半魚人と島とエリス
二月も無断で家を空けた不届きな兄が、これまた預かり知らぬ間に家にあげた金髪の少女。名はエリスという。
そして彼女を連れて来た当人は録な説明もせずにちょっと出掛けてくるわ、と二人が静止する前に部屋着で外出し、後には初対面二人が残された。
微かな身動ぎさえ何かしらの切っ掛けになりそうな気まずい沈黙が数秒。
取り残された二人は自然と目を合わせ、ユーリはややひきつった愛想笑いを、エリスは借りてきた猫のような仏頂面を返した。
「え、えーと。はじめまして、俺はユーリと言います」
「……はじめまして」
沈黙が再び訪れる。ユーリは脳内でありったけの罵声を愚兄に浴びせ、エリスは黙って仏頂面のまま、ユーリを見つめている。
変わらず何とも言えない空気が漂う。そんな中、エリスがおもむろに口を開いた。
「……あんた」
「え?」
「女の子なんだ。弟って聞いたけど」
ユーリの愛想笑いの角度が危険な線に突入した。
補足するとユーリの前世は男であり、今生は逆。ついでにユーリの本名はユーリカという。
柔い肌に小さいながら僅かな膨らみのある胸部、体重バランスの狂いに股間の棒の有無。ユーリはそんな性差から生じているギャップを当たり前だが克服できておらず、女物の服の一切を遠ざけ、明らかに女性っぽく聞こえる本名さえ微妙に忌避し、近しい人には縮めて呼ばせている。
ついでに言うと医療関係も担当している錬金術師からは性同一性障害を認定されており、それはラグナも認識している。そして単純故に半ば弟扱いされている。
しかし顔立ちは中性的だが、肉体的には貧相ながら少女のそれである。詳しい事は知らないエリスはその地雷に関し、訝しげにしていた。
そんな素朴かつ悪意のない真っ当な疑問に、ユーリは思い切り目を反らす。何て言うべきか、真っ白になった頭が熱を持ち、やがて思考を成さない言葉が口を滑る事になる。
「ち、ちちちち、ちがうし。妹じゃねーし、弟だし」
「……? 何言ってんの。ちょっと男っぽいけど、女じゃない」
「ちがわい、ちゃんと心の中には立派な肉タワーとダブルでゴールデンな玉がそろってるもん。ただちょっと具現化できてないだけだもん」
「ちょっと何言ってるかわかんないんだけど……ちょ、あんた大丈夫なの? なんかガタガタ震えてるけど」
「……だ、大丈夫。ちょっと性別に触れられると発狂する病の発作だから」
「そ、そう。や、なんかその、ごめん」
仏頂面や困惑から、何か気の毒そうな表情をされた。
涙目のユーリはそれに納得いかない思いを抱えつつ、こほんとわざとらしい咳を一つ。
「えーと、エリスさんは」
「……さんなんて良いよ。鳥肌がたつ」
「あー、じゃあエリス。は、一体どちらから?」
「言いたくない」
一瞬で目付きが険悪になった。
どうやらお気に召さない質問だったらしいとユーリは悟り、なんで地雷を突つきあってんだ俺ら。と乾いた笑みをこぼす。
それが更にエリスの気にさわったのか、結ばれた唇が一瞬ヒクついた。
「そ、それじゃああの馬鹿、じゃなく馬鹿兄貴もというちの兄とはどういう関係で?」
「……難しいことばっか聞くわね、あんた」
――刺々しい!
なに、なんなの。なんかこの子基本的にすっごい刺々しいんだけど!
