Ⅳ
生きることを放棄したいと願ったのだろうか。その日を境にして、華は食事を受けつけなくなった。食物を無理やり喉に流し込んでも、そのまますべて嘔吐していた。その現場を直接目にしたわけではないが、彼女の姿を見ていれば嫌でも解かることだった。あくまでも自分の頭のなかで描かれた妄想だと、僕は信じていたかった。
日ごと痩せ落ちる胴体の上に、小さな青白い顔をのせた彼女は、積み木で作ったお城のように、いつかバラバラに崩れ落ちてしまいそうだった。
華という集合体が、個々のパーツになってしまったら、僕は彼女を華と呼ぶことが出来るのだろうか。彼女の顔をしながら、僕が「華」だと認識するための仕草も声音も表情も発しない彼女を、果たして華だと呼べるのだろうか。
日ごと、狂気と諦念に侵食され続ける彼女が瓦解してしまわないよう、大学やバイトの隙間を縫いながら、一人暮しの彼女のアパートへ通い続けていた。
僕が彼女の傍に居続けようと思った理由は、自分だけが彼女を此方側に繋ぎ止めることが出来る唯一の人間だと解かっていたからだ。僕が彼女の手を離したら、彼女は落下して地面に強く叩きつけられてしまう。身心諸とも砕け散った彼女は、圭介と同じあちら側にいってしまう。
アパートの扉を開くと、彼女は棒きれのような両膝を抱えて、ソファの右端に座っていた。圭介とソファに座る時の定位置だった場所に、彼女は一人ぼっちで座り続けていた。
「『僕は、山田華を愛していた。それだけは疑い様の無い真実として、理解して頂きたい。』」
とうの昔に諳んじてしまった最期の言葉を、彼女はケータイの画面に表示していた。何度もその言葉の感触を確かめるように、唇を動かしていた。その言葉がどこかに零れ落ちてしまわないように、小さな身体を更に縮めながら、何度も何度も傷付いたCDのように、同じフレーズばかり繰り返していた。
一日中、華は自分のケータイを握り締めて離さなかった。彼女のメールボックスには圭介からきたメールしか残っていない。それ以外はすべて彼女の親指が消してしまった。僕がメールや電話をすると、内容を確認次第、彼女はケータイから僕の情報を履歴ごと消去していた。アドレス帳も圭介のもの以外何ひとつ残していない。
時折、初恋に胸を焦がす少女のように、彼女はディスプレイに向かって柔らかくはにかんだ。その微笑みが余りにも幸せに満ち溢れていて、僕はその度、表情に力を入れてやり切れなさを押し殺していた。
恋愛小説のような圭介の最期の言葉。その陳腐な言葉の羅列に、僕は怒りを通り越して、正直唖然としていた。彼が彼女にやったことを想えば、赦しを請う謝罪のひとつくらい、嘘でも吐くべきだったのだ。
幸せの基準が狂うほどに不幸の底へと叩き落された彼女を、圭介は自分の死によって永遠に出口を葬り去った。その考えが僕には理解出来なかった。友人だった彼等が、まるで遠い星の生命体のように感じられる。
圭介が華に暴力をふるっていたことに、僕は気付いていた。きっかけは半年前、彼女の細い首筋に生々しく残された爪痕を見つけてしまったことだ。露出の少ない服装を好む傾向が彼女にあったため、僕はそれまで気付くことすら出来なかった。気付かないままでいた方が、幸せだった。
秋の物哀しさが頬の熱を鎮める頃、彼女はお気に入りのストールを首に巻いていた。崩れたそれを巻き直すため、彼女が人目を憚るようにして外した瞬間、僕は自分の目を疑いそうになった。その爪の並びは、明らかに首を絞められた痕だった。
彼女につけられた暴力の痕は、血の滲む爪痕だけではなかった。指の形を炙り出すように、首筋が青黒く変色していた。テレビドラマでしか見たことのない光景に、僕は背筋が凍りつくのを感じた。普通の恋愛関係ではありえない、俄かに信じがたい痕跡が、僕に理由を尋ねることを躊躇させた。
本当は気付いていた。でも、一度も訊けなかった。圭介がそんなことをする奴じゃないと、僕は信じていた。彼の身体は程よく鍛えられていたが、それを女の子、しかも恋人に対して、暴力という形で用いる男ではないと思っていた。それは、僕の勘違いだと自分で自分に言い聞かせていた。華が浮かべる微笑みが、いつもと何も変わらない穏やかなものだったから、心配する素振りすら出来なかった。
圭介の手のひらが視界に入るたびに、彼の右の手のひらから、五本の指先から目が離せなかった。よく日に焼けた手のひらは、男らしくごつごつしているのに、指先はすらっと細長かった。
