身の内に飼っている狂気
後半何言ってるかさっぱりな詩状態に感じる人もいるかもなので、詩耐性無い人は次話からみてね
彼女は身の内に狂気を飼っていた。それも丁寧に丁寧に。たいそう丁寧に。まるでそれは自らの半身であるみたいに。
彼女は自らの弱さの理由を他者と自らの違いに求めた。強いて言えば、彼女が社会的に優れた存在であったこともここに磨きをかけたものはあっただろう。
彼女は多くの人、私と同じように、身の内に幼児性と、理性の両方を飼っている。だが、彼女はその幼児性、意識の本流を隠そうとしない。それはものかき作家としての意地か。性質か。本質か。あるいはすべての芸術家としての本質か。
気分が変わった。ここに語ろうか。僕が飼っている狂気をー
とかいいつつ、その前に性欲の話。
性欲?恋?わからないけど。五感の表面において、僕の趣向は肉だ。肉を感じるとそれが魅力に感じる。あとは高さかな?でも、高さというか、上方向の動きは人間だけに限った話じゃなくて僕の視覚的快楽だからまぁいいとしよう。
女性に関する話なら、内部性が伴わないといけない。じゃないと、このごろはぐっとこない。少なくとも見た目じゃだめ。
内部性はしぐさ、表情、服装。何らかの形で出る。かもしだしてる何か。みんなも知ってる言葉だと、色気とか、清潔感とか、あ~このひとこういう性格なんだろうなぁ的な アレ。
そして、会話を伴わない場合、ぼくは常に汚したい。性欲は猟奇的な攻撃性を伴った形で出る。それは確かに、穴として使うことなんだけど。穴として使うことが目的ではなくて。
それが穴になる。人間が穴になる。その過程にとっても興奮するんだ。例えば、首を絞めて気絶させる。あるいは、ギブアップさせるときの支配欲求。でも、たんに首絞められてるときの人の顔が好きなだけかも。顔が真っ赤で、ひっしで、目が充血してて、生きようとしてて、欲をすてたにんげんのすがた。ほんのう。それはあんがいかわいい顔なんだよ。みんなしらないけど。
そんな所有欲かもしれないものと僕がすきなフェラチオがされることは似ているようで似ていない。フェラチオはする側に反逆の意思がない。ある種、構われているという構図が存在する。弱点が相手の最大の武器の中にあるのに満足感があるのは、確実に支配している実感。だけじゃない。濃密な信用・信頼関係がその時そこに存在する。その上での強引な行為とは濃密な上下の格差、ポジショニングを踏まえた上でのやり取りだ。そして、了解の内にあるそれは安心感とか、抱擁感を伴うものだ。
女性に対する所有欲は果たして性欲からきてるのか。それとも、母性欲なのか。あるいは、脈々と受け継がれた男性という社会的文化的遺伝子が僕に強いるのか。それはよくわからない。
話は変わるけど、今日電車のなかに女の子がいた。可愛い子だった。すこし年下かな。タイトなスカートなのに膝を開いてすわってた。ぼくはギリギリみえなかったけど、となりの人はもしかしたらみえてたのかもしれない。彼女はちょっとぽっちゃりで、でも、顔はそんなに太ってなくて、若いうちしかできないいい肉のつき方をしていた。
母親が年をとったからなのか、自分が大人になったからなのか、最近おもってるよりおばさんにドキッとすることがある。もちろん、誰でもいいわけじゃない。それは大人でも子供でもいっしょ。ドキッとする人としない人。べつに顔じゃないのはわかってる。色気ってやつだ。
最近っていうけれど、
ちょっと、いや、だいぶ?時間の感覚ってあいまいだよね。数値の上でちょっとでも、そこには数字であらわせない長い歴史があったりする。さいきんはとくにそうだ。
こういう話はかんじにするとなんかきもちわるい。
ひらがなくらいがちょうどいい。
前までは、同じくらいの年頃の女の子なら正直だれでもよかった。大体の子がかわいくてそのかわいさは別々で。よりどりみどり。みんなが天使に見えた。
そしてそれを犯したかった。どうなんだろう。じぶんではそう思ってたけど、たぶんくっつきたかっただけな気もする。
それは今の事かもしれない。昔は本当にただ、やりたかっただけなのかもしれない。
ぼくのあいだにすぎていったながい歴史はとうじの感情をどこか遠くへ追いやって。
そもそもきおくのなかに感情なんてないかもしれない。おもいだしてみれば。
ほかの人がどうなのか知らない。
おしえてほかのひと。
ときどきおもうのはぼくはどこにいるのってこと。
ぼくがみつからない。
みつけたのがぼくなのか、ぼくにはわからない。
ぼくをみつけたところでふあんはなくならない。
すっきりとしたきもちなんてほんのいっしゅんで、ぼくのこころはすぐにどろどろ。
でも、こんどはなんだかまえにすすめそうなきがする。
みつけかけたぼくともういちど、むきあってみようとおもうんだ。