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1 遠景― a distant view

愛するということは、誰に聞いてもよくわからない。答えがない。けれど、私の愛は、菊澤拓弥の前においてその答えを教えてくれる。

 もし、この愛が穢れているというなら、私はそれでもいい。

 純愛というのは、私と拓弥、二人の中でのみ分かっていればいいのだから。


  1 遠景― a distant view



ふっと見上げると、空は、清々しいほど蒼く広がっていた。そんな空に手を伸ばす。伸ばした先をよく見ると、掌が震えていた。この広い空の深い青に、身がすくんで心細くなっていくような気がする。

きっと錯覚か、なにかなのだろう。夏の暑さのせいかもしれないし、原因はよくはわからないけど、ふらつく様な目眩が全身を支配する。

蜃気楼のように遠くの景色が歪んでいた。まるで全て夢なんじゃないかと連想させる。現実味は失せていた。

誰ともすれ違うこともなく、話し声も聞こえない。

不思議な景色がそこにはあった。

ゆっくり歩いていると、何かと後悔が頭の中をかけめぐる。

信じるものを、全てポケットに詰め込むことが出来たなら、私はきっと今より幸せになれたんだと思う。

少なくとも今はそう思っている。

夢なら、今すぐ覚めて、横に居たあなたの寝顔を眺めていたい。けれど、きっとそんなものは、起きても在りしない。少なくともそう頭の中では理解しているつもり。けれど、やっぱり、今になっても一人になることは、一人でいた時よりも寂しくて、一人になった事実は受け入れ難いもの。

