生存凶兆(7)
「ゼ、ゼリファさま、村は大丈夫なんですか!?」
「向こうの道にも魔生獣が出たって本当ですか!?」
「た、大変だぁ……おっかあ! 家財をまとめろーっ!」
ヤックの大声はせまい村中の隅から隅へと伝達されてしまい、誰もがカパジーラ山頂村の現状を理解し、恐怖を伝染させてしまっていた。
けれど村長に落ち度はない。彼が伝えてくれたからこそ、表門への対応に猶予が生まれた。そう考えよう――と、頭を整理しながらゼリファは村を走る。
周囲の村民たちのすがるような声。平時であれば安心させる一声でもかけたかったが、今はそれよりも、表門側に現れたというトキシック・ヴァイフログ。
危険な変異種が攻めてきていないのかを確認するのが先決だった。
「ヤックさん、トキシック・ヴァイフログがなぜ表門にっ!?」
最初は併走していたが、今は追いつけていない背後のヤックに問いかける。
彼女も大した答えを求めずに聞いたことだったが、返答は予想を裏切った。
「お、おそらく、ゼェハァ、山、山道のううう迂回路のせい、ゼェ、かと」
「迂回路……くっ、まさか、あの中腹の分かれ道は」
彼女が抱いていた疑問が、悪い方向に氷解してしまった。
カパジーラ山頂村に至るまでの山道のこと。ゼリファは山道の中腹あたりで、右手側に崖に面した、細い隘路があることに気付いた。
切り立つ断崖と空しか見えない崖にはさまれたその隘路は、一本道の山登りにあっては目につきやすく、実際キニャも目にしていた。
そして思っていた。「さすがに、村はこっちの道ではないだろう」と。
「つまり、あの隘路は洞窟とつながっているのですか!?」
「い、いえ、正確には洞窟の側面に、裏門からは見づらい道がつながっていて」
そこまで聞いて、ゼリファの両足がさらに加速する。
ついぞヤックは置いてきぼりになり、足を止めて息を整えるが。
「ヒシュ! ヒシュ!」
リズのほうはしっかりとリーダーに追従している。
裏門から表門まで村を縦断して走ったゼリファが、まもなく村の入口側の丸太壁に到着した。こちらには裏門のような階段状の足場はないが、脇には丸太壁を倒すための木細工のほか、木ハシゴが併設されており、ヤックがキニャを村へと迎え入れたときのように、門の上に別途作られた見張り台へ登ることができる。
壁が倒れていたらゼリファも通りやすかったが、ヤックたちは配達人を逃げ帰らせたと同時に、丸太壁をまた立たせてしまったようだった。
トキシック・ヴァイフログが迫っている以上、選択としては間違いではない。
彼女は迷うことなく両手で木ハシゴをつかみ、足をかける。リズは彼女がもし落下してもクッションになれるよう、率先して主の真下位置に陣取る。やがてゼリファが見張り台まで上りきると、スタッ。リズも一足飛びで追いついた。
「……っ、います。トキシック・ヴァイフログです」
距離はあるが、山道を見下ろした先に紫まだらの巨大ガエル。
表門に向かっているトキシック・ヴァイフログは、その大きな口から不浄な唾液を垂れ流し、二足の前傾気味な姿勢でのっしり、のっしりと歩いていた。
午前の明るい日差しに照らされているのもそうだが、茶色の土肌と岩石の灰色に囲まれた山道では、異様な存在としてはっきりと視界に入ってくる。
それがただの散歩であれば見て見ぬふりもできるが……眼下の山道の行き先はアード方面か、この村しかない。嫌でも危険を自覚せねばならない。
「リズ、もうすこし近寄ってきたら、もうすこし……今です【フリーズ】!」
「ヒシューーー!」
目視で、敵までおおよそ30メートルの位置。丸太壁の上でリズに命じる。
フリーズハイドラの口内から吐き出された冬よりも寒い冷気。トキシック・ヴァイフログは攻撃に勘づいていたが、動いたのはリズの動きを見てからだ。
「ヴァジャアァッ!」
プカプカよりも大きな体を、プカプカよりも軽々と宙に飛ばし、飛びのく。
