第一話 四条洋介 その①
九月の中頃。長いような短いような夏休みも終わり、ようやく学校生活の勘を取り戻した頃の放課後。部活動に所属していない私の予定と言えば、真っ直ぐに家に帰るか、ホームセンターのペットコーナーでアフリカ産の珍しいナマズを見ているか程度しかないのだけれど、この日は珍しく校舎に残っていた。
勉強をする為に図書館に残るでも、友達と汗を流す為に体育館に行くでもなく、私の足は本校舎の三階にある生徒会議室へと向かっていた。本来であれば、生徒会の役員及び学級委員長程度しか立入らない部屋なのだが、今日は十一月に行われる文化祭に向けた文化祭実行委員会の顔合わせの為に解放されている。
文化祭実行委員会!
こんなのは私のキャラではないんだけど、夏休み明けのHRで何故か私が実行委員になってしまった。どうにも、私は籤運が悪いみたいだ。が、籤は私も納得した選出方法だったし、文句を今更に言うわけにもいかない。面倒ではあるが、会議に参加する義務があった。
面倒臭いと思う気持ちが半分、しかし去年の文化祭の盛況さを思い出して楽しみなのも半分。中途半端な心持で「失礼します」と生徒会議室の扉を潜る。会議室内の椅子は既に半分くらい埋まっていた。窓が全開になっているにも関わらず、信じられないくらい暑い。今年は近年でも稀に見る猛暑に、若い身体から発せられるエネルギーが加わってとんでもないことになっている。机に座って談笑しているだけで、汗をかくような熱気だ。
どうしてクーラーがあるのに使わないんだろうか? 学校の理不尽な校則に憤りを覚えながら、自分の席を探す。黒板に着席順が書いてあったが、既に男の実行委員である天海勇人が着席しており、座るべき席は直ぐにわかった。
天海勇人。
去年も同じクラスだったこの同級生は、ちょっとした有名人だ。一人しかいない美術部員の部長で、私は見た事がないがそれは凄まじい絵をかくらしい。前年度の学園祭では、彼の絵を見た小学生が集団ヒステリーを起こして警察沙汰になった事は記憶に新しい。繊細な子に至っては未だに通院しているかといないとか。
しかしそれ以上に有名なのは、彼の顔の右側を覆う分厚い革製の眼帯だろう。海賊の悪玉が付けるようなデザインと言うよりも、それは罪人を捉える拘束衣に似ている。実際は産まれ付き右の瞳とその周辺に酷い傷と障害を抱えている事が原因で、詳しくは知らないが、それは現代医学でも綺麗に治せないほどに酷い傷をしているらしい。
そんなわけで、眼帯を付けた彼は良く目立つ。頬杖を突いて退屈そうな彼はすぐに見つかった。革製の眼帯は相当に蒸れるのか、他の生徒達よりも幾らか多く汗を掻いているように見えた。
「早いね、天海君」
適当にそんな事を言って彼の隣に腰を下ろす。ひんやりとした椅子が気持ち良い。
「…………」
私の挨拶は完全にスルーされた。いや、左目でちらりと私を見る位はしてくれたんだけど、それだけ。多分だけど、嫌われているというわけではない。怒っているわけでもないだろう。天海勇人と言う人間は、基本的に他人に干渉しないし干渉を嫌う。そしてひたすらに絵を描く。今も事前に渡された学園祭用のレジュメにボールペンで何の迷いもなく絵を描いていた。まるで目の前で現物でも見ているかの様に、精巧なタツノオトシゴが紙の上を泳いでいる。
まあ、別に話したいことがあるわけでもない。そう言う人間だと知っていれば別に腹も立たない。私と一緒で籤によって選ばれた哀れな子羊友達だからと言って、無理に仲良くなる必要もない。
特に会話もなく、スマートフォンを弄って五分。チャイムが鳴ると同時に、生徒会長の仕切りで第一回目の文化祭実行委員会会議が始まった。中心となるのは主に去年も実行委員をやった実行委員長の三年生女子。活発そうな大きな瞳と、長い髪の毛がややアンバランスだったが、落ち着いた様子の司会進行を見ていると、一年しか歳が違わないのに随分と大人びて感じられた。
