世界と会議と馬鹿
この世界の名前は、アズラルトというらしい。
由来は諸説あるが結局は不明。遺失した文明の言葉で、近いもので先端、底上げという意味があるそうだが関係は不明。
そのアズラルトは、アズラルト以外を知るユーリからして奇妙な世界に見えた。ユーリにしてもそのアズラルトの、一つの妙な島から出た事が無いが、それでも奇妙だと思った。
かつての世界に無かったものが在り、在ったものが無い。勿論、符合する所も多々あるのだが。
前世の時代と照らし合わせて、背景的には中世の終わりが近いだろうか。しかし所々、地球では有り得ざる異能の介在で文明的技術的には混沌としている。
前世では架空のものでしかない魔物という化外の存在。同じく創作物にありがちな魔法そのものでこそ無いが、それに近い錬金術師をはじめとする異能者達の存在。
そして共通する銃火器の存在。細部は異なるのだろうが、触った当りで前世の聞きかじりめいた知識が程々に役立った事と、それに驚かれた事がユーリの記憶に残っている。
ついでに、戦闘では微塵も役にたたなかった事もよく覚えている。
生前というか前世は男だ。こう、ファンタジー的な世界に魔物と合わせて身近にあると聞いて、ちょっとワクワクした時期もあった。過去形。
しかしてユーリは凡人だった。異邦の知識という下駄を履いても、銃火器という得物を持ってもだ。
自分より巨大で、生の殺意を顕に襲い来る魔物という現物を目の当たりにして、ユーリはあっさり挫けたのだ。
その日の事をユーリは思い出したくないが、教訓は刻んだ。自分に荒事は無理だという。
「おかえぎゃあぁあぁあああああああっあああっっ!!」
それは、首から上を包帯でぐるぐる巻きにして、尚且つその包帯の上から赤黒いもの滲ませる兄の帰宅を、洗濯物両手に偶然出迎えたユーリの絶叫である。
「なっ、どうしたユーリ! 何か恐ろしいものでもあるのか!?」
「恐ろしいのはおめーの顔だよ!!」
ラグナが血相を変えて辺りを見回し警戒し始め、まるで自覚のない姿に肩を震わせながらユーリは突っ込みを入れた。
家族が顔面流血包帯巻きで帰ってくれば驚愕もやむ無しだろうが、馬鹿はまるで理解できないとばかりに首を傾げる。
「? 恐ろしいって、俺だぞ。ユーリのお兄ちゃんだぞ」
「ばーかばーか! ばあああああっかっ!!」
「ちょっと一体何が――ってうぉわあっ?!」
何か耐え兼ねたように半泣きで馬鹿馬鹿連呼するユーリ。
それは少し見ればそこまで酷い絵面というわけでもないが、その反応の見当違いっぷりに参ったのだ。
その悲鳴じみた声に外から駆けつけたエリスが、ラグナの顔面を見て同じく少女らしからぬ悲鳴をあげた。
「くぅ、頭に響く……エリスまで、一体どうしたと」
「え、ちょ、ラグナ? あんたそれ、顔面、どうしたの?」
少女特有の甲高い声二連打には流石に病み上がりに堪えたか、少し顔を歪めて頭を押さえるラグナ。
そして流血沙汰に耐性のあるエリスはいち早く冷静になり、散乱した洗濯物を避けてラグナに近寄る。
血と消毒液のような臭いと汗が入り雑じった匂いを、鼻の良いエリスは感じた。
そして見た所、処置は済まされていても顔全体に結構な深手。しかし本人は至ってピンピンしていると見立てる。
まあラグナだしそうそう死にそうにないとは思いつつも、何でそんな常人からすれば大怪我をと本人に問う。
「ん。ああ、ちょっと流れ岩を掠めてな。いや、メインは右ストレートだったかな」
「何言ってんのお前」
有りがちな単語を聞いた事の無い組み合わせで耳にし、エリスは胡乱な眼差し向ける。
しかしその組み合わせに合点がいったとばかりに平静を取り戻したユーリがぼやく。
「な、なが、流れ……岩。ああ、あの子か」
「え、今のでわかったの」
「まあちと仕事でミスってな。罰として良い感じの右ストレートを一発貰ってこのザマというわけだ」
「え、え。右ストレート一発でそんな血だらけの包帯まみれになるようなもんなの? あんたが? 私の母さんに踏んづけられても死ななかったあんたが?」
本気で混乱した風におろおろとラグナを見たりユーリを見たりと視点を回転させるエリス。
いや、踏んづけただけで死ぬ死なないレベルの話になるあんたの母さんは何者なんだと口に出しかけ、何となくそれは地雷のような気がしてやっぱり止めるユーリ。
そしてユーリの知りたい事を知っているだろうラグナは朗らかに笑い、落ち着け落ち着けとエリスの金髪をぱんぱんとはたくように撫でる。
「まあまあ。なんやかんやで死んでないから良いじゃないか」
「なっ、いや、うあ、あぅ、ああああたまなでんなよぅ……」
視線をさ迷わせ、詰まったような言葉は言葉尻にいく毎に消え入るように。そしてその頬は横目で見たユーリの目から見ても紅潮し、口元はふやけたように弛んでいて。言葉に反し嫌がる素振りの欠片も無い。
ユーリはそのエリスの様子に数瞬茫然とし、ここではない世界の知識を意識せず紐解く。そして大きく目を見開き、その背に電流を流したような錯覚を受けた。
――莫迦な。ツンデレにナデポだと?! そんな非常識、しかも同時に実在したと言うか!? うちの馬鹿兄貴がっっ!!?
