黒の家の章3
追い掛けてくる。
何が――? 誰が――?
「はあはあっ、」
俺も蝶架も全力で走る。躓き、足を捻り、みっともなくバランスを崩しても止まってはいけない。追いつかれたら殺される――。
根拠も確信もないが確かな不穏だけが湧き上がってくる。何もない道の先に進むにあたり、この先は危険だと直感で勘付くような。落とし穴が確かに存在するように、頭は利口だから、生命の危機を少しでも感じ取れば体に伝える。人間の本能だ、その後は利口な者なら冷静に対応し、俺のように混乱し動揺し、冷静さを欠いた者はろくな目に合わない。
蝶架とまともに会話すらせず逃げ出した。
走る、走る。追い掛けてくる足音は地を踏み鳴らし駆ける。近い、逃がすつもりはないと永遠に迫って来る。
何故、誰が、秘密はどうしてバレた――?
空気を切りながら思考を回す。ダメだ、今は疑問なんて取り捨てなければ。逃げ延びなければ殺される――。
誰もいない道路を突き進み、角を曲がり、左右も確認せず走る。
どれだけ走ろうと自分の保身の為に後ろを振り返らない、蝶架の心配をしようにも声を掛ける余裕がない。
たのむ、ちゃんとついて来てて――。
暫くして、捻った足の痛みが限界に達し、俺は蝶架の肩を借りてビルとビルの間に身を潜めた。
「ごめん……っごほ、さき、ッは、行って」
息が苦しい、咳が止まらない、肺が痛くて呼吸する度噎せ返った。
諜報員志望が何をしているのか……。結局俺は本番になるとビビる間抜けだったという事か。
足は、動かない、駄目だ……終わりだ。
「ごめ……もっ」
「静かにしてろ、近い」
人為的に人通りをなくした道に靴音が鳴る。がっがっがと何人もの人間が俺達を探している。
殺される、……より、辛い事を俺は思い出してしまった。捕まり、尋問され、やがて拷問へ……。
いやだ――っ。
俺は息を止め祈りを唱えながら側のゴミ箱に密着した。
どこか行って、どこか行って、どこか行って。
「げほっ……っゔ」
咳が出る。なんで、何でこんな時に咳なんか。っ、肺が震え自分ではどうしようもない、息をしようとするだけ体の訴えが吐き出される。胸が激しく上下し喉の奥から空気が逆流する。
「げっほ、ッは――ぅ」
止まってよっ、両手で口を塞いでも音が漏れる。足音が心無しかこっちに近付いて来ている気がする。
止まれ、止まれよ! 見つかってしまう、気取られてしまう。
「ゲホッ! がはっ、はぁ、」
……そうだ、気絶しろ! 意識を飛ばせば咳もなくなる。
まともな思考ではなかったが胸をガンガン叩いて自分を殺そうとした。それを、蝶架の右手が押さえ付け静止させた。
「……」
何も言わない蝶架の顔にビルの影が落ちる。蝶架は俺の背に手を添え撫でてから砂利を鳴らし立ち上がった。
「まって……、なにをす……る」
「隙見て逃げろよ」
彼は光の方へと身を乗り出す。
「なんで、無理だって……わかんない」
「肝心な時に子供だな。立ち上がれ」
「わかんない! なんで……囮になろうと、する」
「なんでかな、ただお前を逃がしたいと思っただけ、そういうもんでしょ、オレ年上だし」
蝶架はライフルケースを肩に担ぎ背中を見せた。片手を上げる、その意味は――
……ふざけんじゃない。
肺を叩く。血のようなものが出たが地面に吐き出し踏みつけた。じんと足首から痛みが伝う、力を入れていなければ倒れる、片足を庇うような姿勢を取りナイフを取り出す。
俺だって戦えるんだ、桐生は殺しの名家、俺も黒の家の人間。
「っごほ、……死ぬつもりか、死ぬなら戦う、抗う!」
力強く決意を叫ぶ。意思は力を持ち瞳に光を宿す。俺の強い声色に気付き蝶架は振り向く。
「怖がってる癖に強がりだな。死ぬつもりはねーよ、大体早とちりなんだよ、追い掛けてくるのがやばい奴等とは限らねぇから」
蝶架はかつて夕灯に向けた小型の銃を取り出す。
「やばくない人に拳銃向けるって、紋代さんはぶっそうっすね」
「世の中何かあるかわかんねーからな」
言い合いながら俺は蝶架の隣に並ぶ。ビルの影が斜めの光に交わる。
咳が、一つ。
どうか、二人して無事に帰れるように――。
祈る、神など信じていないけれど。
***
結果として――俺と蝶架は捕まった。