今でも路地裏なんかから急に出てくるんじゃないかって、サプライズを期待したり、謝りに訪ねて来るんじゃないかと、部屋を綺麗にしたりしている。

もう、意味のないことなのことなのかもしれない、それに風の噂で新しい人がいるっていう話も聞いた。

振り返れば彼には、愛すことも、怒ることも出来なかった。

夏草が風で揺れている。

廃線の線路は、日に焼けて、何か切ない。私は、その線路に沿って歩いた。どの位、歩いたのかよく分からない。ただひたすら歩いた。

踏み出す度、何かを失うような気がする。心にある痛みが酷くなるような。大切なものを私は失おうとしているのかもしれない。

まるで詩人にでもなったかのような気分がした。

あなたはきっとあの雲の影にでも隠れてしまったのだろう。私には届かないあの空に。

私は、そんな空を見ながら、いつだったかあなたが鼻歌交じりに歌っていた昔流行った、別れの歌を口ずさんだ。

まるで、世界は汚れているようで、でも、悲しさは全然なかった。何処かに通り過ぎていく風は、まるで私を振り払った彼を連想させる。

でも、心と体は、強がる私を知りおいて、今でも素直にあなたをどこかで求めていた。

いつの間にか、頬を涙が伝っていた。その涙は、一向に止まらず、流れ続け、景色を見る余裕もなくなっていく。

きっと時が止まればいいなんて、そんな空想と願望は、夜が来れば消えてしまうのだろう。

ここからどこに行けば、私は救われるの。そんなことばかりが、頭をかすめた。

ふっと気づけば、別れの歌を歌っていたつもりがいつの間にか、彼に初めて行ったカラオケで歌っていた愛の歌を口ずさんでいる。

懐かしいメロディーに、さらに涙が溢れた。

足が痛む。きっと彼を追いかけようとして、裸足でかけた時の傷が傷んだのだろう。少しここで休むのもいいのかもしれない。

この線路は、どこまで続くのだろう。まるで恋愛と似て、良くわかんないのだ。さきのことなんて。

恋愛に地図なんてあるなら、きっと、わたし達は、逆さに見ていたに違いない。間違った道を選んで、知らず知らずに、私一人がこんな場所に来てしまっている。

心に魔法があるなら、羽が欲しい。あの震えるほど広い空に行きたい。

空を眺めると、鳥が飛んでいる。眺めながら、彼のことを思い出す。嫌なこともたくさんあったけど、今となればすべてが愛おしい。まるで失恋曲みたいな感覚。

私は、どこかであなたの面影を探していたのだ。

風が吹く。優しく夏草が揺れていた。


目が覚めると、暗闇の中でうっすらと天井が見えた。そのまましばらく天井を眺める。まだカーテンから朝日は射してはなく、部屋の中には多くの闇が巣食っていた。

となりでは、彼の静かな寝息が聞こえる。私の腰には、彼の腕が巻かれて、少しの間、それが不安に震えた私に安心を与えてくれた。

体には今も嫌悪感が残っている。

大丈夫。これは夢。頬を触る。クーラのせいで冷えた手が、これが現実なんだと教えてくれた。そう、さっきのは夢。夢なんだから、心配しなくていい。

彼の腕を、そっと退かして、ベッドから降りた。昨日の晩御飯を抜いたせいなのか、少しふらつく。

嘆息。

嫌悪感とは、別の閉塞感。私の体にまとわりつく嫌な感じ。

よくはわからない、今は幸せなのに、彼もああして、幸せそうな寝顔で、隙を見せている。けれど、起きた瞬間、寝る前になかった心の闇のようなものを感じた。

私は、一息吸うと、足音を立てないようにして、キッチンに向かう。

彼が間違えて買って、放置されていたステンレス製の足の高い椅子に腰掛ける。なんでも完璧にしようとする彼の少ない間違い。それがこの椅子。ここに座っていると少し落ち着く気がした。

リビングにあるプラスチックの時計がカチッカチッと音を立てている。まるで静寂。

私はボードに貼ってあるチラシを眺めた。

文字を読むわけでもない。ただ、眺めるだけ。

それだけで私の心は落ち着きを取り戻せる。

それから、暫くして、ベッドに戻ると、彼が起きていた。

「静香、どうした」

目を擦り、ベッドから寝返りをうってこちらを向きながら、彼は言った。

「少し目が覚めちゃってね」

私が、ハニカミながら言うと、彼が両腕を伸ばし、胸を開いた。私は、倒れかかるようにその胸の中に入る。温かかった。

「少しこのままでもいい?」

そう言うと、私は彼の胸に顔をうずめた。柔らかなシャツの感触と、体温。肌の香り。彼は、目を閉じて既に寝ていた。

少しこのままでいてもいいかなと、私はたっぷり彼の温もりを感じていた。


日中、日が高く上りアスファルトがグラグラと熱されている。そんな中で、街道沿いにある雰囲気のよいテラス席に腰掛け、おしゃべりついでにアイスコーヒーを飲んでいる。

他にも客はちらほらいる。騒がしい街中、煙草の煙。全て流れていく。

目の前には、友人の司が同じアイスコーヒーを飲みながら、難しい顔を浮かべている。あまりいい空気は流れてなかった。

「なんなの、あいつ。私の約束ブチってばっかで、謝りもしないのよ。本当ムカつくよね」

司は、煙草を灰皿に叩きつけながら言う。ショートカットの髪がその度に揺れる。

「そうね……」

アイスコーヒーを一口含む。夏の暑さのせいか、はたまた、友人の愚痴のせいか、気だるくなってくる。

それなのに司は、飽きもせず、彼氏への文句を並べ立てている。それなら、別れればいいのにと口に出そうになるけど、それを口にするほど空気が読めないわけじゃない。

男女の関係はそれほど簡単ではないのだ。三十近くもなれば、そういったことも経験則で学んでいる。別れればいいのになんて無責任な発言は、相手の怒りを買いかねないのだ。けれど、やっぱり心の底では、相手に対してそう思ってしまう。

「ねぇ聞いてんの?」

「えっあ、ああ、聞いてる聞いてるって」

「もう。それでね、あいつたったら、私が上げたプレゼントのこともすっかり忘れてるのよ。それにあいつからプレゼントなんて貰ったことないし、たまには安い物でも全然いいから、ちょっとしたものくらい、貰いたいものよ。本当、酷くない?」