ここ最近一番の驚愕を味わうユーリである。が、別に当人(主に馬鹿)はその驚愕の意味を理解していないし、またユーリが連想した妙な魔性があるわけも無いので普通に切り上げ、驚愕冷め遣らぬ弟だか妹だかに目をやる。
「ところでユーリ、腹ぁ減ったぞ。昼飯はー?」
「……お、おう。できてるよ」
「ひゃっほう。あ、そういやなんか村長もこっちで食うらしいから、人数増しで頼むぞ」
「あ、ああ。村長ね。村長……え?」
麗らかな昼下がり。集落の端に位置し、用事がない限り誰も近寄らないラグナとユーリの家。
さして大きくも無いそこには今、用事を以て訪れた人が二人いた。両者は手狭なテーブルを挟み軋む椅子に腰掛け、ラグナとユーリのゲストでもあるエリスを見詰めていた。
来訪者の片方は、年の頃はラグナと同じく若い男だ。
やや痩せ形で糸のような細い目とそこはかとない白々とした笑みを張り付けたまま、珍しくも慎ましく茶を啜りながら沈黙を保っている。もう片方の同席を条件に招き入れられた、新聞記者のソラン・フィフィアである。
そしてもう片方は場の中心であるように、平均年齢の若いこの場の面々の視線を集めていた。
齢にして五十か四十か。地毛に白が混じり、数十年も昔は男の目を惹いたであろう肌には、年月を語る皺が顔を出す。表情は柔和に笑み、落ち着いた雰囲気を醸す老いをはじめた女性。
この集落は村では無い。しかしこの土地が島になる以前から、彼女は村長と呼ばれていた。
「――どうもはじめまして。未だこの集落の纏めを勤めさせていただいている老いぼれです。名は訳あって名乗れませんが、どうぞ遠慮なくおばちゃんでもお婆さんでも、或いは皆が呼ぶように村長とでも呼んでくださいな」
「は、はあ……えと、エリスです。こちらこそはじめまして」
老木と若木のような年代の異なる手が互いに伸び、握手を交わす。
雰囲気のある人だ、とエリスは半分以上呑まれて、自然体の村長をじっと見つめた。
「……俺ん時と随分態度が違うし……」
そりゃ、如何にもな落ち着いた年配とユーリとじゃあ、同じ対応をする方が問題だろう。まあ現物見てないから、どんなんだったのやらは知らんけど。
と、台所寄りの所で立つユーリの呟きを聞き取ったソランは、言葉にはせずに聞き手のままでいた。
「それで、私に聞きたい事があるって」
「ええ。貴女のことはラグナ君からある程度は聞いているけれど、やっぱり直接会って、自分の目でも確かめたいじゃない?」
「あの、何を……聞きたいんです?」
「そうねえ……じゃあ、エリスさん。貴女は」
間延びした口調。しかしエリスは重圧を感じ、唾を呑む。悪い相手でないのは彼女と馴染みがあるというラグナの言葉と、実際に相対した感じで何となく解る。
しかし、と。何やら虫の好かない臭いがする笑みを浮かべた記者を抑え込み、同席させながらも黙り混むことを選択させた御仁。
何がとはエリスに形容できる言葉は咄嗟に見あたらなかったが、それよりも先立つ本能的な緊張があった。
「……」
「海と山、どちらがお好きかしら?」
「……え」
故に全く関係ない角度からの質問に、咄嗟に反応できず間抜けた表情を晒す。
「海と山、直感的でいいの。エリスさんはどちらがお好きかしら?」
「え、え。いやどっちも。私は緑が……そういうなら、山かなあ?」
「あらあらそうなの、私もどちらかと言うと山派なのよ。大きくって身近でねぇ。険しい所は登りがいもあるし」
思わずといった体で素直に応えるエリスに、人の良さそうに笑んだまま頬に手を当て、雑談をするように振る舞う村長。
しかしその態度がお気に召さなかったか、エリスは一瞬目を細め、少しだけ語調を強めて先を促す。
それも想定の範囲とばかりに、村長の笑みは動じない。
「……あの、そういう事を聞きにきたんですか?」
「あら、人となりを見たいなら、会話を重ねるのが一番の近道よ?」
「一理あるが、ちと迂遠だな。エリスは見ての通り人見知りだし、諸事情もある。今は手早く聞きたい事を済ませた方が良いぞ、村長」
村長の微笑みとエリスの強張った顔がほぼ同時に固まり、その発言を耳にした場の全員の目が、今しがたの発言の主に向く。
「どうした。俺からもこの場で言いたい事があるんだから、早い所話しを進めたいのだが」