テーブルに顔面くっつけて降参したい気分を堪えながら、ユーリは懸命にエリスと対面していた。
エリスとしてはこの状況そのものが不本意なのか、頬杖をついて不機嫌な様子を隠そうともしていない。
「はあ……」
とうとう溜め息なんて吐き始めたエリスに、こっちだって溜め息吐きたいよ、とユーリが思った矢先。
「魔物の特徴……」
「え?」
「あいつ……じけーだん、とかいうんだって? それで魔物と戦うとか。で、私にもちょっと相手してみろって」
「え、え。は? 相手って……戦うの?」
「そうだけど」
相変わらずの仏頂面で言い切るエリスだった。
戸惑いながらもユーリは、エリスの身体を上から下までじっと、それと解るくらいまじまじと観察する。
魔物と戦う。戦闘をする。そう宣言したエリスに気負いは見えず、可憐な容姿に似つかわしい細腕で、異形と争うに不相応な自信さえ感じさせる自然な佇まい。
戦闘をする者とそうでないもの。ユーリの有り得ざる知識のジャンル外ではあるが、割かし殺伐とした現環境から、その程度をかぎ分ける程度はユーリにも少しできた。
故に判断できる。この少女は、一見するとヤられる側だが。否。
この少女はヤル側だ、と。
茶の間。
こことは違う世界でそう呼ばれる落ち着いた場は、細かな差異はあれど、この世界でもそう呼ばれる。
温かな畳が敷かれその上に座布団と湯飲み。そこに正座し相対する男女。
男女といっても年は親子かそれ以上に離れているが、親子のそれとは違い、悪意でも善意でもない妙な緊張感を以て両者は対峙していた。
ずずず、と。湯気だつ湯飲みから茶を静かに啜る音。
相対する男、ラグナは、身動ぎ一つせず黙ってその様を眺めている。
上品な手つきで、やや歪んだ湯飲みを下ろす。皺が目立ち始めた女性の顔付きは、やや厳しい色が浮いていた。
「……ラグナ君」
「はい」
「その子、エリスさんをあの魔物と戦わせてみる。その露払いをお願いしたい……という解釈で良いのね?」
「その通りだ……です」
取って付けたような敬語。だが、それは悪意の類いではない。この女性やユーリといった面子の長年の矯正で、どうにか取って付けれた代物だ。
「そう言うからには、実力と人格。共に最低限でも保証できるのね?」
「おう」
「……はあ」
その取って付けさえあっさり剥がれつつあるラグナに、気を悪くした訳ではないが、呆れたような溜め息を吐く。
肩より少し下まで伸び揃えられた白髪混じりの黒髪が、虚しげに揺れた。
「あのねラグナ君。わかってますか? 貴方が要求しているのは、結構に大変なことなのですよ」
「だが村長ならばできるんだろう?」
ラグナはじっと村長を見つめている。揺らがない、確信と信頼がブレンドされた黒瞳。
その愚直さが今、厄介だった。
「ラグナ君。私が言いたいのはですね」
「エリスは強いぞ。だが、今ちょっと不安定なんだ。だからちょっと気晴しをしたほうが良い」
何故その気晴しがよりにもよって魔物退治なのか。
少しは女心というものを、とそこまで考えて、解るわけないかと村長と呼ばれる女性は諦め、嘆息した。
「はあ……まあ、私に真っ先にその相談をしに来たのは正しい判断です」
「え」
「……ああ、天然でしたか。ですよね」
何も考えてなさそうで、実際何も考えてない真顔。そんな馬鹿面が首を傾げているのを見て、大体が脊髄反射的な反応なのだと理解した村長は、また嘆息を一つ。
暫く顔を見なかったから少しは心配していたが、この間抜け面である。とても自分を天然で共犯に仕立て上げようとしている手合いには見えない。だからこそより質が悪いとも、村長は認識している。
「要望を断りそのまま放置したら……まあ愉快な事にはならないでしょう。そしてそれはどう転んでも、誰にとっても望ましい事にはなりようがない、であらば、まあ仕方ないという事でしょう」
「村長。あまり遠回しな言い様だと、なんだ。あれ、馬鹿っぽく見えるぞ」
「………………」