「うん。確かに」

ふっと彼の顔が浮かぶ。あどけない寝顔の彼。思い出すと、少し笑える。

「ふふふ」

「なによ、なにか私、変なこと言った?」

「なんでもないなんでもない」

頭を横に振る。手元のアイスコーヒーも多少ぬるくなってきていた。そろそろ、ここから逃げようかしら。そんなことが頭をかすめる。

「そう言えば、あんたの彼はどうしてんの?」

「どうしてんのって、今日も製紙工場で汗水流しながら、働いてるよ」

「そうじゃないくて、彼とあなたの仲を聞いているんじゃない」

口を開こうとして閉じる。

そう言われて、何をいえばいいのか、回答に困ってしまった。喧嘩もしないし、旅行もデートも久しくしていない。あるとすれば同棲生活あるあるを言うくらいのもの。

きっとつまらないと言われるに決まっている。けれど、そうやって私は、恋愛を5年も謳歌しているのだから、文句を言われる筋合いはない。

ため息をつきながら、アイスコーヒーを啜る。今日何度目の嘆息だろう。数えるのは無駄なような気がして、考えを遮った。

「それでどうなのよ」

司は、こちらを見つめて、問いただす。

アイスコーヒーの氷が崩れて、鈴のような音が聞こえた。

「そんなに変わったことは、ないって。喧嘩もしないし、だからってなんか特別ラブラブしているわけじゃないし」

「えーそうなの。5年も一緒にいて?」

怪しんでいる表情をこちらに向ける。仕方ないと、諦め、声の調子を切り替えて司に言った。

「私のことはどうだっていいじゃない。それより、司の彼、少しちゃんと叱らないと何も変わらないよ。ちゃんと司がハンドル握らなきゃ」

私は、厳しい目線を彼女に送る。

本当はただ逃げ出したいがための煙のような言葉。私は、それを彼女にぶつけて、煙に撒くようにとっととここから逃げようと思っていた。

司は、私なんかより男ぽくてしっかりしている。けれど、彼氏のことになると、人前では調子のいいことを言っても、彼氏の前では何も言えないでいるのだ。お陰でいつも、ストレスが貯まるのは、愚痴を聞かされる私だ。

「うぅん……」

ぐうの音も出てこない。

こういう時の彼女は、普段の出来る女という風貌からは予想できないほど、少女のようで少し可愛くさえ見えた。細くスタイルのいい体は、羨ましくもあるし、今のような様子だと、何か守ってあげたくなる。

「今日は私が出すから、さっさと帰って、彼氏を怒る準備でもしなって」

私は、席を立ち、財布を開く。きっぷのいいことを言ったものの、財布にはそこまで余裕はなく、溜息を心の中でつきながら二千円を取り出した。

司も私も口では、強く言えても、やはり内面は弱々しくそういう所が、結局ダメなところなのかもしれない。

「静香、ありがとう。今度は私がおごるから、好きな場所いって」

「いいって。今日は、司が落ち込んでるみたいだし、こういう時こそ、親友は、助けあわなくちゃ」

心にもない言葉が次から次へと私の口から出る。彼女はそれで多少感動はしてくれているようだけど、結局、どんなに仲良くても、完璧な関係などないのだと、こういうことのある度に思わさせる。

「静香が親友でよかった」

司は、涙上戸だ。こんなことで、涙ぐむほど、涙腺が弱くて、感受性も豊かなのだろう。でも、私には、そういったことがあまりにも分からない。人の気持を推し量れない訳でもないし、泣かない訳でもないけど、ここまで簡単に泣かれると、泣かれている方は、白けてしまう。

そんなことより、近くにATMあったかしら。彼女の涙より少ない財布の中身の方が大事だった。


部屋の中は彼がいないと、少しだけ寂しくなる。5年間という時間はいつの間にか孤独を嫌いになるように、私を変えてしまった。

白い壁に額を当てる。憂鬱だというアピールだ。誰に対するアピールというわけではないけど、机に伏せたり、壁に額を当てるのは、私にとって、寂しいや憂鬱だという表現なのだ。

それでも、そういう私を見ると彼は、優しくはしてくれない。気付かないか、怒ったりもする。正直そういう時は、気付いてほしいし、優しくされたい。

彼が帰ってくるまで後1時間もある。憂鬱だ。

部屋の中には、台所から雫の落ちる音がする。締め方があまかったのか、リズムよく音を立てる。それがいっそう寂しさを助長させる。

携帯を見ると、待ち受けには、二人の姿。何年前に撮ったのか、それがなんの記念だったか、記憶にない。

結局、暫く考えてみても答えはみつからなかった。

写真の向こうにいる私は、笑みを浮かべ、一方で彼はそういったことに慣れてなかったのか、緊張した面持ちでいる。いまじゃ見れない姿。

微笑ましいと過去の私の姿に素直に思う。多分当時の私は、今の私を切り捨てるだろう。そんな恋愛になんの意味があるのと文句を言うに決まっている。けれど、今の私は、デートがなくても、あまり優しくされなくても、彼のそばにいるという安心感と、彼氏がいるという実感があればそれでいい。そして、時々、この体を抱いてもらえれば、満たされるのだ。

