鯨型33号
「パキケトゥス。」
僕は唐突に言葉を吐いた。
「パキケトゥスって? 新しい体位? またコウちゃんはエロいんだから。」
彼女は笑って、返す。そんな発想をする君の方がエロいじゃないかと思ったが、口には出さない。その代わりに僕は別の言葉を吐いた。
「アンブロケトゥス。」
「はあ、それも新しい体位? 相当にエロいですねえ。コウちゃん。」
さらに笑って、上機嫌の彼女。一呼吸おいて、小さく言葉を続ける僕。
「鯨だよ。」
僕はテレビを指差した。21型のハイビジョンテレビに映像が流れている。無論、決してエロい映像ではない。
【鯨型33号が現れました。】
台風速報と同じように100%安全圏にいるアナウンサーが流暢な日本語で説明してくれる。鯨型33号のサイズが15m程で、今までで最も大きいものであること。海から陸地を静かに観察していること。地元の漁師達と反捕鯨を掲げる海洋環境保護団体が鯨型33号を見守っていること。簡単に鯨型33号のことが解説され、中継は続けられている。
「鯨型? 鯨? どっち?」
「鯨だよ。鯨の祖先だよ。」
「はっ、何、それ?」
鯨型という言葉は知っているが、パキケトゥスとアンブロケトゥスという言葉を知らない彼女。いや、覚えていないだけだ。僕は煙草に火を点けた。煙は揺らいで、空気に溶ける。その残り香が鼻腔を刺激して、永遠に時間が止まった気がした。でも、テレビの映像と音声にまた現実に戻される。鯨型33号の中継はまだ終わっていない。僕は鯨オタクというわけでもない。動物愛護団体に属しているわけでもない。昔、テレビや活字で流れた情報をふと思い出しただけ。人は熱しやすく、冷めやすく、忘れやすいもの。でも、まだ覚えている。ゆっくりとパズルを組み上げるように僕は記憶を辿っていった。
座礁鯨。生きたまま、浅瀬に打ち上げられた鯨のことだ。鯨が浅瀬に迷い込む理由は餌を求めてか、外敵に襲われてかと考えられている。でも、実際にどうだかは誰も知らない。鯨の身になった人が考えたことなので当てにならないのは確かだ。鯨が浅瀬に入り込めば、その巨体故に戻れなくなるのは必然だろう。浅瀬を逃れようとすればするほど、岩場で巨体を傷付けて、体力を消耗する。そして、動けなくなり、座礁する。
【ちなみに鯨が死体の状態で漂着した場合は漂着鯨と言います。】
鯨の豆知識が締めの言葉となり、テレビの画面が切り変わる。空からの中継だ。浜辺に近い浅瀬で鯨が横たわっていた。打ち寄せる波に抗うこともできないようだ。いつも反捕鯨とか、鯨を守れとか、鯨は友達だとか騒ぎ立てている連中は何をしているのだろうか。座礁した鯨すら助けられないのか。どんな奇麗事もこういう現実にぶち当たれば無力なんだよ。自分の無力さよりも他人の無力さを馬鹿にして、僕は見せかけの優越感を抱いていた。
この国は島国で、海に囲まれている。鯨だって迷子にならないわけがない。だから、鯨が座礁することはそんなに珍しい出来事じゃない。ニュースにならない座礁鯨も、漂着鯨もきっといるはずだ。それにしても、この座礁鯨のニュースの中継はやけに長々と続けられている。
【見えました。今、見えました。分かりますか? 腹部の辺りに・・・。】
空からの映像が乱れる。中継する声が乱れる。今、何が見えたって? 僕は目を凝らして、テレビの画面に食い入る。鯨が波に抗い、最後の力を振り絞って、ゆっくりと半転する。その腹部が明らかになり、中継が乱れた理由を、海洋環境保護団体の連中が鯨を助けない理由を、座礁鯨のニュースが終わらない理由を僕は理解した。