俺は足に銃弾を受け、蝶架は殴られ補足された。
一体何故、こうなってしまったんだろう。引っ張られ車に乗せられ運ばれる。最低限の処置を足に施されながら揺れる車の中で考える。
夕灯が、きっと夕灯が裏切ったのだろう。何処にも姿を見せなかった、あの子は裏切りの報酬として今頃金に夢を馳せているのだろうか。
何故、何故……。
簡単な任務、作られた筋書きの上を決められた手順で進むだけ。資産家は確かに撃ち抜いた、弾が当たって蹲ったのだから任務は成功したと言える。
誰が……? 誰が悪かった。
夕灯の裏切り、今も続く蝶架の演技、馬鹿な俺の失態。疑ったらきりがない、もしかしたら最初から悪かったのかもしれない。桐生に生まれたその時から……――。
段々と意識が闇に落ちていく。眠くなる。
暗闇は果てもなく、未来の光もなく、気だるさに甘えて沈んでいく。
なんか、疲れたな……。
怖いよ……怖いよ……――。
***
鉄の臭い。綺麗な洋館風の内装に不釣り合いなその臭いは俺の手足に絡みつく。枷という形で俺の抵抗心を奪うそれは引いても外れはしない。
何処だろう、ずっと目隠しをされていたから何処の建物に居るのか全く解らない。
椅子に座らされた時目隠しは外された、代わりに手足に枷。
キョロキョロと周りを物色してみる、カーテンは締め切られほんのり薄暗い中にランプが光る。奥ゆかしさを感じさせる室内はベッド、クローゼット、椅子のないテーブル……ああ、きっとこのテーブルから引き抜かれた椅子が今俺の下にある椅子だ。そして部屋を一周見回すと、最後に視界に灰色の背広を着た男が入る。
「お前の名前は」
「……」
あのベッドに寝たら気持ちいいだろうな……。部屋の端にある白いふかふかのベッド。ランプが茶色い壁と柔らかな絨毯に淡い光を届け、静かで落ち着いた雰囲気。いいな……、こういう家にも住んでみたい。
「桐生だな」
「……っ」
恐怖から意識をそらすつもりが、男の声を鮮明に聞き取っていた脳が思わず反応を示す。
男は思考時間を挟み、俺から一歩引いて後ろに立っていた別の人間を前に立てた。白衣を着た老齢の男。
「これから質問をします。答えなければ一枚ずつ爪を剥いでいきます」
一気に体が強張った。老齢の男が俺に見せ付けるように取り出したのは、見た事のある、爪を剥ぐ為の器具。
「ッ……」
怖い――っ。器具が指に触れ恐怖が全身を駆け抜ける。
「一つ。何故彼を狙ったのですか?」
彼、は……資産家のこ、と……?
「知ら、ない」
老齢の男は器具を動かした。爪と皮膚の間に痛みが走り、次の瞬間体が跳ね上がった。
「っああ――! ッ、が」
「痛いのなら正直に話しなさい。まず君の名前は?」
痛い、痛い……っ。じんじんと右の人差し指が熱を持つ。老齢の男の声なんて聞く余裕はない。
「……言わないのかな? 桐生は仲間を売らないというからね。じゃあ次にいきましょうかね」
次の質問も曖昧にはぐらかす。ぐっと爪が持ち上がり皮膚と離れる。
激しい激痛の後、鈍痛が指先を暴れ回ってのたうち回る。枷が俺と共に暴れ椅子が倒れそうになる。
「うああぁ」
――それから老齢の男はテンポよく尋問を続け、口を閉ざす度爪を剥いでいった。
激痛を分散させる為左手が無意識に握り拳を作る、加減を知らぬ手の平に爪が食いこみ肉が抉れた。
なんで、なんでこんな目に合わないとならない……、全部桐生に言われただけだ……。痛いよ、怖いよ。俺は何もしてない。
「……ふぅ、このままでは何も終わりませんよ。言うべき事を言わねば君の苦痛は終わらないのだ」
「っ……ふ」
「桐生だろう? 黒い髪、黒い目。それだけで素性は解るが、君の口から聞かねば意味がない。君達が彼を撃った? これは桐生本家の意思なのか?」
「しら、ない」
「強情だな。どうしましょうね」
老齢の男が困り果て背広の男に意見を仰ぐ。背広の男はその無表情の顔で機械的に指示を出す。
「左の爪もやれ。それでも言わぬなら指に塩を塗れ」
ッ――。
「もう……や、だ……」
二人には聞こえなかっただろう、俺は余りの恐怖に子供みたいに泣いていた。