そう馬鹿に言われた村長は、久方ぶりにひとつの感情で頭が真っ白になるという現象を味わうも、老練と云える経験でそれを呑み込み、たおやかに笑んだ。
「それで結局、どうなんだ村長。受けてくれるのか? はいか了解かで早く答えてくれ」
青い空に白い雲と、海原広がる遥かな地平線。
潮と生臭さの混じった風が吹き、砂が乱れ小波を生む。
彼方には渡り鳥の群れが風に乗り、それを時折ぱっくんちょしたりするよくわからない巨大海生物がダイナミックに舞い上がり、盛大な水飛沫を上げる。
別の海面ではまた別な多分渡り鳥を捕まえんと海原から伸びた得体の知れない触手を、陸に近ければ聞こえる事もある怪鳥音が炎とか吹いて迎撃とか返り討ちとかしたり。
そして近場の砂浜では、海面から奇声をあげすて上陸してくる魚面で青白い肌だか鱗だかの半魚人擬きの群れと、それを迎え撃つ金髪の少女の姿。
大自然だなあ、と。妹だか弟だかのいつぞやの現実逃避気味な感想を無意味に思い出したラグナは、肩を振るうと緩く息を吐いた。
「数もそれほどでもない。あいつならまあ、大丈夫だろうが」
「でも彼女、初見でしょうに。手伝ってあげたら?」
「んんー……」
今も横に居る自称弟の投げ槍な言葉に振り返らず、ラグナは己の腰に下げた得物を一瞥し、やる気無さ気に唸りまじり気の無い黒髪を揺らすと、ややかさついた唇をへの字に曲げて首を振るう。
「やめておく、調子が悪いし気ものらん」
「へー、ラグナにしちゃ珍しいね」
俺にしてはとはどういう事かと首を傾げるも問いかけはせず、隣で読書をしていた自称弟に、今度は顔を向けるラグナ。
すると、傷んだ書物から視線を上げていた、年齢不相応な思慮の滲む栗色のたれた目と目が合う。
しかしどうという発言もなく、沈黙。理由もなく交差した温い視線の外で、断続的に続いていた肉を抉る生々しい音と、けたたましい人外の断末魔が止んだ。
常人ならば何らかの反応があろう狂騒を両者揃って当たり前のように聞き流していたが、沈黙。さしたる間もなく、砂浜を踏み締め両者に歩みよる足音か一つ。
「をいこら」
「ん?」
「あ、終わった?」
発せられた声音は不機嫌で、やや危険なものさえ滲んでいたが、浴びたせられた両者の返答は極めて弛く呑気なものだった。
両者が同時に視線を向けた先には、やたら粘着質で酷い悪臭が漂う液体で頭から足の爪先までくまなく全身をべたべたに汚してしまった少女の姿がある。
濡れた少女、というと深読みすれば怪しげな気配の漂う表現だがここにある濡れた少女は只単に汚いのと惨めな感じだけが先行するそれだった。
「……ぶふっ、あ、いやこれはちが」
「……あんたってさ、意外といい度胸してるねぇ」
思わずといった体で吹き出したユーリが顔色を変えてなにがしかの言い訳をしようとしたが、少女の引きつっていたつぶらな唇がより危険な角度を刻むのが早かった。
おもむろにゆらりと上がる少女の細い右腕。その手首辺りに嵌められた幾何学的な模様が複数に刻まれた腕輪が微光を放つ。
それがどういう予兆なのか、はっきりと知らずともどういう威力かを知る両者の内の一人であるユーリは情けない悲鳴を漏らした。もう片方のラグナは、
「ふむ、まあなんか随分と汚れたなエリス。何故お前の得物でそこまで返り血を浴びたのか気にかかる所ではあるが、まずは水浴びにでも入った方がいいんでないか?」
平常のそれとまったく変わりない風にしれっと会話に混じり、空気を読んでいるのかいないのか普通にそう主張した。
「…………あ、ん、た、はあんたで、あーったくもう!」
表情を様々な形に引きつらせ、地団駄を踏んで苛立ち吐き捨てる。
その過程で己についた青緑の返り血の悪臭に思い返り鼻を摘まみ、何事かを他者には聞き取れない小声で呟きながら俯く。
そして何事かを手短に煩悶し結論つけたようなタイミングで面を上げ、夢に出そうな凄まじい形相でラグナとユーリを睨み。
「……ってくるから。あとで覚えとけよ、あんたら」