何度も練習をしたのだろう。委員長の説明は非常に分かりやすく、話しはとんとん拍子で進んで行く。渡されたプリントも細かく指示や注意点が書かれており、彼女がこの文化祭にかける情熱が伝わって来るようだ。
と、言うのも。どうやら、彼女は去年の文化祭に風邪のせいで参加できなかったらしく、今回は復讐として存分に楽しむつもりであるらしい。なんとも穏やかではない表現だが、頼もしく心強い発言ではある。
楽しめることならば、全力で楽しみたい性質の私は、委員長の意気込みには深く賛同し、プリントに彼女の説明の補足を書き込んで行く。
偶に隣を見て見ると、天海君は退屈そうな表情でプリントの裏側に委員長の絵をずっと描いていた。美術部部長である彼の指先は凄まじいスピードで白紙にリアルな人間を産み出されている。これを文化祭のしおりの表紙にでもするべきだと、提案したい気持ちに駆られる程に、紙上の彼女は現実と大差がなかった。
同時に、話を聞いていない天海君の分も、しっかりしなければと、強い使命感を帯びた。
全体的に良い雰囲気のまま、これと言ったトラブルが起きることもなく、一時間もすると、会議の終わりが見え始めた。次回は一カ月後と随分と間が空くが、今月中に各クラスと部活で出し物を決めることを宿題として出された。
会議が思ったよりも早く終わりそうなので、何処かに寄ってから帰ろうかと考える。この時間であれば、久々にゲームセンターも良いかもしれない。夏休み中は一回も寄らなかったが、どうやら格闘ゲームの新筺体が出たらしいので、それを遊んでみるのも楽しそうだ。
が、予定を決めるも束の間、委員長が最後に去年の文化祭の映像記録の上映を行うと宣言した。委員長は自由参加と言ったが、先輩の主催となれば無碍にすることはできず、殆どの生徒はその場に残ることとなった。
もっとも、平然と帰ろうと席を勢い良く立つ天海君のような人間もおり、素早く席を立つ様子は、颯爽としていて恰好良くすら思える。空気を読まないと言う力は日本人憧れだろう。
「帰っちゃうの?」
一応、同じ委員として声をかける。まだ相談することはないが、これから文化祭まで一緒に行動する機会も多くなるだろう。できれば少しでも足並みを揃えておきたいと思うのは自然だろう。
「観ていかないの? DVD」
「自由参加なんだろ? “自由”良い言葉だ。俺が一番好きな言葉かもな。二番目は“カノッサの屈辱”で、三番目は“もやし炒め”か?」
確実に“自由”も一番好きな言葉ではなさそうだ。しかし自由参加なのは確かであり、引きとめる術も言葉も理屈もない。「そう、じゃあ」と別れの挨拶を口にするのが精々だった。眼帯の威圧感もそうだけど、隠されていない方の瞳も迫力が凄い。
と。その時。
「何? 帰っちまうのか? 観てけよ。俺が撮ったんだぜ?」
唐突に天海君との会話に、第三者が割って入って来た。背の高い男子で、学生服の名札の色を見るに、どうやら三年生で四条洋介と言うようだ。天海君はその先輩の登場と言葉に対して、露骨に顔の色を変えた。付き合いが長いわけではないが、『うわ。面倒な奴に会っちまった』と言う表情に間違いないだろう。
「四条先輩、か。興味ないな。事実をそのまま映して何が楽しいのか。こんな物、児戯の範疇を出ていない」
人の良さそうな洋介先輩に対して、肩を竦めて溜め息を吐く天海君。ビデオ撮影と言うのは、どうやら美術部部長の美学に反するようだ。
私はと言うと、突然登場した先輩に、どうしていいのかわからず、取敢えず着席したままスクリーンに映る映像に視線を移した。