左手も爪がなくなり、次の手段として爪の剥がれた上から針を刺された。神経に直接響く激痛、おかしくなりそうな中、更に傷口に塩をもみ込まれ、大声を出して叫んだ。
家を売らないと言うのは本心ではなかった、桐生なんて捕まったって潰されたってどうだっていい、俺がここまで口を閉ざすのは、桐生はこいつらより遥かに残虐だから。
爪が剥がされたくらい……そうだ。桐生はもっと違う手段を取る、まず……死なせない。
俺が今死んだほうがましだと、死ぬ方法を考えているのを目の前の二人は気付いているか。
桐生は死なせない為だけに人を用意する、死にそうになれば彼等が治療し、処置を施し、また拷問は再開される。
逆さ吊りにして鞭で叩く。
鉄のブーツを履かせ、その中に熱湯を流し込む。
桐生は平気でそういう事をする、それを早くから子供たちに見せ恐怖で裏切れないようにする。俺もしっかりそう育った、だから桐生に忠誠を誓う、恐怖体制は根底から俺達を支配している。
「子供だと思って甘くしたのがいけませんかねぇ」
両手の爪が剥がされ、血と塩と唾液の混ざった汚れが床に染み付いていた。老齢の男が少し疲れを見せる、部屋に入ってから一時間程、俺は叫ぶ気力も指の感覚もなくなり俯いていた。
カタン――ついに背広の男が動いた。
「お前に命令を出したのは桐生本家か、言わねば目を潰す」
人の情を少しも感じさせず、男は俺の頭を押さえ付け鋭く長い針を右目に添えた。
「い、……っ」
「刺すだけでは済まさん、そのまま中で動かす」
男は針でぐるぐるとかき混ぜる仕草をし恐怖を煽る。それだけで俺の意思は崩れ去り桐生の名を吐き出そうとした。
「あ、っあ……」
――ダメだった。
出来ない、桐生を裏切った先に見える光景に正気ではいられない。それに、信じられないがほんの少しでも家に迷惑を掛けたくない、守りたいとも考えていた。
腐っていても、イカれていても家なんだ、俺の生まれた……家。
「言わないか……。大したものだ」
男は初めて人間らしい哀れみを見せた、そして針を柔らかな眼球に突き立てた。
「ああああ――ぁぁ!」
心が壊れた。絶望が広がり、何かを恨まねばいられなかった。
ゆうひ、ゆうひ、ゆうひ――。叫ぶ、声を出さねば狂いそうで、イカれたようにゆうひと呼び続けた。
そんな時だ、怨嗟を弾く銃声が響いた。
パンッ、パンッ。
真横で聞こえた音に続いて扉が蹴破られ。入ってきた男はいきなりふらふらと倒れかけたが、ぐっと踏ん張ってその場で拳銃を構える。
「動いたら撃つ」
ぴたりと止まる背広と老齢の二人。男は拳銃を構えながらゆっくり俺に近づく。背広と老齢の男は大人しく固まっている、男は俺の手足に枷があると見ると老齢の男に外すよう指示した。
老齢の男が枷を外す間男は彼の頭に銃口を突きつける。
「外しました……」
恐る恐る作業の終わりを告げる老齢の男。拳銃を持った男は今一度強く銃口を彼の頭に押し付けて俺の様子を確認した。
「歩けるか?」
「う……」
声が出ない、喉の動きだけが音を震わせる。
右目を押さえ立ち上がった、片足は幸い生きていて壁を支えにすればなんとか歩けそうだった。
「いくぞ」
男は俺を先に部屋から出し「しばらく動くな」と中に念を押してから自分も部屋を出た。
俺はこれ以上感情を堪えられそうにない。蝶架……拳銃を持った男は蝶架だった。黒い髪、同じ髪型で、少し年上の蝶架。
「ふ……ぅ」
俺は安心して泣いていた、でも片目からは涙が出ない。片目は機能を失っていた。
「ごめんなっ、もっと早く助けていれば」
本気で後悔している蝶架。俺は首を振る。
「生、て、るから……」
「っ、こっからは絶対出してやるから」
壁に背中を貼り付け曲がり角の先を確認する。誰も居ないと判断すると遅緩な俺を労りつつ玄関に向かう。
捕まっていたのは随分と広い洋館で、部屋が幾つも備えられ、長い廊下が伸びていた。二階から一階に続く広い階段の先には玄関が見える。
息を殺す。玄関は脱出にあたり最難関だろうと思っていた、恐らく銃声を聞きつけた者たちが警備を強めているはず。
しかしながら、驚く事に玄関には人一人居なかった。色々勘繰ったがそれが何故なのかは直ぐに知る事になる。
夕灯が、そこには居た――。