事件の一週間前のことだった。華が大学を休んだ日、学食でカツ丼を食べる圭介の指先にふと視線をやると、中途半端に延びた爪と指の肉の間にどす黒い何かが挟まっていた。それに気付いた瞬間、僕は全身の血液が音を立てて冷えていくのを感じた。
箸の先に摘んだから揚げが、滑り落ちて行く。ぼと、と鈍い音を立てて、プラスチックの白い皿の上にから揚げが落っこちる。白いドレッシングのかかった千切りキャベツが、それを上手に受け止めた。
僕の視線に気付いた圭介は、華の飼っていたハムスターが死んだから、近くの公園に埋めたんだ、と同情に満ち満ちた表情で言った。スコップくらい買えば良かった、と付け足しながら、圭介は丼の中身を箸の先で突付いていた。
肉片や血液ではなく、それが単なる泥だったことに妙な苛立ちを覚えた。そっか、と曖昧な相槌を打つ。自分の歯形が残る歪な形のから揚げに向かって、握った箸を垂直に突き刺した。ぞわっと足元から冷たい影が沸き上がり、僕の気持ちを黒く覆った。
――皿の上に落ちて良かったな。
――え……。
――そのから揚げ。
――あ……あぁ、本当、だね。
――お前も華も、相変わらずボーっとしてるよな。
丼を持ち直した圭介が、底にこびり付いた米粒を口のなかへ勢い良くかっ込む。程よく出っ張った喉仏が、彼の嚥下に合わせて不気味に蠢いていた。
そっか、山田さん、死んじゃったんだ、とひとりごちるように、僕は言った。その言葉はすぐに人で溢れ返った学食の喧騒に流された。
彼は動物を愛し、動物に愛される男だった。それでも、おそらく、山田さんという名のゴールデンハムスターを殺したのは、彼だ。小動物一匹を殺すのに、彼はあり余るほどの力を持っていた。
その時の僕は、彼や華にハムスターの死因を訊くことが出来なかった。ハムスターに向かって彼の拳が振り下ろされたのか、短い毛で覆われた皮膚に彼の爪が捻じ込まれたのか、それとも彼の腕が小さな体躯を壁や床に力いっぱい投げ付けたのか、僕には解からなかった。
ただ何となく、ハムスターを殺したのは圭介の右手だと確信していた。道具を用いず、圭介は彼の手のひらが起こした動きによって、ハムスターの命を捻じ切った。
二人とも、ハムスターの死因を僕が尋ねた際にどう答えるか、もしかしたら事前に話し合っていたのかもしれない。そんな仄暗い共謀があるのだとすれば、僕はそれに気付かないまま生きていたかった。お互いに「いいひと」であり続けたいと願っていた。
こんな結末に行き付くことを、あの時の僕等は想像も出来なかっただろう。圭介が自殺するなんて、誰が予測出来たというのだろう。
何も変わらない日々のはずだった。圭介が僕等の傍からいなくなっただけだった。ただ、それだけの違いが、僕等二人には抱えきれないほど大き過ぎた。三人の間に築かれた関係は、一人欠けただけで呆気なく崩れ落ちた。僕はそれを信じたくなかった。
「華、ご飯できたよ」
「うん、ありがとう」
彼女のアパートのキッチンで、僕はカツ丼を作った。その日も僕は、いつもの時間に自宅を出て学校に行き、一日分の授業を消化した。それから、駅前のスーパーで夕食の材料を買い、電車に乗って彼女のアパートに向かった。僕の作った夕飯を共に食べ、出来るだけ空っぽな中身のテレビ番組を見ながら他愛もない話をして、終電の一時間前に帰宅する生活。土日も含め、僕は毎日それを続けていた。今日で半月を過ぎたことになる。
貰った合鍵で彼女の部屋に入ると、薄暗い室内に、彼女がいつもと同じ姿勢でソファの上に丸くなっていた。窓が宵闇迫る街を映し出す。それを僕は、ブルーグレイのカーテンで遮った。朝はカーテンを開けているようだが、夜に閉まっていたことは一度もなかった。
静寂がするすると僕の首に手をかける。物音ひとつ立てるのにも躊躇してしまうほどだった。電気をつけながら、呼吸が絞め殺されそうになるのを感じていた。
音もなく彼女は立ち上がって、ぎゅっと口元を引き結びながら床に敷かれたラグマットの上に座り直した。まるで、ソファの上にある圭介の定位置へ、僕が座らぬように威嚇しているみたいだった。
湯気の溢れるカツ丼を、僕は白いローテーブルの上に置いた。沈黙に耐えかねた僕は、テレビのリモコンを手にとって、電源の赤いボタンを押す。すぐにテレビから、明るい光と大袈裟な笑い声がどっと溢れてきた。陽気なクイズ番組が、停滞する静寂を勢い良く押し流してくれる。別に番組を見ている訳ではないが、テレビの方に視線を向けながら食事を進めることで救われた気になった。この部屋は生きた音がなさ過ぎた。