「そう言うなよ。お前の技術と比べられたら、どんなカメラだって可哀想だ」
しかしどうにも会話が気になってしまう。ビデオのような媒体に記録されているといつでも見られると言う安心感からか、どうしても真剣に視聴することができない。気が付くと、五感の殆どは二人の方へと傾けられていた。
「それ、高坂委員長か、相変わらず、呪われたような様に。鬼の様に世界を描く」
言いながら、洋介先輩は机の上に放置されていたプリントを一枚手に取る。そこには、私が一生を費やしても描けないような出来の人物画が描かれていた。その褒め言葉が功を奏したのか、天海君はこれと言った反論はせずに、深い溜息を吐くとパイプ椅子に深く腰を掛けた。
「何か用か?」
「そう邪険にすんなよ。俺とお前の仲だろう?」
「美術部の先輩後輩って言う仲ならこの程度の対応で十分だろう?」
なるほど。二人はそう言う繋がりか。スクリーンの映像よりも隣の話に耳を傾ける自分の姿に、少しだけど罪悪感を覚える。盗聴とは、あまりに趣味がよろしくない。
「相変わらずだな。まあ、いいや。芸術家らしいし」
その言葉で無礼を片付けるのは、芸術家に失礼ではないだろうか?
「で、頼みがあるんだよ。文化祭のしおりの表紙を描いてくれないか? 例年漫研が描いていたんだが、今年は漫研が一年しかいなくてな。お前にお願いしたいんだ。どうせ、学園祭に出す絵なんてアレしかないんだろう? ここで仕事をしておけば、少しは美術部の評価も上がるぞ?」
洋介先輩が口にしたのは、まさしく私が先程抱いた感想。先輩が褒めるくらいだから天海君の絵は中々の物なのだろう。そして私の美術品を視るセンスの素晴らしさと来たら!
プリントに描かれた先輩の絵を改めて見て見ると、そこに描かれた彼女はカッターで切り付ければ血が出て来そうな程に生き生きしているように感じられる。これはもう、才能と言う言葉で片付けるのもおこがましい出来だ。
もう、このままこれを表紙にしてしまえば良いんじゃあないだろうか?
そんな事を他人事のように考えていると、「嫌だね」ハッキリと勇人は首を横に振った。いっそ清々しく、爽やかな風ですらある。
「俺はプロじゃあないんだ。誰かに言われて描くなんて、最低だ」
何と言うアマチュア意識の高さだろうか。洋介先輩もその言葉には苦笑するしかなく、言葉に詰まってしまう。その様子を見かねて、私はぽろっと「描いてみたら? 天海君上手だし」余計な口を挟んでしまう。
すると天海君は私の方へと振り向き、隠れていない左目に明らかな敵意を宿らせ、低い声で「あ?」と短い疑問文を口にする。ひょっとしたら、このまま殴られてしまうんじゃないだろうか? そう思うには十分の迫力だった。
「お、良いこと言うな」対照的に、洋介先輩は思わぬ援護射撃に嬉しそうに顔を綻ばせると、胸に刺さった名札で私の名前を確認する。「大塚の言う通りだぜ? 勇人」
「俺の技術を、俺がどう使おうが勝手だ。誰が何と言おうがね」
しかし天海君の信念は頑なだ。同級生の一言程度で崩れる様子もない。そう言う天海君の態度を見ていると、どうしても洋介先輩を応援したくなるのが人情と言う物だろう。
今更スクリーンに集中できるわけもなく、積極的に先輩の擁護に回る。
奇妙な連帯感を互いに感じながら説得すること二十分。幾つかの条件を呑むことでようやく天海君は首を縦に振ってくれた。
「っち。わかったよ。細かい指定は後でメールくれ」
そして彼は契約が成立するなり即起立する。よっぽど早く帰りたかったらしく、まだ動画が流れていることにもお構いなしに会議室をすたすたと出て行ってしまう。人の目とか気にする様子は微塵もない。羨ましくもある。が、ああはありたくない。
