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一話



 彼女が集落から飛び出したのは、この世に生を受けてより僅か四年を迎えた頃合だった。

 そこに虐待や迫害などの暗き事実は皆無であったが、肉体の成長と共に肥大する違和感が彼女を一族の元に留まらせなかった。

 同種族とは比較のしようもない程の強大な力と不動の精神でもって、彼女は自らの年齢の倍ほどの月日をかけて世界中を渡り歩く。

 しかし、ついに己の抱える感情を払拭することは叶わなかった。

 もはや受け入れるしかあるまいと諦念の境地で旅を終え、さりとて再び故郷の土を踏む心持ちにもなれず、彼女はとある山の中腹で世捨て人のごとき生活を始めることとなる。




~~~~~~~~~~




 宗教国家イノレイは聖都アガメ=ルヨン。

 その都市は、天まで届こうかという巨大かつ堅牢な壁面に囲まれていた。

 およそ人間の手で造られたとは考え難いソレは、古き伝承によれば、建国の際に神より賜った奇跡であるとされている。


 そんなアガメ=ルヨン内部に、初代イノレイ王の時代より遥か千年の時を経てなお歴史を重ねる、国内最大級の貴族学院、聖カワズノーイがそびえ建っていた。

 貴族学院というからには当然、そこには尊き血の流るる少年少女たちが通っている。

 彼らは、いずれ国を背負う者として、また民の手本となるべき敬虔な信徒として、研鑽の日々を送っていた。

 やがては立場を違える者たちではあるが、在学中は神の名の下に誰しも等しく扱われ、古き位に依らぬ己の真価を見つめることとなる。


 とはいえ、そこは思春期ざかりの少年少女らであるからして、現実には、必ずしも清き心のままに在れる人間ばかりとはいかなかった。




「っそ……んなこと、できるわけないっ」


 広大な敷地を持つ聖カワズノーイに複数存在する中庭のひとつ、その隅に生えている木々の更に奥に建つうらぶれた倉庫裏。

 そこで、一人のさえない少年が制服のズボンを土で汚しながら、小さく悲鳴にも似た声を上げていた。

 彼の名は、フラワンサック・ドターマー。

 当貴族学院に在籍する十四歳の少年である。

 その前方には、三人の同級生が立っており、それぞれ異なる表情で彼を見下ろしていた。


「お前、デール様に逆らおうってのか?

 たかが男爵家次男のお前がぁ? はぁー?」

「この万年落ちこぼれ野郎! フラワンサックめ!

 できるできないじゃない、『やる』んだよ!」


 弱々しく首を横に振るフラワンサックへ、いかにも力自慢といった巨躯の少年ベン・ヒリダスと、小柄で不健康そうな青白い肌をした少年キレライ・シッコマンが躍り出て、前者はヤクザじみた凄みを利かせ、後者はヒステリックに怒鳴り散らしている。


「ベン、それにキレライも……あまりそういきり立つものではないよ。

 私はただ友人にお願いをしているだけだなのだからね」

「おおっと、そうでしたぁ」

「出すぎた真似を申し訳ありません、デール様!」


 そんな二人へ、輝く白金の長髪を揺らしながら、美しき少年デール・トイレインが静かな口調で諌めに入った。

 すると、ベンとキレライの二人は、すぐにフラワンサックから距離を取り、深く頭を下げて彼の背後に並び立つ。


「いやいや、いいんだ。いつもキミたちにはお世話になっているからね。

 改めて、私から祖父に伝えておこう。

 ダイ卿とヒニョン卿のご子息は、よくよく出来た神の信徒であると、ね」

「おぉ、ウォッツマル大司教様に!」

「ありがとうございます、デール様!」


 絵画と見紛うような清廉な微笑を浮かべた侯爵家嫡男デール。

 彼の取り巻きである二人は、興奮を隠しきれぬ様子で右の拳を握り、左胸、心臓の上を三度叩いた。

 これは、イノレイの民が神へ祈りを捧げる際の作法である。

 嬉しい時、悲しい時、彼らは己の感情の全てを、その生を与えたもうた尊き唯一神オガメルへと届けるのだ。

 二人の姿を眺めて満足そうに頷いたデールは、次いで、尻餅をついた状態で固まっているフラワンサックの元へと視線を向け、再度口を開いた。


「さぁ、フラワンサックくん。

 私のお願い、叶えてくれるだろう?」

「そ、んな……っだ、だって、あそこは……っ」


 一方的かつ理不尽な要求に断りの文句を続けようとして、彼はあえなく失敗する。

 唐突にしゃがみ込んで、息のかかるほど近くに顔を寄せてきたデールに驚いて、悲鳴を飲み込むのに精一杯だったからだ。

 にこにこと天使のような笑みを浮かべた美少年は、しかし、その麗しいサファイアの瞳を仄暗い闇色に染めていた。


「大丈夫、あくまでこれはお願いなんだ。

 どうしても気が進まないと言うのなら、キミは断ってもいいんだよ。

 私も友人に無理強いなどできないからね。

 あぁ、そういえば話は変わるけれど……来年度、キミの妹の……ユーノさん、だったかな?

 カワズノーイに入学するそうだね?」

「えっ……な、なん……それ……っ」


 まるで内緒話でもするかのごとく、デールは口元に手を当て小声で囁きかける。

 予想もしていない状況で妹のことを聞かされたフラワンサックは、身体の内側を蟲が這うようなゾワリとした悪寒に襲われて、無意識に呼吸を浅くした。

 顔から血の気の引いていく彼の様子を、当のデールがどこか面白そうに観察している。


「ここはぜひ、キミの友人代表である私自ら、何かお祝いを出来ればと考えているのだけれど……」

「止めっ、いも、妹は……っぼ、僕、僕が……」


 穏やかに語られたソレが譜面通りの生易しい意味であったのならば、少年がここまで苦しみに喘ぐこともなかっただろう。

 フラワンサックは、乾く口内を必死に震わせながら、目の前の同級生に懇願する。


「い、行くっ、行きます。

 禁域の山の果実を、スゲィミーを取ってくるから、だから、ユ、ユーノだけはっ、どうか……っ」

「おや、そうかい? やっぱりキミは優しい人だねぇ。

 それに、妹想いの良い兄上だ。

 これからも友人でいてくれると嬉しいよ、フラワンサック君」


 ようやく望む答えを得られたとあって、デールはこれまでで最も明るい笑みを向けて、今にも泣き出しそうな悲壮な表情で地面を見ている友の肩を叩いた。

 触れられた瞬間、小さく身体を跳ねさせるフラワンサック。

 その後、間もなくベンとキレライの取り巻き二人を従えた美少年は、いかにも優雅な足取りで去っていった。

 そんな彼と反対に、万年落ちこぼれと蔑称で認知される少年が立ち上がるまでには、そこから更に数時間の刻を要したのだという。




