Ⅷ
あの日から、僕は彼女を抱くようになった。僕にとって、彼女が初めてセックスした女じゃない。初めてなのは、自分のこの手が他人の首を絞めたことだ。
いつものように授業を終えた僕は、彼女のアパートへ足を運び、ポークカレーを作って二人で食べた。田中さんが回し車を走る音と、テレビから溢れる人工的な笑いで、小さな部屋は満たされていた。
食事が終わり、ふと零れ落ちる沈黙の隙間を突いて、彼女は僕を求めてきた。ロフトのベッドではなく、白いローテーブルを部屋の隅へどけて作った即席の空間で、僕等は行為に及んだ。
彼女の首筋に噛みつくような愛撫をすると、細げに震わせた唇から甘い声が漏れる。まるで、篭を揺らして、なかにいるカナリヤを無理やり鳴かしているみたいだった。篭の外の世界を知らない田中さんが、窓際に置かれたケージの金網に、ギチギチと歯を立てている。華と田中さんの間に大きな差異は存在しないと思えた。そう思った自分ごと、口元だけで薄く笑い飛ばした。
「中山君、あなた、篭のなかにいるわ」
僕の視線に気付いたのか、焦点の合ってない笑みを浮かべながら華は言った。
「いっしょね」
誰と? と問うために口を開く。僕は彼女の口から誰の名を引きずり出したいのだろう。僕は一体誰と篭のなかにいると言うのだろう。誰だったら、僕は救われるのだろう。誰だったら、彼女は救われるのだろう。想いは何一つ言葉にならなかった。
頭を軽く振って、考えを強制的に終わらせる。滞った行為の気まずさを拭い去るため、僕は彼女の唇を塞ぎながら小花柄のブラウスをたくし上げた。彼女の言葉は、感覚的に肯定してしまいそうなものだった。根拠もないのに、そう想った自分が、僕のなかには確かにいた。
安っぽい円柱形の花瓶が、部屋の隅で倒れる音がした。緑色の濁った水と共に、元の色を失ったスプレーマムとトルコキキョウがフローリングの床に広がる。植物特有の腐臭が、カレーの匂いで満たされた部屋にとろりとしみ渡った。
「華、ごめん……」
その無意味さを知った上で、僕は形だけの謝罪を口にする。自分の昂ぶりを彼女の体内に埋め込み、僕は彼女の首に指先を絡める。火照った彼女の首筋に手を置くと、肌の桜色に反して、信じられないほど冷たかった。
怯みそうになる心を押さえ、そのまま嬲るようにゆっくりと力を加える。首全体に力がかかるよう、注意を払いながら加圧していく。首筋を絞めれば絞めるほど、指先に伝わってくる彼女の鼓動が速くなっていく。彼女の身体は足りなくなった酸素を求めて、はくはくと浅い呼吸を繰り返していた。自ら求めた行為のはずなのに、彼女の瞳は動揺で潤み、あちこちに視線が泳ぎ始めている。
それを見止める度、僕はひっそりと胸を撫ぜ下ろしていた。少なくとも、彼女の身体はこの行為に対して抵抗を示しているのだ。どっどっどっ、と苦悶を叫ぶように乱れた鼓動が、緩急をつけて締める僕の指先を力強く叩く。彼女のなかに埋め込んだ僕の熱が、きつく締められるのを感じて、僕は声を上げて笑いそうになる。怖かったから、欲望に流されているふりをした。青臭い欲望は、都合の良い理由として僕に認識されていた。
カハッと、喘ぎに混ざって、限界を訴える叫びが漏れた。堪え切れずにだらしなく開いた口から、透明な唾液が流れ落ち、彼女の口元をテラテラと濡らしていた。繋がった部分が再びきつく絞めつけられ、僕は思わず手の力を緩めながら、低いうめきを上げて果てた。
彼女の首筋から絡めた指先をほどいて顔を上げると、彼女と真っ直ぐに視線がぶつかった。手放しに無邪気な笑顔が、そこにあった。それはまるで、穢れも痛みも知らない無垢な幼子の笑みのようだった。
「あいしてる」
その言葉は、僕を縛り付ける枷のように鼓膜を震わせた。そして、それだけが、僕を生かし続ける唯一の光のように思えた。
彼女は篭のなかに閉じ込められている。篭のなかの世界は曖昧であるが故に、彼女を傷付けることはない。しかし、それと同じくらい、付き抜けるほどの喜びも、全身の血液が沸騰するような激しい怒りも、枯れることを知らない涙もない。穏やかな感情の死だけが、そこには存在していた。
僕はあくまでも、気紛れに彼女の篭のなかへ訪れただけだった。訪問者の僕は、いつか彼女を篭の外へと解き放たなければならないと焦りにも近い感情を抱えていた。彼女がここに居続けたら、本当に死んでしまうと本気で思っていた。
彼女の交友関係は圭介と僕だけだった。彼女が差し伸べてきた手を、もし僕が振り払ってしまったら、きっと彼女は本当に一人ぼっちになってしまう。孤独だけを傍らに置いて、絶望の淵に立たなければならない。僕だけが彼女の支えだった。少なくとも、僕はそう信じていた。