鯨は水棲動物で、哺乳類としては最大の種族だ。時折、浅瀬に迷い込んで、漂着することがある。座礁鯨と漂着鯨の意味が違うことは知らなかった。鯨の肉も、皮も、骨も、歯も、全部、活用できる文化をこの島国の人は持っている。ずっと昔からだ。外国から鯨を食べる野蛮人と思われている。小学生の頃、鯨肉が給食のメニューにあって、その鯨肉の給食がうまかった思い出がある。鯨に関する知識と思い出はこれぐらいだ。
鯨に足があるなんて。
鯨に手があるなんて。
僕は知らなかった。
【見てください。鯨の腹部に足が、手が見えます。あれは鯨でしょうか? あれは何でしょうか?】
中継の声と映像とともにこの島国で積み上げられた鯨文化が波に飲まれる砂の城のように簡単に崩れていった。
見た目でマッコウクジラと分類される座礁鯨は5m程で、まだ子供のマッコウクジラ、いや、マッコウクジラ(?)って感じだろうか。なんせ、手と足がある鯨なんて誰も見たことないのだから。座礁鯨は丸1日、波に抗い続けて、動かなくなった。誰の助けも得られないまま、座礁鯨はその眼を濁らせていく。その結果、物言わぬ、冷たい屍となったのだ。
遠巻きに見ていた役人と学者が座礁鯨の屍を取り囲む。さらに遠巻きにマスコと海洋環境保護団体が入り混じっている。砂糖に群がる蟻のよう。むろん砂糖は座礁鯨の屍で、蟻は好奇心豊かな人々。テレビの中継やインターネットを通して、この哀れな屍をたくさんの人が見ていた。あれは何? 未知との遭遇? 雪男並みにレアなの? この島国の人だけじゃない。世界中の誰もが好奇の目でこのレアな屍は追いかけていた。インターネットはとても便利だ。世界の裏側で起こった凄惨な事件もタイムラグなく知ることができる。そして、情報を拡散することできっと座礁鯨を助けることだってできたはずなのに。
だが、この島国の人も、この世界中の人も座礁鯨を助ける気などなかった。ただ、座礁鯨の屍という砂糖に蟻のように群がっていただけなのだから。
座礁鯨の基本的な形状はマッコウクジラである。大きく盛り上がった頭部を持ち、胴体が寸胴なミサイルのようにも見える。胴体の真ん中より後ろの裏側に人の体に似た部品が突き刺さっている。人が鯨の体全体の被り物をしているようにも見えるが、そのバランスの悪さは相当に酷い。5mの鯨の巨体を支えるには体が小さすぎるのだ。海中という負荷の少ない環境が要因? では、深海の水圧に耐えうる強さを持っているのか? それとも、ただの奇形? 鰭が変形して、人の体になったのでは? たくさんの意見が雑多に並べられて、ジャンル別に整理される。
そこにはただの1つも正解はないし、誰も正解なんて知らない。でも、座礁鯨の屍を解剖することでその正解を知ることができると誰もが簡単に思っていた。人はとても傲慢な生き物なのだ。
座礁鯨と人の体に似た部分に満遍なくメスが入れられる。もちろん、座礁鯨は痛いなんて言わないし、解剖の同意書などない。解剖は死者に敬意を表した厳かな儀式ではなく、好奇心に駆られた学者連中の狂信的な集会にしか見えない。濁った空気が充満し、空間を支配する。皮肉めいた冗談と嘲笑がさらに空気を不健全にする。ガス抜きをしなければ。そんなことに学者連中は気づかない。だって、巨大な鯨の屍を目の前にすると、好奇心を抑えることができなくなるから。それが学者であり、人である。