「行っちゃいましたね」「行っちゃいましたな」
机に取り残された私達は顔を見合わせてそんな事を互いに呟く。
「悪かったな。余計なことに巻き込んで」
申し訳なさそうに、洋介先輩が頭を下げた。巻き込まれたと言うのは『文化祭の実行委員の仕事を五回までサボれる』と言う可愛い物なので、恐らくは問題にならない。元々、天海君に手伝って貰おうなんて欠片も思っていないし、期待もしていなかった。むしろ五回以上サボる気がないと言う方に驚いたくらいだ。今日来た事すら吃驚しているのに。
「先輩の方こそ、美術部長の仕事を全部代わりにやるなんて大変じゃあないですか?」
それを証明するように、天海君は部活動の方の仕事は全て洋介先輩に擦り付けている。一応『先輩』なんて敬称を用いていたが、そこに敬意は絶対にないだろう。
「去年もやったし、大したもんじゃあないさ」
肩を竦めて笑う洋介先輩は、偉ぶっている所がなく、人当たりが良く見える。理想の先輩と言うには大袈裟だが、決して悪い人ではなさそうであり、天海君の代わりに謝罪をしたいくらいだ。
勿論、大して仲が良くない人間に代わって、大して知りもしない先輩に謝るような失礼なことはしないが。
「でも、受験勉強とか大変じゃないんですか?」
話題に困った私は無難に話を続ける。スクリーンでは、去年の三年生による演劇が流れていた。一年か二年前に流行っていたハリウッド映画のパロディで、なんともチープな出来だ。何が面白いのかわからなかったが、祭りの雰囲気に浮かされているのか、皆楽しそうな笑い声が何度も上がっている。
「俺は別に受験希望じゃあないから、問題はないさ」
不景気な時代に高校卒で就職活動に挑もうと言う洋介先輩も、それを見て笑みを作っている。
その後、動画の上映が終わるまで他愛ない言葉を交わした。最近見た映画の感想だとか、小学生の時の国語の教科書で印象に残った話だとか、天海君の眼帯の話だとか、明日にでもなれば忘れてしまうようなことを互いに言い合った。
放送が終わると、今度こそ委員長が解散を宣言し、会議室中に椅子を引く音が鳴る。
「今日は楽しかったです」
顔を見合わせ社交辞令でなく礼を口にする。洋介先輩は、口元だけでシニカルに笑って応えた。人の良さそうな顔に余り似合っているとは言い難いが、しかしどことなく愛嬌があって、似合っていなくても彼らしくはある。
「俺も、楽しかったよ。文化祭、頑張ろうな」
そんな先輩の表情に、ふと小さな違和感を覚えた。
いや、違和感と言う表現は正確ではないかもしれない。なんと言うか『見たこと』がある気がしたのだ。勿論、先輩と向かい合って話すのはこれが初めてのはずであり、この奇妙な感覚はもっと昔に体験した物だと強く訴えている。
懐かしいような、新鮮なような、不思議な感情が胸の中に渦巻く。
既視感。
デ・ジャビュ。
そう表現するのが一番しっくりと来るだろうか。
初めて体験するのに、今まで何度も体験しているように感じるというあの現象だ。
名前だけは知っていたが、ここまでハッキリと胸の中に表現しがたい違和感や不安を産み出す物だとは知らなかった。
既視感初体験の戸惑いが表情に出たのか、洋介先輩は「どした? 大塚?」と不安げに眉根を寄せる。
「いや、なんでもありません。少し立眩みが」
咄嗟に嘘を吐く。
たった一言で矛盾のある発言は当然訝しかられた。が、深く追及するようなことを洋介先輩はしなかった。座りっぱなしだったことが原因だと判断したのだろう。
「そっか、なら良いけど」
後輩の体調に問題がないことに、こんどは真っ当に笑って、洋介先輩はその場で踵を返して生徒会議室の出入り口へと向かう。
私はと言うと、既視感の奇妙さに頭を押さえながらも、机の上のプリントをまとめた後にそれに続いた。