合計四対の目を向けられたラグナが、怪訝な表情で湯飲みを片手に先を促した。
その顔面は、錬金術師製の薬品と本人の生命力の相乗効果により、数時間前までの包帯も傷跡もない。何時もの馬鹿面である。
「え、ええ。それは良いのですけど……」
それは冷静でいて理路の整った意見である。が、言っているこいつが納得いかない。
恐らくはラグナを除くこの場の全員が思っているだろう感想を口には出さず、村長は冷や汗を流しながら口ごもる。
「ならば進めよう。先ずは誰もが気になっているだろうエリスの素性からが良いと思うが、エリス、俺が言って構わんか?」
「え、あー、え。う、うん?」
当のエリスも狐に化かされたような顔で頷いたので、ラグナは手早く先に進めた。
それはエリスの了承を得てないからと、ユーリや村長にすら説明しなかった事柄である。
「エリスは、この世界の住人ではない」
――それは、この場の空気を変えるに充分な威力を持つ言霊だった。
反応は各々違う。頭の回りが良くとも常識を持つソランは言葉の内容を理解するのに苦心し、逆にここではない世界の常識とサブカルチャーを知るユーリは薄々の推測と相俟って混乱は薄いが、それでも驚きは表れている。
当のエリスは、否定の素振りもなく少しだけ眉根を下げて不安気にラグナを見て。特に経験の豊かな村長は――その眼に、一瞬、剣呑なものを宿した。
「と言っても、この世界への来訪は俺に引っ張られてのもの。何よりそのエリスの居た世界は滅んだ故に、根本的に行き来は不可能で」
「待て待て待て!!」
淡々と続けるラグナに、椅子を倒して勢い良く立ち上がり、完全に引き攣った表情で待ったをかけたのはユーリである。
その様子から、どうやらこの兄妹の間にはろくな情報共有もなかったのだとソランは判断したが、それよりも流れる会話の意味を理解すべきだと思考のリソースを冷静に傾けた。
「え、何。ちょっと待ってどういう事? 何その急展開。異世界? しかも滅んだ? え、あれこれあれ、ひょっとしてお前、今までちょこちょこ行方不明になってたのって、まさか……」
「ああ。たぶんだが異世界に跳ばされてたんだろうな」
「ええー……や、ええええっ……どーいう事なの……?」
「解らん。何か大体気付いたら妙な所に居たりするし、なんやかんやで戻れたりもする。原因はわからんがな」
「妙な所って……何、毎回出る所が違うとか?」
「それもあるが、それ以前に、どこまでが同じ世界かも解らん。判り易けりゃ空が昼夜問わずどす黒かったり、太陽が複数あったりしたのもあったが」
「ワケわからん……」
「奇遇だな、俺もだ」
そう言ってラグナは何時ものように場違いに陽気に笑った。ユーリはテーブルに頭を突っ伏させた。
ユーリとしては、そういう超常識的な異常――異世界云々の知識――に耐性があるため、なまじっかある程度理解できてしまう為に頭がパンクしそうな新情報のオンパレードである。
嘘と断じたいが、兄の人となりは良く知っている。よくわからない事も含めてわからん奴だと知っている。故にこんな場面でこんな意味不明な嘘を吐く奴ではないこともよく知っている。だからこそユーリは頭が痛かった。
実際頭を抱え蹲ってしまいそうになりながら、そう言えば椅子を倒してしまった事に気付き、立て直して座る。そして改めて現実逃避するように頭を抱えた。
それをよくある事であるかのようにラグナはスルーし、マイペースに話を続ける。
「と、まあエリスはあれだ。そんなよくわからん現象の中で偶然出会って、なんやかんやで連れ帰った。そういう訳だ」
「……まあ、その経緯は今は良いとしましょう……そうですね。まず世界が滅んだ、とは?」
「……さて。滅びる現場を見たわけでないし、俺にも具体的にどうとはわからんのだが」
突拍子の無い話にも取り乱す事のない村長の質問に、ラグナは腕を組み、少しばかりどう説明すべきかと頭を捻る。
気味の悪いくらい真っ当な説明(かっとんだ内容以外)の運びをするラグナに、その普段をよく知るユーリは気味悪そうに肩を抱き、ソランは笑みを引っ込めて観察に力を入れていた。
そして当事者の一人である筈のエリスは、沈鬱な表情で一言も語らず場の進行を見守っていた。