~~~~~~~~~~




 イノレイ国民の信ずるオガメル教において、禁域の山は神の休息所と認知され崇められていた。

 天災や魔物被害により、ひたすら惑い数を減らしていく弱き人々を哀れみ、壁面を創り出して安息の地を与えたとされる神が、天に帰る前にその山に腰掛け、奇跡の行使で乱れた息を整えたのだと伝えられている。

 よって、年一度の奉納の儀式で僅かな聖職者が足を踏み入れる以外では、聖典に記されし戒律にて、人の身で到ることを禁じられていた。

 つまり、そこはイノレイの民草らにとって聖地であり、また、オガメルに連なる信仰の対象ともなっている重要な場所だということだ。

 仮にも信徒でありながら、愚かにも神聖な山へ侵入を果たすばかりか、神のために生る恵みを掠め取ろうなどとすれば、その者は歴史的背信者として後世まで語り継がれる大罪人ともなり得る話であった。

 遥かなる時の流れに浚われ、信仰の在り方も地を生きる者を主軸としたものに少しずつ変わってきてはいるのだが、それでも、イノレイには現代日本などとは比較にならぬほど信心深い民が暮らしている。

 妹の安寧ために、今ここに禁を犯そうとしているフラワンサックもまた、そんな宗教国家に育った存在であり、その罪悪感は未熟な彼の心身を重く激しく削り続けていた。


「神様。あぁっ、神様。どうかお赦しください。

 僕は、どこまで行ってもダメな落ちこぼれで、でも、妹は、ユーノは昔から優秀な子で、僕なんかより絶対守られなくちゃいけない子で、でもでも、バカな僕にはそのための方法が分からなくて、僕、僕は……神様、オガメル様、僕は罰を受けますから、どうか妹には、家族には赦しを、この罪の咎が僕だけのものであることを……うぅ、でも、本当は、僕も罰はイヤだ……イヤだよ……怖いよぅ。神様ぁぁ」


 身体を丸く縮め、幼子のようにしゃくり上げながらも、彼はその震える両足を大地に擦りつける形でゆっくりと禁域に進めていった。

 ほんの一歩、たった一歩分境界を越えただけで、フラワンサックを取り巻く空気が一変したのは、さすが神の域と定められし聖なる山、といったところだろうか。

 禁じられし土地からの手痛い歓迎に、哀れな少年はかみ合わない歯を鳴らしながら、それでも歩みを止めずにスゲィミーの果実を求めて奥へ奥へと向かっていく。


「ゆ、ユーノ、ユーノのためだ、ユーノの……」





 さて、中々に元も子もない話にはなるが、いくら聖域だの神の山だのと声高らかに宣言したところで、しょせん、それはあくまでオガメル教を信ずる者たちの中での決まり事でしかない。