きっと今の私は、写真の時の頃の五年前の彼を好きにはなれない。だから、過去の私は綺麗でも、今の私は、汚れている。それでいい。それでいいと思い込むしかないのだ。

それに、五年も付き合えば、色んなことがどうでも良くなってくる。

彼は、今でも優しい。でも、昔よりは優しくなくなった気もする。今思えば、とんでもなく優しかったころの彼に私は甘えすぎていたのかもしれない。なんでも許してくれて、寂しいから来てといえば、それですぐに来てくれた。いまじゃ面倒くさいの一刀両断することもしばしば。だからって、私も怒るのが面倒になっている。それに、怒るような喧嘩をすると、昔なら我慢しようとか、大丈夫って言えたのに、いまじゃついつい口にしてしまう。

それでも5年間今も変わらず、一緒にいる。それで私は幸せだ。それが、私の本心だった。

過去を振り返るのは、遠景を見るのと似ている。個々を詳しくは覚えていない。けれど、どれもが幸せだったことは、忘れていない。だから、忘れないでいた方が、私は幸せを多く味わえるのだ。

壁に頭を当てる。コツんと軽い音が響いた。

同時にドアの開く音が静寂が満たす部屋の中で聞こえた。

スニーカーを脱ぐ音がドアの音に続く。彼が帰宅したようだった。

玄関へと駆け寄る。そこには彼の姿があった。疲れているのか、浮かない表情をしていている。

「どうしたの」

彼に聞くと、彼は、こちらを見ることもなく、ただ疲れたから少し寝るとだけ呟いて、私を払うようにして、ベッドルームへと向かっていった。

「どうしたのよ。本当に」

彼に問いただしても、なんでもないの一点張り。きっと男のプライドとか言う奴で無駄に強がっているだけに違いない。

けれど、しつこく聞くのは、そのプライドを傷つけるような気がして、口を閉ざして、彼が寝るベッドの脇に座った。しばらくすると、彼は起き出して、いつものように私に腕を広げる。

当然のように私も彼に体重を預け、男だなと思わされる胸に鼻をしまった。

彼の手が髪に優しく触れる。彼の手はいつも優しく私に触れてくれた。それはまるで、ガラス細工を触るように、繊細で、赤子を抱く母のように温もりに満ちていた。

少し汗の臭いがした。でも、私はそれが嫌ではなかった。むしろ好きなくらい。安心する香り。

「ねぇ、晩御飯どうする?」

彼の胸の中から顔を出し、私から口を開く。

「そうだな。今日は静香がいいな」

彼は、多少笑いながらこちらを見ていた。

「なに、変なこと言ってんのよ」

両腕で彼の胸を押して、ベッドから這出る。彼は時々こうやって直球なことを言って私を困らせた。けれど、それも嫌いではなかった。

友人の中には、セックスレスになっている人もいたし、やっぱりそういうのは女として悲しいもの。男がいるなら、求められたくなるのが、女っていう生き物なのだと思う。

そういう意味では、彼は私を求めてくれた。決して上手いわけではない。どちらかといえば、下手だ。でも、それでも、彼がなんとか頑張っているのを、私なりに応援して、それで、気づかれなきように私なりに彼に合わせいれば、彼は、優しく抱きしめてくれた。それで、満足だった。

「そういうことは、晩御飯を全部綺麗に食べた後ね。今日は余っている野菜で肉野菜炒めにしましょ」

「それいいね。楽しみ。早く出来そうだし」

彼は、野菜炒めが好きなのか、嬉しそうな顔をしていた。

「野菜炒め好きなの?」

「そりゃ嫌いじゃないよ。でも、それ以上に君の料理だし、作りたてって久しぶりじゃない。ここ最近互いに忙しかったから、作り置きが多かったし」

言われてみれば、最近は何かとレンジを使用していたような記憶がある。彼には申し訳ないことをした。

「今日は、頑張って美味しいの作るね」

「おう。楽しみにしてる」

彼は、手を少しあげて私に微笑んだ。

 