解剖が進むにつれ皮肉めいた冗談も出なくなってくる。あれは何だ? 理解不能だ。解剖すれば、簡単に分かるという傲慢な考えがヒステリックな思考を生みだす。何故、分からないんだ? メスが空を飛ぶ。感染防止のゴーグルに血しぶきが飛ぶ。冷静な思考などそこにはなかった。正解を見つけなければ。傲慢なプライドが足りない理を架空に作り上げていく。学者連中が作り出した正解は三文SF小説とたいして変わらなかった。
盛り上がった頭部と寸胴なミサイルのような胴体はマッコウクジラと変わらない。骨格があり、内蔵があり、筋肉がある。そして、ずっと昔に退化した骨盤の名残がある。図鑑通りのマッコウクジラだ。期待外れではあるが、当たり前の結果にそっと胸を撫で下ろす。
次は人の体に似た部分である。それには人と似た骨格があった。その骨は人のものより太く、硬度も優れていた。骨格に絡みつく筋肉はマッコウクジラ部分の筋肉と変わらないが、人の筋肉よりも強靭な性能を備えている。筋肉が骨格を操作するために幾重にも重なり、絡まり、人の体に似た部分を形成していた。じゃあ、内蔵は? 心臓は? 肺は? 胃腸は? 腎臓は? 必死で探す。いや、人ではない。それは人の体と似た形をしているだけで、決して人ではない。マッコウクジラなのだ。骨格に守られるべく各種臓器はマッコウクジラ部分にあり、人の体に似た部分には存在すべき各種内蔵はあるはずなかった。代わりにあるのは筋肉の塊。その体を、手足を操作するための筋肉が骨格からはちきれるほど詰め込まれている。これならば、深海の水圧にだって耐えうるかもしれない。
さらに解剖は続く。マッコウクジラと同じ灰色の皮膚が人の体に似た部分を覆っている。マッコウクジラと同じく鱗はない。人に似た部分に詰め込また筋肉のせいではちきれんばかりの筋肉美を形成し、女性陣がうっとりする。でも、惜しいことに腕と足のバランスがおかしくて、すぐに我に返る。人という定義でくくるから見苦しく見えるのだろう。腕が足と同じ長さで存在し、2足歩行より4足歩行の方が向いている形態をしている。骨格からは2足歩行の形態を想像させるのだが。誰かが言う。進化の途中なのでは? 海から陸地へ? 4足歩行から2足歩行へ? 誰も返事をしない。馬鹿げているが、誰にも否定できなかった。
長い腕の先にある手と指は人のそれと酷似している。何気に学者が指を1本引っ張り上げると追従して、他の指が上がってくる。まるでマリオネットのようだ。透けるぐらい薄いくせに、丈夫で、伸縮性のある膜が指と指を繋いでいる。それは水掻きであり、水棲生物の特長であろう。
【あれが鯨なのか?】
そこから議論が始まる。解剖された座礁鯨は小瓶に詰め込まれた。そして、小瓶は各研究施設に運ばれ、短期的に分析、精査される。
【各種遺伝子検査からもクジラ類、ハクジラ類、マッコウクジラ科のマッコウクジラと同質の遺伝子の形質を有する生物である。すなわち、座礁鯨=クジラ類、ハクジラ類、マッコウクジラ科、マッコウクジラとなる。】
各研究施設の分析結果を元に政府が公式発表を行い、この座礁鯨はマッコウクジラであるというニュースがこの島国を走っていった。
【あれが鯨?】
それが世論だった。ある雑誌が座礁鯨のことを鯨型人間とコミカルに記事を書いた。しかも、宇宙人説で。そんな宇宙人説など誰の記憶にも残らなかったが、鯨型人間というネーミングが一人歩きし、世界の裏側まで広がっていく。
>だから、あれは鯨じゃあなくて、鯨型人間。
>あれって、人間?
>じゃあ、人間型鯨。
>ちょっと鯨が大きくて、ちがくない?
>じゃあ、やっぱり鯨型人間。
>でも、人間じゃあないよね?
>じゃあ、ただの鯨。
>鯨じゃあないよね?
