ココアをさがせ! 〜解決編〜
夏紀は自分のカップを僕らに差し出した。それは一目見ただけでココアではない。けれど新メニューに 「コーヒー似ココア」 なるものが存在するのかもしれない。一口啜ってみた。うむ、やはりコーヒーだ。僕にとっては丁度よくても、夏紀にしてみたら地球に下駄を履かせるぐらい驚いたことだろう。一応紅葉にも飲んでもらったが、やはり僕らの味覚障害ではないようだ。
『マスターが間違えたのかな?』
紅葉がおそるおそる書き記す。天変地異の預言書を書き記すような自信の無さだ。そしてその自信の無さは僕も同様に感じていた。
僕らのこのツアーはもうそれなりの回数を踏んでいる。僕がこの店を知ったのは中学生の頃。それからはひとりでこの店を訪れることもあり、夏紀と出会ってからはさらに回数が増えた。その上、紅葉と二人で来ることもある。僕個人でさえ、すでに五年近くの付き合いなのだ。その五年もの付き合いの中で、マスターがミスをしているところを一度も見たことがない。彼はお皿一枚、スプーンひとつ落していない。もちろんそれは僕らが目にしている範囲なのだが。
そんなマスターがオーダーミス。これは無音の病発症以上の驚天動地だ。
『マスターはオレが甘いもの好きなの知ってるのに』
夏紀も訝しげに歪めた表情を解き、不思議そうに首を傾けている。
その通りだ。まだ無音の病が流行る前に僕らはこの店に来ている。すでに常連となっているし、いつもの、と記せば僕にはコーヒーを、夏紀にはとりあえず甘いものを出してくれる。紅葉はいろいろなメニューを頼むため例外だが。
『けど、絶対にコーヒー頼まないわけじゃないでしょ?』
『そりゃあ、砂糖はたくさん入れるけどね』
『マスターも忙しかったんじゃない?』
紅葉の穏当な記述はありがちだ。いかにマスターといえど、目の回るような忙しさの中では間違えてもおかしくはない。
首を伸ばしてマスターを窺う。マスターはゆったりとテーブルを拭いている。とてもじゃないが忙しいとは思えない。
『これに慣れてないんだろ』
僕は自分の耳を指差し、紙を見せた。
けれどこれには夏紀が首を振る。
『マスターは流行する前に対策を練ってたよ。楓と紅葉でその訓練に付き合ってたし』
それもその通りだ。僕が発症したのが高校入学直後。その次に紅葉、そして夏紀だ。僕と紅葉の発症時期はかなり早期であったため珍しがられたが、夏紀とマスターはかなり遅かった部類に含まれる。夏紀の後にマスターが発症したらしい。けれど初例から一年もしないうちにほぼすべての人の感染が認められているはずだ。
よくよく考えてみると、無音の病が広がってまだ二年しか経ってないのか。それなのに随分早く世界は安定したものだ。予期していたのか? まあこれは後々考えるか。
『一年以上前から対策練ってたんだから、慣れてないってことはないんじゃない?』
そう記して、夏紀は僕の記した 『これに慣れてないんだろ』 に大きくバツ印ををつけた。そしてついでのように紅葉の 『忙しい』 にもバツ印をつける。
腕を組んで大きく息を吐いてみた。ふむ、では注文したときのことを思い出してみよう。
この店内に入り、当然のように僕らはこの席に着いた。これはいつものことであり、マスターに目配せしたが問題はなかったはずだ。そしてマスターがおしぼりを持ってくる。この段階でまだオーダーは決まっていなかったので (紅葉と夏紀が) 、マスターはカウンターに戻る。そして決まったときにテーブル備え付けのボタンを押した。前は音を発していたが、今ではランプが点灯するだけ。カウンターから見える位置に連動して光る仕掛けが施されている。それを見たマスターがオーダーをとりにきた。ここまではいい。きっとここからが重要だ。
昔は夏紀が全員のオーダーを言っていたが、今ではメニューに指を差してマスターにみせる。マスターは僕らの顔とメニューを交互に見てメモを記した。そしてそのメモは僕らのテーブルの端に置いてある。そのメモを引っくり返してみると、そこには 「コー2、カフェ1」 と卓番が書いてある。これはホットコーヒー二つ、カフェオレ一つを表しているのだ。もしもアイスコーヒーが飲みたい場合、メニューのアイス欄を指差せば事足りる。んん? そうか。
僕は手を振り二人の注目を集めた。
『メニューの位置じゃないか。コーヒーとココア、それにカフェオレは隣同士。指を差す位置が微妙にずれていたのなら、勘違いしてもおかしくない』
二人はメニューと僕の記述を見比べた。紅葉は頭を捻らせているが、夏紀は首を振った。僕の記述の下にペンを走らせる。
『そうだとしても、普通確認するよ。 それにオレが甘いもの好きなの知ってるんだから、微妙な位置を指差したらココアを持ってくると思うな』