 野菜炒めは、美味しく仕上がったようで、彼は満足したような顔をしていた。

美味しいかと聞けば、美味しいと、この五年間欠かさず答えてくれていた。今日も、満足したようで、少しお腹を叩く仕草をして、「代は満足じゃ」と殿様のようなことをしていた。

私は、皿を片しながら、その様子がまるで円満夫婦のそれのようで、満足していた。まだ結婚は遠い未来のことかもしれない。けれど、もし結婚するなら、今のままでいたいと思う。少なくとも、私の意識は現状維持が最優先だった。

それから、彼はシャワー浴びてくるといい、リビングから風呂場に向かった。その間に私はベッドの脇にティッシュを置く。彼が冗談で下ネタを言う時は、多分したい時だ。きっとあの冗談も口にする時に多少考えて、言いすぎないようにいった結果なのだろう。けれど、直球で言われるより、恥ずかしかった。

それでも、今夜は少しだけ彼に付き合うことにした。

このティッシュは一種のイエスノー枕のようなもの。置いてあればイエスということになる。

彼がシャワーから出てくるのを待つ間、私は、英文で書かれた薄い本を読もうと、脇にある本棚に手を伸ばす。

表紙には、――― Cat live a hundred timesと書いてあった。

私は、英語が好きだ。英国文化にも憧れてるし、なにより、英語という言葉が、私には、日本語より可愛く思える。

たまに分からない単語があっても隣合う文さえ読めれば、解読できるし、それはまるで、暗号解読をしているようで、楽しい。

実は、私にはイギリスに英国人の友人がいる。けれど、あったことはない。所謂、メル友だ。一応、男性のようで、私と年も近いことは分かっている。しかし、あった事はないから、それが事実か確かめようがない。

しかし、親友の司なんかより、はっきり言って、相談に的確にのってくれる、ある意味親友よりも親友な友人。それが英国人のメル友の彼だった。

文面からは、落ち着いた男性特有の雰囲気が感じ取られ、私は、恋愛感情とはまた別の尊敬に似た気持ちを寄せていた。

ふっと本から顔を持ち上げると、目線の先には、まだ乾ききっていない髪を無造作にしたまま、タオルを腰に巻いた彼がいた。

彼は、私の方を見ると、笑顔でうんと満足げに頷く。きっと、ティッシュに気づいたのだろう。私も少しばかりうなづく。

「髪乾かしてくるよ」

「うん」

彼は鼻歌交じりに、洗面所へと向かった。帰ってきた頃の彼とは違い、ご機嫌な様子に私も嬉しくなって、ベッドを整える。




彼は、行為自体が好きだったけど、気持ちや雰囲気も重視して、この空間の秩序を守る人だった。

私は、今夜も彼の腕の中にいる。暖かくて、すっぽりと、私を隠してくれた。ここが私の居場所だった。

薄明かりの中、私達は、ゆっくりと愛し合う。彼は、私の首筋を少し舐め、キスをする。私は、それが心地いい。繰り返し、彼の舌が私を彼のものへと染め上げた。指先についた蜂蜜を舐めるように。

私はそっと目を閉じる。

彼とのセックスは、私を満たすだけの、技術があるわけではない。けれど、彼の私を喜ばせようとする努力が垣間見れる姿に私は満足していた。満たされない理由なんてない。

時計は11時を指していた。

彼の太ももが私の足に絡まり、腕を彼の背中に回す。私の手を、彼は氷のように繊細だと言っていた。その手が熱い彼の身体を求めた。

もし、これが本当に氷で出来た手なら一瞬にして溶けてしまうに違いない。それでも、彼を求めようともがきながら、喘いでいる。私は熱いこの時間が何よりも好きだった。

その日は、休日だったから、私も彼も昼まで眠りについた。


目が覚めると彼は、リビングの椅子に座り、アイスコーヒーを飲んでいた。紫煙の残り香が少しする。きっと私が起きる寸前に吸っていたのだろう。その残り香が、私は嫌いではなかった。友人達は、タバコなんて今時というけれど、私は、彼がタバコを吸う姿も香りも全てが好きだった。