>じゃあ、鯨型。
>ああ、そうね、鯨型ね。
そんな会話があったか定かではないが、最終的には座礁鯨は鯨型と呼ばれることになる。その年の流行語大賞にも鯨型は選ばれた。鯨型に関わった学者連中もテレビ出演が増えて、収入が増える。有名おもちゃメーカーから鯨型グッズも発売され、爆発的に売れていく。鯨型博物館や鯨型のゆるキャラなど、鯨型の座礁した地元が観光地化もされていく。一時的に上向いた景気は鯨型景気と呼ばれ、今では小学校の社会の教科書にも載っている。
【実は昔、鯨は陸地に住んでいたんですよね。】
テレビで学者がつぶやいた。
【えっ、そうなんですか。】
顔の小さいタレントが驚いた表情を見せる。
【特にマッコウクジラは全ての動物の中で最も大きい脳みそを持っているんですよ。】
テレビ慣れしていない学者が声を1オクターブ上げる。
【それはすごいですね。もしかすると人間より頭がよいのかも。では、海洋科学研究所からの中継終わります。ありがとうございました。】
学者の上げた1オクターブを1オクターブ下げた声でタレントが締めて、中継が終わる。鯨の豆知識がテレビであり、活字であり、ありとあらゆるメディアで発信される。それらは僕らの頭の中に蓄積されていく。でも、人は熱しやすく、冷めやすく、忘れやすいもの。情報過多時代の今日、情報が降り積もり、鯨型は雪に埋もれるように人の記憶からも、僕の記憶からも消えつつあった。そして、人が鯨型を忘れかけて、鯨型景気が下降線をたどる頃、再び鯨型が現れたのだ。
【半年ぶりです。半年ぶりに鯨型が現れました。】
すでに鯨型という名前は一般化していたので、レポーターが言った鯨型という呼び名に違和感はない。振り返ると、テレビの中の海で鯨型が波に抗っていた。それは鯨型2号と呼ばれた。やや鯨型1号よりも大きいサイズのクジラ類、ハクジラ類、マッコウクジラ科のマッコウクジラの座礁鯨だ。盛り上がった頭部と寸胴なミサイルのような胴体も変わらない。あの日と変わらない映像が流れている。餌を追って、迷い込んだのか。それとも、外敵に追われて、迷い込んだのか。理由は分からない。鯨型2号は浅瀬でその巨体の腹を惜しげもなく見せる。鯨型1号と同じように腹部の後方に人に似た部分が突き刺さっている。胴体と同じ灰色の肌と相当なバランスの悪さも変わらない。鯨型1号と同じように鯨型2号も波に抗い続けている。
【鯨型2号が鳴いています。】
カチカチカチカチカチというクリック音。クジラ類、ハクジラ類、マッコウクジラ科のマッコウクジラ特有の鳴き声。いや、泣き声か。鯨型2号の泣き声が中継のノイズで途切れ途切れになる。
【鯨型2号の鳴き声が聞こえますか?】
レポーターが上擦った声で繰り返し、マイクを鯨型2号に伸ばす。海風と波音に紛れて、カチカチカチカチカチとクリック音が流れてくる。
半年前に鯨型1号が現れて、ありとあらゆるメディアが鯨型を追った。おかげで無意識に鯨型の情報が刷り込まれていく毎日を誰もが送っていた。僕も鯨型1号の携帯ストラップを購入して、その鯨型景気と流行に乗っかっていた。
ある学者が真剣にテレビで語る。
鯨偶蹄類からクジラ類は分岐し、海での進化の道を歩む。一方、偶蹄類はウシ科など家畜化し、永遠の未来を得て、この現代に生き残っている。
クジラ類は何故、海に向かったのか? 元々、陸地で暮らしているのであれば、海に向かわなくても、進化はできる。現実に偶蹄類はこの現代に生き残っている。クジラ類がそのまま陸地に生息していたとしても、進化し、種を残す可能性も十二分にある。
海に向かったとしても、生存競争がなくなるわけではない。海の生物との生存争に加わるわけだから、より過酷な生存競争となるのは明白で、むしろ、そちらの方が絶滅する可能性が高かったかもしれない。