怨念を吐いてその場を足早に去っていった。
「あばばばばばばばばばばば」
「……ふむ」
魚を腐らせたような生臭い場に残された片方は壊れたような音声を垂れ流し、もう片方は目を細め何か思案するように唸る。
「……なあ、ユーリよ」
「あばばばば、ななななんよ馬鹿兄貴」
「バナナ? いや、それよりエリスだ」
「そうだよそーだよどーすんだよ、やっぱりあんな女性の敵めいた魚面を初見のエリスソロで押し付けるなんて滅茶やったんや! この馬鹿ばーか、ばーっか!!」
「覚えとけと言われたが、いったい何を覚えておけば良いんだ?」
一欠片のフザケも感じない発言はしかし、数秒の理解する間を置き、ユーリの膝をへし折るに足る力を持っていたようだ。
膝をつき、砂浜に顔面を直撃させんばかりに姿勢を崩した弟分を、ラグナは不思議そうな表情で見下ろしていた。
面積はさして無く、真上から見たら扇に近い形をした小さな島。
そして扇で言うなら開いた部位に切り立つ断崖が広がり、持ち手は砂浜。
しかし港が無ければ船さえ無く、また全方位に水平線と謎の巨大生物しか見えない、外界と一切の交流を途絶した正真正銘の絶海の孤島である。
その孤島のほぼ中心に位置する場所に、風雨を凌げる程度の建物が集合し、島で唯一の小さな湖もある、集落があった。
その小さな集落こそが、孤立無援の孤島唯一の人里であり、その名もなき孤島こそが、ラグナ達が産まれ育った場所なのである。
「にしても、話には聞いてたけどさ。あんの気色悪い半魚人共、本当にまともな魔物?」
事前にユーリによって準備されていた水を浴びたり、錬金術師の手を借りた薬品で一通り汚れと悪臭とを落としたエリスが、まだ不機嫌が残る表情で問う。
そんなエリスの容姿は可憐であり、体躯は細くしなやかで野生動物のような機能美を見る者に与える。さらさらの短い金髪に今は細められているが、宝石のような碧眼。
総じて黙っていれば相当な美少女であり、ユーリとしてはかなり好みのタイプだった。同時に気性が合いそうにないなあともユーリは思った。
余計な思考を交え、小一時間ばかり恨み事を聞かされていたユーリが、正座させられ痺れた脚をさする。
そしてああ漸く一段落ついたかと安堵の息を噛み殺しながらも、怪訝そうに首を傾げた。
「まともな魔物って? いや、俺は魔物自体をあいつらくらいか、空か海のデカブツくらいしか生で見た事無いんだけど。なんか違うの?」
「ああ、あんたはこの島から出た事無いんだっけ」
ユーリはこの島で産まれて、育った。この、島外に出る手段が存在しない島で。
それはユーリが産まれる前から変わらず、そして今もだ。
故に島外では常識と呼ばれる事柄でも、他者か書物でしか知らない。
それに思い至ったエリスはちょっと気まずそうな顔をし、誤魔化すようなペースで続ける。
「いや、私の知ってる魔物はね、えーと、もうちょい、あれ、こう、自然っぽいていうか、ぎとぎとしてないっていうか」
「ふわっとした感じだなあ」
「うっさいわね。ってかラグナ、あんたもちょっとだけど向こうの魔物見たでしょ。その辺どう思うのさ」
身振りでアバウトに説明しようとしたエリスが、微妙に視線を背けながら説明を投げた。
投げられたラグナは、ユーリの横で正座を続けながら真顔でふむと首肯し、うーむと腕を組んで唸る。
それにユーリとエリスは、あ、こいつもろくな意見ださなねーな。と揃って予感した。
「確かに、なんかやる気とかが違うような気がするな」
「揃ってアバウトだなぁ……」
横に並んだ体格のよろしい兄と比べて大分細い肩をすくめ、案の定か、相変わらずこの馬鹿兄貴はよくわからん、とユーリは嘆息した。
「まあ、あの半魚人共は人を仇なそうというやる気には満ち溢れているが、大して強くはない」
その大して強く無い半魚人共に、調子が悪ければタイマンで負けるんだけどね兄貴は。と微妙な目線を向けるユーリには気付かず、ラグナは淡々と続ける。
