Ⅵ
平吹先生のゼミを何事もなく消化し、薄い斜めがけ鞄を肩に掛けて教室を出ようとすると、ゴールデンウィークに娘夫婦と潮干狩りに行ったという先生からあさりをもらった。担当するゼミ生の一人が自殺して、その上もう一人のゼミ生は大学に来なくなった。研究者というより教育者と呼ぶに相応しい先生は、「心配ですね、彼女」と慈愛に満ちた哀しみの表情を浮かべた。僕はそれに上手く言葉を返すことが出来ずに、曖昧な笑顔で続かない会話を終わらせた。砂抜きしてあるというあさりの入ったビニル袋が、酷く重く感じられた。
校舎を出て、正門へと続く桜並木の下を歩く。夕暮れの空を仰ぐと、新緑の葉が日ごと色を濃くしていることに気付かされた。春の緑は残酷だ。自分が世界において行かれたことを、咎められているような気持ちになる。
今日はボンゴレにしよう、と軽く頭を振って、終わりの見えない思考を中断させた。ずっしりと重いあさりを手に、駅前のスーパーで夕食の材料を買った。スパゲティとブロッコリーが入ったビニル袋を荷物に加えて電車に乗る。磯の匂いが混み合う車内に広がり、知らない誰かが鼻をひくひくさせていた。
改札を通り抜け、華のアパートへ向かっていると、ふと小さな花屋の前で足が止まった。そのまま吸い込まれるように、花屋の店内へと足を踏み入れる。偶然目に付いた純白のスプレーマムと藍色のトルコキキョウで、小さな花束をひとつ作ってもらう。高い位置でポニーテールをしている女性店員が花を束ねていく様をぼんやりと見つめながら、僕は左手に持った二つのビニル袋を持ち直した。
アパートの扉を開けると、ハムスターの獣臭さに混じって、閉め切った部屋独特の匂いが外へと流れてきた。薄暗い部屋の電気をつけると、ソファで膝を抱えて座る華が、ようやく僕の方を向いてくれた。痩せこけた頬と、窪んだ目元、骨と皮しかない手足が白々しい蛍光灯の下に晒されて、僕は思わず視線を宙へと泳がせた。乾いた唇は何か言いたげに震えたが、何も語ってはくれなかった。かろうじて光を忘れずにいる瞳は、もう既に僕から離れ、田中さんの姿を映し出していた。
夜行性の田中さんはとうの昔に目を覚ましていたようで、軽快な足取りで回し車をまわしていた。同じ方向に走り続けるのに飽きたのか、彼の小さな脳内で壮大なスペクタクルを展開されているのか、時折回し車から下りて方向転換をしている。
「今日はボンゴレにしようと思うんだ。平吹先生がお孫さんと一緒に潮干狩りに行ったんだって」
「いい香りね」
「え?」
「海と花の香りがする」
「うん、駅前の花屋で買ってきたんだ」
「……ああ、つきめいにちだ」
「つきめいにち?」
「圭介が死んでから、もう一ヶ月、経っちゃったんだね。嘘みたい、嘘なら良いのに」
ガラス玉のようにつるんとした瞳に射竦められ、口にしようとした言葉を見失った。彼女が口にした平仮名の言葉が、僕のなかで漢字と意味を獲得していく。今日が圭介の月命日だった。
時の流れの速さに眩暈を覚えながらも、すぐに平然を装って、小さな花束を華に手渡した。獣臭い部屋に、生きた香りが広がっていく。故人に手向けるのに、この花が適しているのか、僕には解からなかった。
開けっぱなしになっているカーテンをいつものように閉める。嘘なら良かった、と心のなかで小さく呟いた。まばたきをしたら、世界がすべて元通りになれば良いのに、と愚かな妄想に縋りたくなる。
「ねぇ、華。夕飯食べたら、一緒に踏み切りまでこの花を供えに行こうよ。僕、毎日あの踏み切りを電車から見てるんだけど、圭介への花束やジュースやお菓子がずっと尽きないんだ」
田中さんのケージをテーブルの上から窓際へと移動させ、僕は彼に今日の分の餌をやる。抱えた足をゆっくりと伸ばして、華は「愛されているのね」と笑った。覚束ない足取りで立ち上がった彼女は、いつものようにラグマットの上へとしゃがみこんだ。
リモコンを手に取って、僕はテレビの電源を入れる。芝居じみた笑い声の響くバラエティ番組が、部屋の静寂を奇妙に捻じ曲げた。テレビのなかでは、笑い声に囲まれながら、芸人が氷水のなかへとダイブしていた。子供にするような手付きで彼女の頭を撫ぜてからキッチンに向かった。スパゲティを茹でるべく水道の蛇口を捻って、からっぽの鍋を水で満たした。
ローテーブルで向き合いながら、僕等は「いただきます」をする。キャベツとベーコンのコンソメスープとボンゴレ、そして茹でただけのブロッコリーを順番に口へ入れ、僕はゆっくりと咀嚼した。田中さんが向日葵の種を割る乾いた音が、バラエティ番組の隙間をパリパリと埋めていた。
彼女がマヨネーズに手を伸ばすと、薄紅色のシャツの袖から真っ白な手首が見えた。圭介がつけた傷は、この一ヶ月で殆ど癒えた。爪が食い込んだ部分など痕になっている所もあるが、赤黒い血液が彼女の肌にこびり付いている光景を目にすることはもうなかった。
鮮やかな緑色のブロッコリーにマヨネーズをかけて、彼女は一口でそれを食べた。僕が帰ったら、すぐ嘔吐してしまうのに、彼女は僕の作った夕食をすべて胃におさめている。見てはいけないようなものを見てしまったような気持ちになり、僕はすぐに目を逸らした。ボンゴレの皿に視線を落とし、殻から飛び出たあさりの身に向かって、動揺を誤魔化すようにフォークを垂直に突き刺す。フォークと皿のぶつかる硬い音は、テレビから沸き起こった笑い声に掻き消された。