それでも、海という未知の世界へ飛び込んだクジラ類。彼等には勇気と知恵が確実にある。それは宇宙に手を伸ばし続けている人の勇気と知恵と変わらない。人と同じようにクジラ類は素晴らしく、讃えられるべき生物なのである。
陸地のクジラ類のパキケトゥス科。
より大型化したクジラ類のアンブロケトゥス科。
より海に適応したクジラ類のプロトケトゥス科。
完全な水棲のクジラ類のバシロサウルス科。
頭骨の形態の変化。
エコロケーション器官の発達。
肢体の大型化。
後肢の消失と尾鰭の発達。
始新世~始新世後期にかけて、水棲動物としてクジラ類は進化の階段をゆっくりと歩み続けて、現在のクジラ類へと繋がっている。
現代に生き残っているクジラ類はヒゲクジラ類とハクジラ類。
その名の通り上顎部に鯨髭を持つヒゲクジラ類。
その名の通り顎に歯を持つハクジラ類。
座礁鯨として現れた鯨型はクジラ類ハクジラ類、マッコウクジラ科のマッコウクジラである。
地球上の動物の中で最大の脳みそを持つマッコウクジラが再び陸地に進化の道を歩み始めたのではないか。鯨型は陸地に適応しようとするマッコウクジラの進化の形ではないかと私は考える。
要因は人による乱獲、環境汚染であり、海が住みづらい環境となった。そして、マッコウクジラは大きな脳みそで考える。ならば、再び陸地へ上がろうかと。そうした未来を選ぶ思考があってもおかしくない。
彼らには私達と同じく勇気と知恵があるのだから。
いずれ鯨型の人に似た部分はさらに陸地に適応した形に進化するであろう。そして、巨大なマッコウクジラが浅瀬で波に抗うことなく、その足で、2足歩行で陸地を歩み、その腕で人をなぎ倒すのではないか。
近い未来に鯨型がきっと攻めてくる。
学者の語る言葉がフェードアウトし、テレビの中で知識人が嘲笑う顔がフェードインする。何を言ってるんだ? 誰があんなの連れてきた? 知識人はとても残酷に学者の言葉を簡単に流す。鯨は海の生き物ですよ。想像力の欠如した有名な司会者が学者を憐れむ言葉をカメラ目線で吐いて、番組は終わる。
もう鯨型のことなどどうでもいいんだ。
鯨型1号の時に全て終わっているんだ。
人は熱しやすく、冷めやすく、忘れやすいもの。
もう鯨型のことを誰も気にすることはない。
もう次のおもちゃを僕らは求めているんだ。
エンドロールの最中、僕はそんな言葉を思い浮かべていた。
鯨型2号は波に抗い続けた。あの学者が言うように浅瀬を歩こうとし、陸地に適応しようにも見えなくもない。でも、人は熱しやすく、冷めやすく、忘れやすいもの。僕は鯨型2号の中継を切った。最後まで鯨型の泣き声が耳にこびりついていた。だから、イヤホンを耳にねじ込み、とにかく激しい曲を選んで、かける。音と旋律と騒音が鼓膜を震わして、蓄積される感情と情報を破壊する。粉々になった感情と情報に埋もれるように鯨型2号の泣き声が消えていく。カレンダーには11時面接と書いてある。そう、僕は不況という空の下、不景気という海の中、就職難という敵に戦いを挑む戦士。鯨型2号より明日の内定。うん、なかなかの名言だ。1人納得し、ネクタイをしっかり巻いた。もう鯨型2号のことはもう消えていた。そう、人は熱しやすく、冷めやすく、忘れやすいもの。そんな生き物なんだ。
それから毎年、座礁鯨が、いや、鯨型が現れる。そのたび、鯨型速報が当たり前に流れる。鯨型は決まって、クジラ類、ハクジラ類、マッコウクジラ科のマッコウクジラであり、盛り上がった頭部と寸胴なミサイルのような胴体は変わらない。そして、鯨型は波に抗う行為を続けて、動けなくなる。それは予定調和的で、もうその屍はレアでもなく、処理に困る廃棄物となる。砂糖に群がる蟻はもういない。地方議会では鯨型の屍の処理費用を国に求める意見が多く出されるが、国はなかなか首を縦に振らない。そんな押しつけ合いを繰り返して、鯨型は年々、増加し、すでに33号まで数えることになる。