彼がグラスを持ち上げる度、氷が揺れて、音がする。夏の風物詩。そう思った。

「静香、起きたのかい、なら、一緒に飲まないか」

彼はおもむろに、グラスを持ち上げた。

「そうね。私も飲みたい」

彼は嬉しそうに笑う。そう言えば、付き合った頃に、一緒にコーヒーなんか飲むのってなんかいいよねって喫茶店で話したことがあった。彼は今でもそれを思っているのかもしれない。

私は、彼が作ってくれたアイスコーヒーを啜る。苦味の中にあるミルクの甘味とやわらかさが心地いい。コーヒーは、人を安心させる飲み物だ。私は、そう思う。

気付くと、コーヒーを飲む私の顔を覗き見るように、見つめている彼がいた。

「ん?どうしたの? なんか顔についてる?」

「いや、なにも。ただ、コーヒーを飲む君がいつもより素敵に見えただけだよ」

「なによそれ」

 一口啜る。彼が言った言葉は、冗談なのか、天然なのか、よく分からなかった。でも、嬉しそうにこちらを見ている彼を見る私もまた、幸せな気分を満喫していた。

その日、彼は、友人と会うとかで家をすぐに出ていってしまった。また、孤独の部屋に戻ってしまう。溶けだした氷が音を鳴らし崩れ落ちた。


 夏の日差しは、私にとっては何よりも辛い。そのため、夏場はあまり外には出たくはないのだけれど、しかし、部屋にいることで、孤独を感じるくらいなら、今は少なくとも外にいる方がマシ。

 突き当たりを左、そこには、蔦が張り巡らされた古びた一軒の喫茶店。風に揺れる看板には、千草と書かれていた。

「マスターいる?」

 私は気兼ねなく、その店のドアをあけた。

「静香ちゃんか。どうしたんだい」

 その店のマスターはカウンターの中で、グラスを拭いていた。白髪が混じった短髪に、凛々しい顔つき、スラリとした細い線のスタイル。彼は中年だというのに、イケメン店員特集に出てくるような男性なんかより、かっこよかった。

「もうね。家にいると暗くなりがちだから外に出ようと思って、来ちゃった」

「そうかい。じゃなにか気分が明るくなるような、そんなものでも出そうか」

 彼はそういうと、カウンターの奥へと行ってしまった。残された私は、そのまま木製のカウンター席に座る。

 私以外にお客さんは居ないようで、静寂の中、時計とサイフォンの音だけが響いていた。

 店内はモダンな雰囲気。木目調を基調としたレイアウトで、コーヒーの香りが店内に溢れている。

 店内を見回していると、マスターが何かを手に持って戻ってきた。

「これなんだけど、少し見てみなよ」

 そこにあったのは、筒状で彩り豊かな和紙にくるまれたもの。万華鏡だった。

「これどうしたんですか」

 私は万華鏡を手に取って、首をかしげた。

「ちょっとしたもらい物かな。まっ少し覗いてみるといい。落ち着くから」

 そう言われて、私は早速、万華鏡をのぞいた。

 キラキラと輝く世界。花火のような、星空のような、美しく、妖艶な感じさえする不思議な景色が広がっていた。なんだろう、この落ち着く感じ。すっと、その世界に自分が入っていくような感覚がした。