いただきます、とラグマットの上に正座した僕等は、声を揃えながら手を合わせる。何度目になるか解からない人工的な笑いがテレビからどっと上がった。型で抜いたような新人タレントが、芝居じみた甘ったるい声音で、突拍子もない答えを意気揚々と口にしていた。それを嗜めるように、学歴を振りかざす俳優が得意げな表情で正答を言うと、テレビ画面に調和が生まれるよう、大袈裟に感心するタレントの面々が映し出されていく。
あのなかにいる人々が、今僕等の部屋にやってきたら、何と言ってくれるのだろうか。はたしてそれは、この静寂を破る手立てになるのだろうか。この沈黙を払拭する方法を彼等は知っているのだろうか。愚にもつかない妄想ばかりが、頭を過ぎっていった。
ローテーブル越しに箸を進める彼女の姿を、僕は伺うようにして見ていた。学校に行くため、毎朝彼女は身支度をしている。洗顔料で顔を洗い、化粧水と乳液を塗った上に薄く化粧を施し、髪の毛も綺麗にセットして、毎日異なるバリエーションの服を着る。そして、そのままソファの右端でぼんやりと虚空を見つめているうちに、くるくると回る一日に置いていかれてしまう。まるで登校拒否になった子どものようだった。
「圭介の箸の持ち方、綺麗だったね」
もくもくと小リスのように口を動かしながら、華はテレビの方を向いて言った。次から次へと変わっていくテレビのなかに、箸の話題はひとつもなかった。一瞬、言葉を見失ってしまった僕は、ワンテンポ遅れて返事をする。
「……あぁ、どうやったら箸をクロスさせたままで物が掴めるんだ、って僕等に言っていたよね」
圭介は僕と華の箸の持ち方をいつだって正そうとしていたが、僕等はそれを覚えようとしなかった。掴めれば良い、と憎まれ口ばかり叩いていた。実際、食事に支障をきたしたことは一度もなかった。
「私たちだけだったら、一生直すことが出来ないのに」
卵でとじられたカツをクロスした箸で器用に挟みながら、華は笑って言った。その笑顔が余りに痛々しくて、絶え切れず、僕は視線を横へとそらした。乾き切った彼女の薄い唇は、油でテラテラと光っていた。
食事も終盤に差しかかってきた頃、何気なく部屋の隅へ視線をやると、窓際に四角いケージが置いてあった。すっきりとした白い金網のなかには、真新しい松の香りがするおが屑が敷き詰めてあり、水も餌も置いてあった。じっとそのなかを見ていたら、『田中さん』と油性マジックで黒々と書いてある小さな木の小屋から、一匹のゴールデンハムスターがもそもそと長い髭で辺りを探りながら出てきた。
「ハムスター……」
丼の底に残っていた米粒を箸で丁寧に摘みながら、僕は白と茶のまだら模様をしたあたたかそうな毛玉を見つめた。ハムスターが移動するたびに、柔らかな産毛の生えた桃色のささやかな尻尾がぴっぴっと左右に揺れる。まろみを帯びたお尻ごと、全身を大きく揺らして歩行する。
毛玉のようなハムスターは、狭いケージを忙しなくぐるぐると回り続けていた。こんなにも平和が約束された世界にいるのに、ハムスターは何に追われているのか解からないまま、完結された白いケージの世界を逃げ回っているように見えた。
「お隣さんが、引っ越しちゃうからって、もらったの」
にっこり、と音がしてしまいそうな笑みを表情に貼りつけながら華は言った。その笑顔を見ていると、彼女がパソコンのマウスで表情を操作しているのではないだろうかと思えてしまう。
中指で右クリックをして、コピーを選択。後、該当箇所で再び右クリックをして、貼付けを選択。そうやって寸分違わず、彼女は笑顔をコピー&ペーストし続けている。
「『田中さん』なんだね、名前」
「ふふふ、偶然って怖いわね」
コップに入った冷たい水を、彼女はこくこくと喉をならして飲んだ。偶然を生み出した彼女の笑顔が、僕には一番怖いと思えた。真新しい油性マジックの薬品臭さが鼻をついたような気がした。
今は穏やかに笑っているが、このアパートを僕が出て行った瞬間、彼女はトイレに掛け込んで便器だけを支えに蹲りながら、今食べたものをすべて嘔吐してしまうのだろう。突き上げられるような吐き気に呼吸を奪われながら、胃袋が引っくり返るほどに吐き続け、最後には透明な胃液に口のなかを苦く汚されるのだろう。
田中さんが爬虫類のような冷たい桃色の足で、金網に取り付けられた回し車をまわし始める。からからからから、と断続的に響き渡る回し車の音と、時折混じるテレビの大仰な笑い声に囲まれながら、僕等は再び向き合って手を合わせる。空っぽになった丼に「ごちそうさま」と言った。