「そーよ」
三人が停止したのは川のすぐそば。針葉のたまる森の切れ目に、野営地を張る。
といっても、ベッドはプカプカの腹で、毛布は自前の白ローブ。
あとは食事さえ確保できれば、キニャにとってはどこでも寝床だ。
「ギギャ?」
「ん、ねえねキニャ。川にお魚さんがいるってプカプカが」
「マジ? やりぃ、くそマズ高山野菜しか持たされてなくて萎えてたのよね」
カパジーラ山頂村からの厚意も、この子にはそれほど届いていない。
キニャはブーツを脱いで、素足で川に入り、ユビが指し示す水面をじっと見つめた。透きとおった水中には、飾り気のない川魚が二匹。それを確認すると、アードで800コルで買ったお料理ナイフを腰から抜き、シュッ。すばやく突き刺す。
ビチャビチャ。それだけで、川魚は短剣に突き刺さっていた。
「わー、すごいキニャ! 上手上手!」
「うっさいユビ」
「その魚、カニハミだね。人間にはおいしいみたいだよ」
川魚のカニハミは既知であったが、「便利な生き物図鑑かよ」と呆れる。
食事いらずの魔生獣たちが見つめるなか、キニャは安定したナイフさばきでカニハミの鱗、内臓、中骨を処理し、都市のレストランで出てくるような三枚下ろしにする。切り身は足元の小枝に突き刺し、手持ちの塩をサッと振ってから、味変に重宝するテネグリの木の残し実を、刃の腹で潰し、塗りたくり、甘みを足す。
あとは起こしたたき火で両面をあぶるだけ。パチパチと魚の身の油が落ちていく。それから皮面もパリパリに焼けたところで「いただきまーす」とパクリ。
「んー! うんまー!」
ここ数日、村ではイワジカなどの肉類が取れず、山魚も山水の源流のほうまでいかないと生息していないという食事事情にさもしい気分を味わっていたが。
新鮮で素朴。ジューシーで淡泊な魚の白身に、適度の塩気。テネグリの木の残し実の芳醇でくどくない甘さが、少女の口内に久しぶりの幸せを運ぶ。
「うんまーうんまー! やっぱ人間は肉か魚よ!」
「キニャっておいしそうに食べるよねー。ちょっと羨ましいかもー」
「魔生獣とかいう幸せを味わえない生物に生まれた自分を呪いな」
「ギッギャッギャ」
カニハミの身を一切れ、二切れ、脂が乗った腹身の三切れ目をパクパクと平らげて、そのままプカプカの腹の上に寝そべり、自分のお腹をポンポンする。
たき火の下では、ヤックから持たされた高山野菜の根菜を火に当たらない位置に放置して、じっくり火を通している。明日の朝、温め直して朝食にするのだ。
「アードついたら、どうしよっかなあ」
「そりゃー、みんなのおつかいしないとダメじゃない」
「バーカ。それ以外の話よ」
「それ以外って?」
「こっちの話。うっさいのよ羽虫のくせに、ほらシッシッ」
「もー、虫じゃないんだからそれやめてよっ! 失礼しちゃうわっ!」
「ギッギャッギャ!」
プカプカだけだと、コミュニケーションは成り立つが会話は成り立たない。
その点、ユビのいる生活はキニャにとっても新鮮ではあった。
カワハミの海塩焼き:190コル