 とりわけ、本能に生きる獣たちにとって、人間という貪欲な敵のいない禁域の山は、むしろ過ごしやすい環境であるといえよう。

 また、気候も穏やかなこの地は、自然の恵みも豊富で、短い冬の期間に餓えて死ぬような生物も少なかった。

 とどのつまり、それによって何が起きるのかというと……。


「ッひぃぇああぁぁおぁああああッなばぁああぁああぁぁああああ!?」


 巨大化である。

 たっぷりと栄養を摂取し育った獣や蟲たちは、一般的とされる姿から、一回りも二回りも大きく体を成長させていたのだ。


 フラワンサックは、山中をさまよう内に、人間を丸呑みにできそうなほどの大層立派な巨狼と出会い、追われ、顔面から様々な汁を垂れ流しながら逃走している最中であった。

 彼が未だその牙の餌食と散っていないのは、巨狼が特に腹を空かせているわけでもなく、ただ珍しい生物を見かけたので、後をついて回って遊んでいるに過ぎないからだ。

 とりわけ幸運だったのは、その獣が禁域でもかなり上位の存在であり、彼に遊ばれている内は他の生物に横槍を入れられることはまず有り得ない、という事実であろうか。

 当然といえば当然だが、そんな理由など知るはずもない少年は、迫り来る死の恐怖を背に、ただただ無我夢中で駆けずり回ることしか出来ずにいた。


 やがて、息も絶えだえに辿り着いた湖の畔で、彼は視界の先に人の住んでいるらしき小屋を捉えて、思考に疑問を挟む暇もなく、救援を求めて走り寄った。

 簡素な木造の扉に縋りつき、それを幾度と叩きながら、詰まる呼吸の合間に助けを叫ぶ。

 フラワンサックが湖に到る少し前辺りで巨狼はすでに姿を消していたのだが、そんなことには気付きもせずに、少年はひたすら小屋の主に呼びかけ続けた。

 必死の甲斐あってか、間もなく、内側から軋むような音と共に扉が開かれていく。


「……っひぃ!?」


 しかし、フラワンサックの希望空しく、そこから姿を現したのは、碧き鱗を全身に纏った人ならざる存在。

 俗世においてリザードマンと呼称される、魔に連なる悪しき生物であった。


「あ、あぁ、あ……」


 重なる不運に力なく座り込み、もはやまともに言葉も紡げぬ少年を、金色(こんじき)の目玉に浮かぶ縦長の瞳孔が捉える。

 それだけで、フラワンサックは、さながら蛇に睨まれた蛙のように全身を硬直させた。

 聖都アガメ=ルヨンの地に育った彼であるからして、知識として学んではいても、魔物と分類される存在を目の当たりにした経験など皆無である。

 これは聖なる山を侵した自らへの神罰なのかと、おぼつかぬ思考の底で深く後悔の念に苛まれながら、少年は額から数滴の脂汗を垂らした。

 固まるフラワンサックを見下ろすリザードマンは、何やら具合を確かめるかのように口元を小さく動かし始める。

 そんな魔物の様子に、いよいよ食われてしまうのだろうと、少年は戦々恐々としながらも、どこか観念した心地でその時を待っていた。


「どうも騒がしいと思えば……鱗持たぬ者とは、珍しい客人もあったものだ。

 用向きはなんだ?」

「へっ」


 開いた顎から覗く鋭い牙の隙間から、聞きなれた人語が飛び出して、フラワンサックは唖然と瞳を瞬かせた。

 凶暴なばかりの血に餓えた化け物、というのが悪しき者に対するイノレイ国民の共通認識である。

 だというのに、彼が産まれて初めて遭遇したこの目の前のリザードマンは、いかにも理性的な人間らしい態度で悠然と佇んでいるではないか。

 これはどうしたことかと、少年の思考が停止する。


「ん、緊張で固まっておるのか?

 全く、このようなか弱き幼子を使いに寄越すなど余程の考え無しの仕業か……気が知れぬな」

「あ……っえぇ……?」


 呟いて、魔物はびっしりと鱗に覆われたしなやかな両腕を組み、呆れた様子でため息を零す。

 フラワンサックは混乱した。

 彼の学んできた常識が、足元から音を立て崩れ去っていくようだった。


「まぁ、良い。客人であれば、まずは持て成すが道理であろう。

 粗末な見目だが、存外、中の居心地は悪くないものだぞ。

 さぁ、入った入った」

「っひぇあば!?」


 言うやいなや、リザードマンは己の背丈を僅かばかり超える長さの尾を伸ばし、器用に少年の腰に巻きつけて持ち上げ、そのまま小屋の奥へと戻っていく。

 唐突さと、そのあまりの早業に驚愕したフラワンサックは、ろくに抵抗する間もなく、至極あっさりと魔物の住処に連れ込まれてしまうのだった。





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