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篭のなか  作者: uta
8/10



 花束を手に、玄関でスニーカーを履いた。それに続いて、靴箱から取り出したミュールに華がするりと足を通す。細過ぎるその足は、歩き始めた途端に折れてしまいそうだった。


 鍵を外してドアノブに手をかけた瞬間、彼女が踵を返して部屋のなかへと走り出した。低めのピンヒールと硬質なフローリングのぶつかる音が、薄暗い廊下に鋭く響き渡った。前屈みになりながら、彼女は縋りつくように左側の扉を勢い良く開ける。


 喉奥から搾り出すような水音が聞こえてきた。慌ててドアノブから手を離し、彼女の元へと走り寄る。とさっ、と手のひらから花束が滑り落ちる音がした。


 暗闇に満たされたトイレのなか、さっきまで僕等の間にあった食物たちが、液状化して彼女の喉を逆流していた。びくんびくんと、時折痙攣するように全身を震わせながら、彼女は小さな背中を更に縮こまらせていた。磨かれた白い便器に顔を突っ込むようにして、彼女は嘔吐し続けていた。吐瀉物の刺激臭が鼻をつく。僕は口元を引き締めて、トイレの電気と換気扇のスイッチを入れた。


 彼女がこうなっていることに僕は気付いていた。しかし、それはあくまでも僕の頭が想像していたものに過ぎなかった。コピペしたような笑顔を浮かべた生身の彼女を、僕は見ようとしなかった。イメージとしての彼女を哀れむことで、現実から目を逸らせようとしていた。


 丸くなった彼女の背中を見下ろしながら、ただ立ち尽くすことしか出来なかった。こういう時、僕はどうすれば良いのだろうか。こうなってしまった以上、僕には追い込まれた彼女を救えるのだろうか。何も出来ない無力な自分の存在を、眼前に突き付けられた気がした。


 圭介だったら、華をどうやって笑わせるのだろう。


 こうなったすべての原因である彼に、僕は縋りつきたくなった。身勝手な暴力を心のなかで軽蔑していた相手に、僕は助けを求めようとしている。生者が身勝手なのは、きっと今に始まったことじゃないだろう。


 ヒューヒューと喉から抜けるような呼吸音が、張り詰めた緊張を煽る。田中さんは、我関せずというような涼しい表情で回し車を疾走し続けている。垂らした両手を拳にして、目の前で起こっている現実を見つめることしか、今の僕には出来なかった。


 彼女の嘔吐が落ちついた頃、僕はコップ一杯の水を彼女に差し出した。感情をなくした表情で、彼女はそれを受け取る。水中に浮遊する柔らかな吐瀉物に向かって、口に含んだ水を吐き出した。


 コップを空にして立ち上がった彼女は、震えが残る指先でトイレのレバーを引いた。押し出すような水流がぐるぐると渦を巻いて、何事もなかったかのように吐瀉物を吸い込んでいった。


 荒い息のまま彼女がトイレから出て来ると、廊下に投げ捨てられた花束が、くしゃりと低いヒールに潰された。ゆっくりと片足を上げた彼女は、哀しみに顔を歪める。俯いたままミュールを脱ぎ、玄関の隅に揃えた。その小さな背中は、篭のなかでしか生きられない田中さんのそれと酷く似ていた。


 ふらつきながら立ち上がる華を横目で見ながら、潰れた花束を拾い上げる。買ってから数時間しか経ってないのに、花は生気を失って、くたりとしていた。彼女の靴跡が、真っ白な花びらの上にくっきりと丸く透けていた。


 再びこちらを振り向いた華は、いつもと変わらない表情で綺麗に笑っていた。さっきの嘔吐が冗談だったような明るい声音で「中山君、スニーカーのままだよ」と言った。その一言に僕は思わず笑い返してしまいそうになる。足元を見つめながら、どうしようもない遣る瀬なさを感じて、僕は笑い方を忘れてしまったことに気が付いた。コピペしたような彼女の笑顔を見せられて、僕は踏まれた花束のように、胸をくしゃりと潰した。


 彼女は、田中さんと同じだ。完結されたひとつの篭のなかでしか生きられない。圭介の死によって解決の手立てが葬られた今、彼女は死という絶対的な終わりを待つだけの存在になってしまったのだろうか。圭介は華との緩やかな心中を願って、自ら命を絶ったのだろうか。その答えは、きっと誰にも解からない。


「ねぇ、中山君」


 ゆうるりと実体を持たない幽霊のように、華は立ち尽くす僕の横を通り過ぎた。僕の右手から花束を掠め取り、そのまま引き戸を開けて部屋のなかへと入っていく。


「圭介を殺したのは、私なの」


 部屋の入口に手をついて、彼女はこちらを振り向いて言った。それは、何の感情も透けて見えない坦々とした口調だった。


「中山君、気付いていたでしょ。私の身体に暴力を受けた痕が残っていること」


 崩れ落ちるようにして、ソファの右端に華は座った。靴跡のついたスプレーマムを指先で引き抜きながら、彼女は言葉を続ける。


「最初はね、首を絞めながら私を抱いて欲しいって、私が頼んだの」


 安っぽいメロドラマのような台詞を放つ彼女から、僕は目を離すことが出来なかった。折れそうな人差し指と親指が、手にした花弁の一片一片を丁寧に剥いでいる。はらりはらりと、白い花弁が宙を舞いながら落ちていく。


 そのまま引き寄せられるように、僕は靴を履いたまま、彼女の元へと歩みを進める。近付けば近付くほどに、彼女の顔の表面から貼りつけた笑顔が剥がれ落ち、彼女本来の笑みが内から沸き上がって来ていた。それは、ぞっとするほどに美しい、夢のように儚い笑顔だった。


「ねぇ、中山君。私を抱いて。その手のひらで、私の首を絞めながら、抱いて」


 白磁のような指先が、動けずにいる僕の腕に絡まってきた。それに促されるようにして、僕はラグマットの上に膝をついた。ソファに座ったまま、彼女は僕に囁きかけてくる。少し高い位置から降り注ぐ言葉に耳を傾けることしか、その時の僕には出来なかった。まるで、言葉も感情も失ってしまった人形のように、僕の心は虚ろな空洞に侵されていく。首筋に感じた彼女の温度は、生きているのが不思議な位に冷たかった。



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