「どう、いいだろう。俺も時々そうやって覗くのだけど、なんか落ち着くんだよな」

「うん、これいい」

 私は、覗きながら言う。

「そうか。気に入ってくれたのなら、俺は嬉しいよ。でも、せっかくここに来たのだから、コーヒーくらい飲んでいきな」

「そうね。ブレンドを一つ頼むわ」

 彼は「かしこまりました」と微笑みながら落ち着いた口調で言うと、カウンターから挽いた豆を取り出し、サイフォンにセットした。

「そういえば、彼氏の東樹君は今日どうしているんだい」

 コーヒーを淹れながら、私に聞いてきた。

「彼なら、今日は友達と会うとかでどっか行ってしまったのよ。私を置いて」

 コーヒを入れる音が、響いている。

「じゃ今日は、サービスだ」

 彼は、少し微笑みを浮かべて、私の前に一杯のコーヒーと共に、クッキーを三枚出してくれた。

「いいんですか」

「あぁ。甘いものでも食べて、落ち着くといい」

 どうも私が彼氏にほっとかれて気分が落ち気味だったことに気づいていたようだ。マスターは、何か言うわけでもなく、静かにコップを拭いている。

私は、コーヒーが満たされた白いコップに口を付けた。

 暖かな液体が、私の体を温めてくれる。ここのコーヒーは香りもすべて私の好み。ここに来てよかった。

「やっぱりここのコーヒーおいしいわ」

「そうか、そういってもらえると俺としても嬉しいな」

 マスターが、本当にうれしいそうに微笑んでいた。そんなマスターを見る私も気分がいい。今日はここにきて間違いじゃなかったみたい。

 一口飲む。苦みが口の中で広がっていく。幸福の瞬間だ。

 彼のことを忘れたわけではないけど、今は彼よりこのコーヒーの方が愛おしくさえ思えた。


コーヒーの香りを纏わせ、私はなにか目的があるわけでもなく、街を歩いた。散歩ついでのウィンドウショッピング。街には、様々なものが溢れていた。アンティークの小物から、白いワンピース、奇抜な柄があしらわれたTシャツ、ショートパンツ、スポーツ用品も陳列されている。

そのガラスには、品物と一緒に私の姿もまた映っていた。

太陽の明かりに当てられ、胸元のネックレスがキラキラと光る。

街の中は、誰もいない家とは違ってとても賑やかだ。けれど、私の孤独感は、こんなにも人に溢れていても、満たされることはない。それどころか、さらに助長されて、暗澹とした気持ちが心を染めていく。人の心は、賑やかさや、人の多さではどうにも満たされてはくれないのだ。

私は、重苦しい孤独という気配を背中に感じつつ、街を歩き続けた。時々見かけるカップルに多少のストレスと嫉妬を感じた。けれど、私にも彼がいると言い聞かせて、二人の横を通り過ぎる。

嫉妬だ。

大人げない。アスファルトの石ころを1つ、思いっきり勢いづけた右足で蹴りあげる。多少傾斜のある道を転がっていく。

愛ってなんだろう。ふっと理由もなく、何もないところから湧き出したように、疑問が頭の中で浮かび上がった。夏の暑さにやられたわけじゃない。ただ、答えが見えなかった。それだけ。

王子様に助け出されたお姫様は、本当に幸せなのかな。そこに本当の愛情は注がれているのだろうか。何一つとして、ラブストーリーには事実が見えてこない気がした。

ほかにも、好きな人のために愛することをやめるなんていう話がある。それが彼のため、その理屈が分かるようで分からない。

諦めるほうが、解決。勇気が少しでもあるなら、奪ってしまえばいい。単純な回答。

でも、私には、奪ったあとで、どうしたらいいのかわからない。今の彼氏のように、ダラダラと何年も付き合っていちゃいちゃとしていればそれでいいのか。改めて考えるとそれは違うような気がする。それこそ、私が愛を理解していない原因なのでないのだろうか。

夏の暑い風が吹きすぎる。ワンピースの袖がゆらゆらと揺れた。

抱かれると、満たされるものはある。それは性欲なんだろうと思うと、愛には程遠く思えてくるし、いつも一緒にいるのは、どことなく愛ではないような気がする。それは、ただの依存。

じゃ愛ってなんだろう。

道を歩きながら、前を見ているわけでもなく、焦点が何処にも合っていない。全てのうつつが上の空。彼がいれば、なんとなく気づいて危ないよと現実に引き戻して来るのだろうけど、頼れる彼は今いない。

私は自由だった。

夏なのに、寒い風が吹いた気がした。

そんな感慨に更けていると、スマホがなり出した。画面見ると、見知らぬ電話番号。出るのはためらわれて、そのまま無視すると、さらに再びなりだした。それも同じ電話番号、どこからなのと溜息をついて怖ごわと電話に出る。

「よっ俺のことわかるか」

突然の男の声だった。

その声は、若干低くて、落ち着いているようで、けれど軽い雰囲気を纏っている。

琢弥。私は懐かしい名前を思い出していた。

年月は経っていても、変わらない男の声。私はっと驚き、声が出なかった。

「おーい、声聞こえてないのか」

「あっうん」

彼は「なんだ、その反応」と電話の向こうで笑っているようだった。本当に何も変わらない。懐かしさのあまり、何故か心がほっとするような感覚が体を包む。

もう五、六年あってもいなかった幼なじみで、私の最初の男、琢弥。彼で間違いなかった。



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