「ただ、数が厄介だ。奴らどれだけ排除しても減った様子を見せない」
「俺らが産まれる前から、ってかこの島ができてからずっとって話でしょ? 本当嫌になるね。いや、マジで」
積年の恨みからか、地味ながらも整った顔立ちを嫌悪に染めてユーリが嘆息した。
「島ができてからって……どんだけ昔の話よ、それ」
「そんな昔じゃないらしいよ。ラグナが産まれちょっと前の、ああ、今からならちょうど二十年前くらいの」
「ふーん……はあ?」
己の常識から外れた返答に、やや吊り長の目が大きく見開かれ、エリスは困惑の声を漏らした。
説明を要求する視線がユーリに向けられるが、その空気を察したのか違うのか、真横のラグナが先に口を開く。
「それはなんかアレだ。大陸のアレこれがあーでなんかおもむろにどかーんとしてどえらい事になったとかで」
「はいはーい、説明なら俺がするから、馬鹿兄貴はちょっと黙ってようね」
極一部の者しか翻訳できない手振りをまじえた、大体が擬音語の説明らしきものを何時もの事として遮りながら、ユーリはどう説明しようかと脳内で順序立てていた。
「まあ結構ざっくり説明するとね、この島は元々、大陸の端の方の一部だったんだよ」
「はあ? 何それ、どう言うことよ?」
「簡単だ。その大陸の地続きだった大地がほぼ海になったからだよ」
「…………ごめん、私の頭が悪いからかな、意味がわかんない」
大陸の一部が分断されるような、大規模な地殻変動が十年二十年そこらでなされるか否か、そんな知識などエリスには存在しない。
それでも、例えば自分の住処の境目にでかい湖が突然できる訳がないだろうという曖昧な解釈をしようとして、スケールの違いからやっぱり理解しきれずに、エリスは冷や汗を流しながら頬を掻いた。
「気持ちは痛い程に解るが、事実だよ。原因については憶測するしかないから省くけど、まあ、今この元大陸今孤島に居る人達は、その世にも恐ろしい災害が発生する以前からその土地に住んでいたり、たまたま立ち寄っていたりした旅人商人諸々、という人々の寄せ集めなんだよ。俺たちはその子孫にあたる訳だね」
「な、なるほどなー!」
如何にもな適当な相槌。やはりこのエリス、戦闘能力の割に、基本的にあまりオツムの出来がよろしくない感じがする。とユーリはアタリをつける。
「そして現在も大陸との連絡はとれていない。あちらからのリアクションは確認されてないし、こっちはそんな余力が無い。だから大陸がどうなっているのか、そもそも大陸がまだ存在しているのかすら、今に至っても解らない」
陸の孤島でなくガチの孤島。魔物達の巣窟のど真ん中で孤立無援で、自力の脱出手段も無し。これはちょっとシャレじゃなく絶望的と言える状況だ。
実際、幾つかの条件が異なっていたら、自分もラグナも産まれてすら居なかったのだろうとユーリは思っている。
「だが俺は外に往きたいぞ」
それは然したる声量でなくとも、力のある声だった。
物理的でなく、それ以外に作用するような何かを感じさせるそれに、ユーリとエリスは揃って面を向けた。
「まだ見ぬ景色を見たい、食った事のないメシを食いたい、会った事のない人と出会いたい、行った事もない国に往きたい。異なる大地を踏みしめたい」
ラグナの黒い眼が静かに、しかし沸騰するように強烈な意志を宿し、輝いている。
少なくともその場にいたユーリとエリスはそう感じた。息を呑まずにいられない、気圧される、そんな瞳だ。
言葉の内容自体は、二人ともが聞き覚えのあるニュアンス。頻繁にとはいかずともラグナが口にしている、実現困難な目標。
そう、実現困難。材料が見当たらないという意味では不可能事と言っても良いだろう。それどころか住民を含めた自分自身の未来さえも危うい現実。
知恵も力も素材も無く、しかし明確な意志を有し、ラグナはそれでも本気で口にしていた。
「俺は外に往く。そして冒険するのだ、まだ見ぬ世界を」
そして今もだ。