「あっ、それ鯨型1号の携帯ストラップだよね。コウちゃん、レアなの持ってるね。」
彼女は鯨型1号を懐かしそうに触る。僕は鯨型景気が下降しかけた頃、運良く内定が決まった。そして、彼女と同棲し、2人で働いて、結婚資金を貯めている。まだ不況の空の下、不景気の海の中をさ迷っている感は否めない。でも、ましな方だ。とりあえず仕事があるのだから。
「だから、パキケタスって、どんな体位って聞いてるでしょ。」
パキケトゥスだって。鯨の祖先って言ったのに。どこまで君はエロいんだ? まあいいや。僕も熱しやすく、冷めやすく、忘れやすいから。鯨型33号のことはもうどうでもいいよ。とりあえずパキケタスって新しい体位を考えよう。
「だからっ。」
喋り続ける彼女にキスをして、押し倒す。そして、パキケタスという新しい体位を僕は一生懸命考えた。鯨型33号の中継も彼女の喘ぎと温もりに消えていく。そう、人は熱しやすく、冷めやすく、忘れやすいものだから。
【鯨型33号が海に戻っていきます。まるで歩くように方向転換して、深い海へ沈んでいきます。あっ、今、緊急ニュースが入りました。大物芸能人の離婚会見があるそうです。鯨型33号の中継を終わります。】
カチカチカチカチカチ。
カチカチカチカチカチ。
カチカチカチカチカチ。
鯨型はマッコウクジラ特有のクリック音を繰り返した。クリック音は反響し、海に溶ける。鯨型は深く、ゆっくりと沈んでいく。
カチカチカチカチカチ。
カチカチカチカチカチ。
カチカチカチカチカチ。
クリック音が海に溶けた先、鯨型が深く、ゆっくりと沈んだ先、静かな海底が横たわる。浮遊するプランクトン群が星空のように美しく流れていく。
ザッザッザッ。
海に溶けたクリック音に答えるように鉄粉のように重い砂を蹴る音が海底を支配した。
ザッザッザッ。
ザッザッザッ。
砂を蹴る音は幾重にも重なる。そのたびに砂が舞い上がる。美しい星空のように流れていたプランクトン群は舞い上がる砂に否応なしに飲み込まれて、消えてしまう。
ザッザッザッ。
ザッザッザッ。
それでも、なおも砂を蹴る音は続く。目が慣れてくると、舞い上がった砂煙の漂う世界に幾つもの黒い球体が浮かんでいるのが分かる。それは鯨型の頭部。盛り上がった頭部に寸胴なミサイルのような胴体が海底一面に敷き詰められている。それは鯨型の群れだった。
深く、静かな海底を数え切れない程の鯨型が埋め尽くしていた。
深く、静かな海底で数え切れない程の鯨型が砂を蹴り続けていた。
深く、静かな海底で数え切れない程の鯨型が陸地へと想いを馳せていた。
もうすぐだ。
もう少しだ。
遺伝子の記憶。
陸地から海へ。
我々は進化した。
我々は生き延びた。
我々は再び進化する。
陸地に向かわなくても生きることは可能だ。それでも、鯨は進化の扉をその自らの手で開ける。鯨は遺伝子の記憶を辿り、祖先であるパキケトゥスが記した、偉大なる1歩を思い出す。そして、永遠に近い時間を積み重ねて、迷うことなく、滅ぶことなく、鯨型という種に進化したのだ。この世界の現存する生物の中で最も大きな脳みそを持つマッコウクジラが、クジラ類、ハクジラ類、マッコウクジラ科のマッコウクジラが陸地で活動できるよう手足を持つ鯨型へと進化したのだ。海から陸地へ向かうために。
ザッザッザッ。
ザッザッザッ。
ザッザッザッ。
深く、静かな海底で砂を蹴る音がいつまでも響いていた。
近い未来に鯨型がきっと攻めてくる。
【終】