ごもっともだ。けれどこれはいい線なんじゃないか? 指を差す以外に注文する方法はないはずだし、ならばそこでしか間違えようもない。
『もしかしてさ、 他の人のオーダーと勘違いしちゃったんじゃない?』
紅葉の記述に僕は首を振った。
『そうするとこのメモの卓番が違う番号のはずだ。この卓番でコーヒー二つと書いてあるから、オーダーの時点ですでに間違えていたんだ』
『それじゃあ、私じゃなくて夏紀がカフェオレを飲むんだと思ったとか?』
ふと、考えてみる。それなら辻褄が合いそうだ。きっと紅葉は何の考えもなしに書いたんだろうけれど、それなら間違える理由にもなる。夏紀はコーヒーよりもカフェオレを頼む頻度のほうが圧倒的に多いし、紅葉はオーダーに脈絡がなく気分で頼む。もちろんコーヒーを頼むことも多い。でもこの説を肯定するとなると、紅葉と夏紀の両方がメニューの曖昧な位置を指差した、あるいは間違って指差したことになる。まったくないとは言えないけれど……。
『だめだ、ミルクと砂糖の小瓶が多すぎる』
飲み物を持ってきたとき、マスターは砂糖とミルクの小瓶を二つずつ持ってきた。そしてそれがまだ机の上にある。僕がコーヒーをブラックで飲むことは知っているし、紅葉も極端な甘党ではない。小瓶はひとつずつあれば事足りる。二つも持ってきたということは、やはりマスターは夏紀がコーヒーを飲むと思っていたのだろう。
『!!!!!!!!!』
『いや、それは書かなくてもいい』
紅葉はだんだん飽きてきたようだ。夏紀も頭を掻いて思案しているように見えるが、視線がちらちらと本に向いている。言いだしっぺなだけに切り上げるのが難しいのだろう。
つまり、頼みの綱は僕だけだということだ。
もう一度要点を整理してみよう。店内は忙しくはないし、仮に忙しくともマスターはミスをするような人ではない。慣れていない点もすでに攻略していると思われる。夏紀が甘いもの好きなのは知っている。かといって絶対に夏紀がコーヒーを頼まないわけではない。けれどそれは稀であり再確認をしてもおかしくない。それにマスターはオーダーのときに、メニューと僕らの顔を交互に見て確認している。指先の位置が曖昧だったら確認ぐらいするだろう。病が流行してからオーダーの繰り返しはしなくなったが、それをしなくても間違えるようなマスターではない。
結局マスターの珍しい勘違いなのか、と結論付けようとしたとき、つんつんと横から突かれた。ひじをついて口を半開きにした戦意喪失、戦線離脱を果たした夏紀が、いかにも適当に書いたと思われる文字をちらつかせていた。
『そういえば、マスターがオレの顔を見て驚いてた気もするよ。オーダーのときに』
『?????????』
『いや、それは書かなくてもいいよ』
『まあ、夏紀がコーヒーを頼んだと勘違いしたんだから、驚くだろうな』
んん? なにか引っかかったな。なんだろう、ちょっとしたことのような気もするが、重大なことのような気も。ええと、なんだっけ、夏紀が書いたのは、
『そういえば、』
『マスターが 俺の顔を見て 驚いてた気もするよ』
顔? どうして顔を見て驚いたんだ。妙なオーダーをしたなら、顔よりもメニューを見て驚くんじゃないか? でもそれは微妙な違いだから誤差の範囲内と言えるかもしれない。メニューを見て驚いて夏紀の顔を見た、ということかもしれないし。でも驚いたのなら、どうして再確認しなかったのだろう。それとも再確認したのか? 気づかれないように? メニューを指差す以外じゃ確認しようがないはずなのに……、まてよ。
『夏紀、もしかして』
こつこつと机をペンで叩いた。
『注文するとき、コーヒーって言ったか?』
記述を見て、夏紀は不思議とも呆れともとれる表情をみせた。
『いまさら何書いてるんだよ』
『悪い、訂正する。コーヒーって口を動かしたか?』
僕の記述を覗き、上を見上げて、下を見下ろし、メニューを窺い、僕の顔を見て、はっとする。
『そういえば、動かしたかもしれない。なんでだろう、昔の癖がでたのかな』
夏紀は全員の飲み物を頼もうとした。コーヒーが最初だったのはただの偶然だろう。
考えがまとまった。これが真相か。僕はペンを取り、戦線離脱している夏紀と、紙に絵を描き始めている紅葉の注目を集めた。
『夏紀は指を指す位置が曖昧だった。きっとマスターは確認しようとしたんだろう。けれど、夏紀の口が 「コーヒー」 と形作った。夏紀は僕が知る限り、口の動きを忘れていない唯一の人間。マスターはかなり遅い段階で病に罹ったはずだ。ならば、唇の動きを覚えていても不自然ではない。つまり、夏紀の口の動きで再確認したんだ』
二人は感嘆の溜息を漏らした。
『つまり、』
夏紀が記す。
『オーダーミスってことだよね』
夏紀はボタンを押す。爽やかな笑顔のマスターが召喚された。