夕灯は開いた扇子を口元に添えていた。服装は別れるまでと同じ、可愛らしい、ただ一つ真っ黒だという事を除けば愛らしい格好。髪は長く肩から三つ編みにし左右で垂らしている。
裏切り者……。
口を衝いて恨みが零れた。その黒は裏切りの色。俺の視界が真っ赤になり、蝶架の拳銃を奪って夕灯の胸を撃ってやろうと信じられない考えを掻き立てる。
「お前、何処……に、いって、た!」
責め立てる事でかろうじて殺意を抑えた。
後ろめたい気持ちがあるんだろ? そうやって扇子で顔を隠そうとする。目の前にあぶり出された裏切り者を、俺は許す気にはならない。
「顔見せて……」
「綺麗ではないので……」
「俺よりは綺麗だろ……? ねぇ」
ゆっくりと階段を下る、一段一段、恨みを込めながら緩慢な動きで下る。その間に夕灯ならいくらでも逃げられただろう。でも夕灯は逃げなかった。
長い時間を掛けいよいよ夕灯に詰め寄った俺は指が使えない代わりに腕で扇子を弾いた。扇子が零れ夕灯の顔が顕になる。
「っ……」
な、に……なんだよこれ。
裂けてる……。可愛らしい顔の、口から頬にかけて血肉が露出する。何かで抉られ削がれた傷から赤い肉がぬめる。
惨たらしい顔を前に、俺の頭は一瞬で冷えていた。
俺は、俺は何を勘違いしていたんだ。
夕灯は……、夕灯も同じ目に合っていたんだ。俺も蝶架も夕灯も、みんな傷を負った被害者で、じゃあ……じゃあ一体誰が。
「全ては帰ってからお話します……、だから、今は逃げましょう」
喋ると口が痛いのか、小さく聞き取り辛い声。
それでも俺の動揺を読み取った夕灯が真実を語ると誓い、今は此処から離れるべきと急かした。
真実というのが何か飲み込めないが、俺達は互いに傷を抱えた体、一刻も早く治療するべきと洋館から出ることを第一とした。
漸く出口が見つかったんだ、それなのに……血を撃つ一発の弾が俺の足にめり込んだ。
「っああ!」
絨毯の上に倒れ込む。その上から大人の男の声が降る。
「夕灯、戻るなら今の内だ。拒否するならば然るべき手段に出る」
聞き覚えのある声だった……これは、背広の男だ。
確かめなければ、苦痛の中顔を上げる、やはり、背広の男……。無表情で拳銃を構えながら二階から降りて来る。彼の裏には洋館の中の全ての人間、大凡二十人程の仲間が並んでいた。揃って拳銃を携帯していた。
「戻りませんよ、戻るなら家だけです」
「貴方の反発は理解出来ないわけではないですがね、これは必要な点検なのですよ。例えば車や、この拳銃も、定期的に点検しなければ異常があってもそのまま使ってしまう。危険を排除しているのです、これはむしろ必要不可欠であり、延いては貴方の為でもある。お分かり頂けないのか?」
「ならば点検は今日限りにしましょう、車も拳銃も捨てればいい。貴方にとってそれらは本当に必要ですか? 命を食い物にしてまで持ち続けなければ生きていけませんか」
「いい加減……怒りますよ」
「怒りなさい。一方的に子供を怒鳴りつける親と同じ貴方に、私は耳を貸しません」
「貴方という方は……」
「紋代さん、宮卦さんをお願いします。外に出たら赤い車を探して下さい」
「ああ」
背広の男が口籠った間に夕灯は蝶架を急かした。夕灯を苦手とする蝶架も今は素直に言う通り動く。俺は蝶架におぶられる。
「ゆうひ……帰ってきて、絶対に……」
「宮卦さん、無駄口に筋肉を使うくらいなら生命維持にその力を注いでください。貴方はだいぶ危ない状態ですよ。無駄口は無駄だから無駄口と言うのです、分かりましたか?」
「相変わらず……だね……」
「っ、痛……あまり喋らせないでください」
「一つだけ……、帰ったら……飴くれる?」
「くそ安い物でよければ」
「……ふふ、待って、る」
そこで俺は口を開く力がなくなり蝶架の背に沈み込んだ。
意識が薄れ行く中最後に聞こえたのは幾つもの銃口を向けられて尚凛とした夕灯の声。
赤く裂けた口で夕灯は告げる。
「死霊と共に踊りましょうか。桐生本家扇の舞い、今宵桜は散りませぬとも」
風を切る、扇子の音。
それと同時に夕灯の傍から別の誰かの声がした。
「いつまでも見下してんじゃねぇよ……」
誰だろう――。わからない。目が、開かないや――。