【フリーズ】は山道の土肌や岩肌に霜を作らせ、まもなく氷面を形成させたが、距離の遠さがそのまま影響したか。相手に直撃した様子はなかった。
ゼリファも初手で戦いを決するつもりはなかったが、その判断の根底にあったのは恐れ。さらに近寄ったあとに命令していれば、相手に凍傷の一つでも負わせられる可能性はあった。だが、危険な魔生獣との戦いに慣れていない彼女の未熟さと、眼前の脅威への恐れが、攻撃機会を早めてしまった。
「くっ、リズ! 接近戦は避けて、なるべく遠距離で【フリーズ】を続けて!」
「ヒシュッ!」
リズが表門から飛び降り、トキシック・ヴァイフログと真っ向から相対する。
敵は不揃いで鋭利な牙をガチガチと噛み鳴らし、不出来な黒斑点がまだらに浮かんでいる紫色の毛並みをブルッと震わせた。臨戦態勢に入った合図か。
先にゼリファが敵意を向けたのだから、そうであってしかるべきである。
トルミットが言うに、相手は口内で猛毒を精製している。
見た目は柔らかそうでいて、その実は頑強な竜鱗であるフリーズハイドラでも、あの不潔な大口に噛まれようものなら、この村には毒の治療法がほぼない。
「ヴァジャアァァァ!」
トキシック・ヴァイフログが四足で地を蹴る。飛んだ先は、リズの前。
動きは速いが、高さはない。あれで大跳びできたら門を越えられかねない。
「ヒシュッ」「ヴァジャッ!」
リズはリーダーからの指示を守り、相手との距離を一定に保つように動いた。
回避先も背後の丸太壁ではなく、敵の脇をくぐるようにして前に出る。勇敢だ。
「リズ、【フリーズ】よ!」
表門から山道を俯瞰して見ているゼリファの声に応じて、冷気が放たれる。
狙いは、リズの入れ違いが生んだトキシック・ヴァイフログの背中。
今度の【フリーズ】は狙い通りに直撃し、周囲を急速に冷凍した。だが。
トキシック・ヴァイフログは剛毛なのか、目に見えるダメージはない。
「ヴァジャアァッッッ!!!」
怒り。実は痛手を負わせられたか、あるいは気に触っただけか。
殺気を持ったトキシック・ヴァイフログがリズに飛びかかる。
リズは立ち位置を入れ替えるように動き、敵との等間隔の距離を維持した。
毒ガエルは遠距離攻撃を持たぬのか、【フリーズ】に対する効果的な反撃をしてこない。ゼリファの目からは、自分たちが一方的な優位を保てていた。
五度目の攻防。リズが相手の側面を駆け抜けようとした、そのときまでは。
「ヴァジャアァァァ……ボエヴェッッ!」
トキシック・ヴァイフログの口から、周辺に緑色の液体を吐き散らされる。
「っっっ!? リズよけてっ!!!」「ヒシュッ!?」
前に出ようとする体を四肢でとっさに踏ん張り、即座に後退するも。
ジュシュゥ。「ヒシュゥ!」。左前足の関節。緑の液体が降りかかった。
そのまま距離を取ることには成功したリズだが、態勢を直したとき、ガクンッ。突如、全身から力が抜けたようにくずおれる。「リズ、お願い逃げて!」。
それでもゼリファの悲鳴に応え、踏ん張るように立ち上がった。
門の上までは届いていないが、リズの左前足からはジュシュゥ……と。なにかが焼けるような、腐るような、生物的に不快な異音が鳴っている。
次いで、美しく青白いフリーズハイドラの竜鱗に、緑と茶の混じった汚濁のような気泡がジュクジュクと浮かんでいく。それを見て、ゼリファも恐怖する。
「リズっっっ! お願い逃げて! お願いだからっ!!!」
第四姫の絶叫には、こちらに来いとも、山を下れとも、命令が宿っていない。
今の彼女は、大切なリードの生命を案じるだけで精いっぱいだった。
「ヒシュウゥ……」
リズも懸命に立ち上がるが、ヨロヨロする体は確実に毒に蝕まれていた。
「ヴァジャアァ……」
毒ガエルの顔に、愉悦が浮かぶ。獲物を嬲り殺す快感に歪むように。
「うっさいなあ。わめかないでよ、耳障りなんだけど」
ついでに、危機感を知らぬのんきな声が、ゼリファの後ろから聞こえてきた。




