第8話 あれからあのスム達は
早朝、灰色の作業着を着た男が前に感じた時よりは少しだけ軽い足取りで歩いている。
足取りが軽く見えるのは、天気がとても良いからだろうか。見上げると、雲ひとつない青空が広がっているではないか。
そして気温も高くもなく低くもない、過ごしやすい感じだ。
彼の行き先はエゾシカ工業地区だ。
こうやって歩いていると、ここ最近のこの街の変化を感じる事ができる。道端に落ちていた大量のゴミは撤去され、晴れた日などは強烈に感じていた排泄物の臭いもほとんど感じない。
変わらないのは、工場の煙突からでる黒い煙と、子供たちが泥だらけで楽しそうに遊んでいる姿だろう。
ただ所々に公園ができたので、道端で遊んでいる子供は少ない。
「なんか、結構良い街になってきたんかな」
そして、南の方にある物凄い勢いで煙を吐く、大きな火力発電所を見上げる。
「いや、今までが最低だっただけかな」
と、失笑しながら独り言をつぶやくと、数週間前に出来たばかりのゴミ収集所のフェンスの奥から、男に話しかける声が聞こえた。
「旦那!久しぶりですな!元気でしたか?」
声がした方を振り向くと、同じような作業着を着た初老の男がこちらを見ているが、見覚えがなく困惑する。
知り合いだったら、忘れられたと思われて悲しむだろうな。でもこんな初老の男が悲しんでも別に構わないかな、などと思い返す。
「えーっと、身に覚えがないんだが、人違いじゃないかな?」
こんな晴れた日は正直に言ったって誰も傷つかないんだぜ、そうわけの分からない理由をつけて「ではでは」と、立ち去ろうとしたが、さらに呼び止められる。
「覚えていないのも無理はねぇす、あっしは、その辺で野垂れ死にそうだった浮浪者の一人、旦那に施されたおかげで、今こうして生きてられているんですわ」
そう言えば、気まぐれにそんな事をしたこともあったなと、思い返してみるが、浮浪者の顔をいちいち覚えているわけもなく、特に気にも留めずに「ああ、そうだったんかい」と一言告げてその場所を後にする。
この街に電気、上下水道、ゴミ収集所が立て続けに整ってからというものの、人々の暮らしがかなりマシなものになり、雇用も増え失業率も大幅に改善したのだ。
その結果、道端に少なからずいた浮浪者もほとんど見る事がなくなった。
環境は良い方向に進んではいるものの、男の職場環境はあまり変わらない。ただ、確実に好景気なようで、仕事は非常に忙しい。
ちょっと前までは定時上がりで、日払い代の一部をやっすい飲み屋でひっかけて帰るを繰り返していたが、つい先日正社員に登用されたのだ。
「社員になったのはいいけど、残業残業で体力がもたねぇよ、早く人増やしてくんねぇかなあ」
今エゾシカ街は一気に街が発展し、労働力不足で働き手の若い男性が負担を強いられているのだ。
さて、インフラが整った住宅地区を見渡すと、トタン屋根が特徴のバラック小屋だらけだった街並みが、木造一軒家や木造アパート、長屋、集合住宅、などなど低層住宅が立ち並び、どこか懐かしい雰囲気のある街並みに変化していた。
とあるアパートの一室にかなりお腹の大きくなった奥さんがいる。
そう、あのダメダメな夫にはもったいないほどのしっかりものの奥様だ。
「前は洗濯機どころか水道すらなかったけど、洗濯機と水道があるのは本当に助かるわ」
身重の彼女にしてみれば、井戸まで水を汲みに行ったり、手洗いでの洗濯は非常に大変だったが、現状はその辺が改善され、なんとか無事に出産を迎えれるのではないかと思う。
このような事は彼女だけではなく、エゾシカ街に住む人々みんなに言える事であって、現在エゾシカ街には第一次ベビーブームと言えるくらいに出産率が向上している。
そんな彼女が昼食を終え、家事の合間の休憩をしていると、突然体が硬直してしまいそうな衝撃音が響いた。おそらく近くのガラスが割れた音だ。
様子を伺おうかと考えている少しの間に、また連続してガラスが割れる衝撃音が続く。
外の街路では、明らかに不良と思われる少年集団が手当たり次第にアパートなどの住宅窓をバットで割っているではないか。
「ギャハハハハ!ちょっとやり過ぎだって!」
「おっしゃー!次はこっちのボロアパート!」
少年たちは躊躇することもなく、次々と窓ガラスを割っていく。
たまにこのような事が起こることは知っているものの、彼女は自分の身に恐怖を感じ、部屋の奥で息を潜め蹲る。
しばらくすると、大人たちが数人で注意し騒ぎは収まるものの、これから子育てしていくのに彼女にとってはもちろん、誰が見てもこの街の治安環境は良いとは言えなかった。
腕を組み、非常に真剣な顔をしながら、今までの様子を黙って見つめる姿があった。
「なぁナタリー……」
「何でしょうか?伊藤市長」
そう、この街の市長の伊藤が、上下水道インフラ整備の後に視察をしているのだった。
「まだまだ子供を安心して産める環境じゃないぞ、これは!」
「はい、ちなみに現在ベビーブームで出生率は非常に向上しておりますが、医療施設が無いために、低年齢層の死亡率も増加しております」
ナタリーの言うとおり、今エゾシカ街ではベビーブームが到来しているが、産婦人科どころか、病院がひとつもないため、出産は所謂産婆と呼ばれる助産師が受け持っている。だが、産婆さんも人数がきわめて少なく、正式な助産師の資格などを持っているわけではない。
それに加えただでさえ生後間もなくは不安定な時期に、病院がないのだから無事に生まれたとしても病気などで亡くなってしまう事も少なくないのだ。
「いかん!いかんぞこれは!いかん、いかん、いかん、いかん」
「伊藤市長、落ち着いて何ができるか市長室で一緒に考えませんか?」
「そ、そうだな。とりあえず市長室に戻るとするか」
そうして、ナタリーと伊藤市長は市長室に戻り、施設系パネルをすぐに開くのだった。