「エリスの母が言っていた事だったがな、どうにも、世界自体が泥に沈む寸前だったそうだ」
「……泥に?」
「世界全体と比較しても、砂粒と星以上に開きのある、どうしようもない規模と性質の泥海だそうだ。それに沈むのをその母が何とか抑えていたが……」
ラグナは僅かに悼むような色を顔に浮かべる。
母さん、と。迷子が親を呼ぶような声がか細く発せられた。それは耳の良いソランでさえ何か呟いたとしか聞こえない声だった。
「限界だったそうだ。で、その今際の際にエリスを頼まれた」
「……俄には信じ難い話ですね……しかし、泥……」
思案するように眉間に皺を寄せ、何か思い至るような反応をする村長。ソランも似たような所作をしているが、しかしそれらをもスルーし、ラグナは挙手するように片手を挙げた。
「とまあ主な説明も終わった所でだ」
「いやなにも終わってねえよ! ちょっと途方に暮れるくらいあちこちに突っ込み所があるわっ!!」
「後で聞く! 今は俺が質問するのだ!」
弟だか妹だかの突っ込みに触発されたような勢いで、ラグナはかっと開いた黒目に無駄な力を込めた。
そして場の誰でも無く、俯き黙るエリス以外の面子それぞれに問いかける。
「俺がいない間、『霧』は出たか?」
数秒の沈黙。それは、ラグナが島から消えていた期間に島に居た住民なら、大概が答えられる質問だ。
聞くのは――今まで聞き忘れていたとかなら、出てもなんら不思議でない質問。
だが何故、今この場で? 何時もの馬鹿の突拍子無しの言動、とは何となくレベルで違うような気がして、ソランは手短に推測する。
どうせ直ぐにラグナが続きを口にし多分が無駄になる思索だが、その思索こそをソランは好んでいた。
――霧? なんでそんな事を?
この島に関して経験も知識も不足しているエリスが一人、鈍った頭で疑問に思う。
それはエリスからすれば、数ヶ月前までの天気を気にするような気楽なものでしかない。しかし、感じる場の空気はそんな気安いものでもない。
エリスは鈍化したままの思考に微量の不安と不吉を宿し、ちらと元凶に目を向ける。顔つきとしては平凡よりやや整っているくらいだが、子供のようにころころ表情を変えるのが特徴的なラグナは、その時、険しい顔をしていた。
「一度だけ。時期としては、貴方が消えて一月経った辺りかしら」
「ふむ……ちなみに、出たのはどんなだった?」
「腐った亀でしたね。サイズとしては五十m程の」
ほぼ部外者であるエリスにはよく解らない村長の言葉に、顎に手を当て眉間に皺を寄せたラグナはふむと思案気に頷く。
それは何事か考え込む仕草の典型と傍目には映るだろうが、付き合いの長い面子の認識は逆で一致している。あ、こいつ今特に何も考えてないな、と。
「……むう。どんな戦闘だったか気になるが、まあ後でソランの新聞でも読ませてもらおうか」
「それはどうも」
一瞬にして胡散臭い笑顔に転じたソランが一礼した。
「まあそれよりだ。近々霧が出る事に関してだが」
そしてその胡散臭い笑顔が凍った。
否。ソランだけでなく、意味を理解していないエリスと口にした馬鹿以外の全員が固まっている。
そして何らかの前置きを忘れ去った馬鹿が、凍りついたその一同に気付かず、マイペースに真剣ぶって続ける。
「多分だが、その亀を越える規模の何かがやってくるだろう。早いところ住民避難の準備を」
「待てこら、おい。待てやマジで」
「何だユーリ。お兄ちゃんは今真面目な話をしているのだが」
「真面目ぶるつもりなら前提の説明すっ飛ばすなやボケえエエエエエエエっ!!」
「前提……?」
荒ぶる弟分にラグナは不思議そうに首をかしげ、数度瞬きする。
そして何かに気付いたように手を合わせ、納得顔を見せ。
一同の中から――前提からして話に付いていけず、ちょっと縮こまっていたエリスに向き直る。
「いいかエリス、ここでの霧と言うのはだな」
「そうじゃねええええよ!? いや確かにそれもあるけどそうじゃねええええええよっ!!」
微妙に焦点が合っているような違うような馬鹿に、ユーリ手製のハリセンによるユーリの一振りがその脳天に容赦無く下ろされた。
Q、なんか馬鹿が所々賢くね?
A、頭をとても強く打った反動。