ココアをさがせ!〜解決の解決〜
夏紀が小説を読み終わるのを見計らい、僕らは店を出た。その後はそれぞれ気の向くまま風の流れるまま、遊びに行くこともあるが、解散することもある。明日に始業式を控えている紅葉のこともあり、今日は解散するはこびとなった。二人で紅葉を自宅まで送り、僕と夏紀は別れた。去り際に、紅葉は嬉しそうな、けれど悔しそうな表情を見せていたのが気にかかった。
そして僕は喫茶店 「ホトトギス」 のカウンター席に座っている。夕方には早く、お昼には遅い時刻。店内もピークを過ぎ去り、閑古鳥が鳴いている。僕が再び来店したことに軽く目を丸くしたが、すぐにカウンター席へ案内してくれた。二組の紙とペンを取り出し、片方を僕に差し出してくる。
『どうしたんだい?』
『昼、食べてないんです』
僕の記述を見て、マスターはすぐにランチメニューを出してくれた。ランチは過ぎているが、作ってくれるようだ。その配慮には感謝するが、僕は片手を挙げてそれを制した。ペンを走らせる。
『その前に、少し、話をしましょう』
マスターは満足そうに頷く。もしかしたら僕がこれから話そうとすることに察しがついているのかもしれない。マスターは頭もよく察しがいい人だ。学生時代の話はあまり聞かないが、それなりにいいところを出ているらしい。話をしていても、その内容の奥深さにはいつも感服している。
幸いなことに店内にはお客がいない。マスターもコーヒーを作る傍ら、イスに腰を下ろした。カップを2脚用意しているということは、片方は僕のか。
『サービスだよ』
『どうも』
少しばかり気にしていた。助かります。
『話は、オーダーミスのクレームかな?』
『そうです』
話が早い。おどけて笑っているのは、どうにかして話を逸らそうとしているからなのだろうか。この人の内面は読めない。笑っていても心の中で泣くことができる人だ。雲のように自由で掴み所のない人間、というのはきっとマスターを表す言葉だろうなと思った。
『僕は不思議に思っていました。どうしてマスターがミスをしたんだろうって』
『あれは申し訳なかったね。君たちの好みは把握していたから、しっかりと確認すべきだったよ』
『確認はしたんじゃないですか?』
一度ペンを止めて、僕はマスターの顔を窺った。表情は変わらず微笑んでいるように見える。
『夏紀の唇の動きで』
『すごいね』
マスターは嬉しそうに笑う。
『ついつい昔の癖でね。どんな唇の動きでもわかるわけではないけど、メニューに載っているものは、わかってしまうんだ』
なるほど、確かにメニューに載っている言葉だから、マスターも勘違いをした。
『もうあんなことはしないよ』
『そうですよ。驚きました』
僕は微笑んだ。ちょうどコーヒーが出来上がる。立ち上った湯気が優しく鼻腔をくすぐった。
『でも、不思議はそれだけじゃないんです』
マスターはさらに笑みを深めた。期待しているのか、頷いて先を促す。
『紅葉と夏紀にはマスターが唇の動きで再確認した、ということで納得させました。けど、僕はやっぱり納得できません。いくら唇の動きがわかったからといっても、それで判断するのは早計だと思います。普通は確認すべきです。こんな世界なんですから、なおさら』
『忙しかったからね。少し焦っていたんだよ』
『マスターは忙しくてミスをするような人ではありませんし、今日はそれほど忙しかったわけでもないでしょう。僕は一度もマスターがミスをしているところを見たことがありません』
一度も、と僕は強調した。思わず丸印までつけて。
『よくよく考えてみたんです。いくらなんでもおかしいだろうって。健常者が突然難聴を訴える。僕自身体験していますから、その苦しさとか不便さなんかわかっているつもりです。意思疎通ができなくなるのはもちろん、うまく歩けなくなることだってあるんですから。
それなのに、マスターはいくら対策を練っていたからといって、そんなにうまく順応できるものなのか。もしかしたら、何かしらの機器を使用しているんじゃないか、そう思いました』
マスターは両手を広げ、立ち上がって一回りし、さらに耳までよく見せてくれた。不思議なものはなにもない。
『僕がこの病に罹ってから、夏紀に助けられることがしばしばありました。夏紀の口を通して病気の進行具合を知りもしました。誰が罹った、誰はまだだ、とね。でも、マスターが罹っているとは聞いていません。直接マスターから聞いたわけじゃないし、もちろん夏紀も知りません。単純にもうみんな耳が聞こえないんだろうなって思っていました』
僕はカウンターの横にあるラジオに触れた。無骨な印象を与える黒々としたそれは、僕の指に温もりを返してくれた。さらに、中で何かが動く振動を感じた。
『マスターの耳は聞こえるんですね』
僕の記述を覗きこみ、安心したような吐息を吐くと、マスターは拍手をした。僕には聞こえない。けど、きっとマスターには聞こえている。マスターの唇が動いた。たぶん 「正解」 だろう。
『驚いたよ。その通り、私の耳は聞こえている。夏紀くんは私が知る限り唯一、音を失っても正確に声を出せる子だよ。だからあの時は驚いた。夏紀くんがコーヒーを指差して、コーヒーと発音したのだからね』
マスターはクツクツと笑う。僕もつられて笑った。
『これまでにもなかったわけじゃないけど、春休みの間は一度も来店してくれないから、うっかり忘れていたんだ』
『僕らは声を出せているんですか?』
『何人かはね、けど話さない人のほうが圧倒的に多いよ。無理もないね、話す意味がないんだから』
『ちなみに、』
僕は尋ねていいのかどうか迷った。けれど、やはり尋ねないわけにはいかない。
『ちなみに、マスターのほかにはいるんですか? 音を失くしていない人が』
『いないよ。私だけだ』
僕が書ききる前に、マスターはむべもなく書き綴った。
はっきりと、ばっさりと、希望を捨てたかのように。
それは、どんな気持ちなのか。誰もが音をなくしている中で、マスターただ独りが音を失くしていない。別に赤信号みんなでわたれば怖くない、というつもりはないし、日和見主義がいいというわけでもない。けれど、やっぱりそれは寂しいんじゃないだろうか。そこに存在するはずの喧騒が、マスターには聞こえてしかるべきはずの喧騒は、もはや誰の耳にも届かない。人込みに紛れようとも、誰一人声を発する人がいない。死者の行進のように、マスターの耳に届く。横断歩道の真ん中に取り残されているような疎外感。あるべきものがない辛さ、それはもう、僕が感じ取ることはできないもの。
『悩む必要はないよ』
マスターが新しくコーヒーを淹れてくれた。
『音はない。でもね、私にはこれがある。このコーヒーがある。香るだろう? 苦いだろう? 温かいだろう? 聞こえなくとも、伝わるだろう? 音が消えた。けれど他に感じることができる。これまでに感じられなかったものがきっと伝わる。それが私を繋いでくれる。飲みにきてくれ、いつでもね』
マスターが淹れてくれるコーヒー。温かく、僕の心を癒す。口の中全体にいきわたらせるように味わう。まずは酸味が広がり、口蓋後方にいくと苦味が広がる。喉を鳴らせば、酸味と苦味が混ざり合い、絶妙な余韻を広げる。
これが、マスターのコーヒー。
『おいしいです』
マスターは笑って、メニューを差し出した。ランチメニュー。どれもこれも絶品であることを僕は知っている。
コーヒーに合うものを食べよう。やっと、お昼だ。