Ⅲ
彼が一人消えたくらいで、世界は動きを止めてくれない。考えなくても解かることだ。
それでも、僕は自分のなかの時間を基準にして世界を捉えてしまう。僕が世界のなかにいるのか、世界が僕のなかにあるのか。答えの出ないことばかり考えてばかりいたら、圭介の自殺した日がいつになっても終わってくれなかった。
その日以来、華は大学に来なくなった。圭介の葬式も、彼女はその場に向かうことすら出来なかった。
待ち合わせ場所にした喫茶店に、彼女は来なかった。正確に言えば、彼女は自分のアパートから外に出ることが出来なかった。その喫茶店は彼女がいつも使う駅の目の前にあったというのに。
父親に借りた葬式用のスーツを着た僕は、予定時間の十分前に喫茶店のドアを開けた。そこに置いてあるすべての新聞に目を通した後、すっかり冷めたコーヒーを飲み干して、まだ来ない彼女のケータイに電話をした。
しかし、何度かけなおしても留守番電話サービスに繋がるばかりで、彼女は電話に出てくれなかった。最悪の光景が脳内にまざまざと映し出され、僕は全身が冷えていくのを感じた。気が付くと、僕は彼女のアパートへ向かって走り出していた。四月の空は憎たらしいほどに晴れ上がっていた。
彼女のアパートに辿り着いた僕は、呼吸を整える暇なく、彼女の名を呼びながら扉を叩いた。反応は何一つ返ってこなかった。行き違いになったかもしれない、と根拠のない希望に縋りつきながら、祈るようにドアノブを回すと、何の滞りもなく開けることが出来た。彼女は本当に死んでいるのかもしれない、と冷や水を被せられた気持ちになる。冷静な頭が彼女の亡骸を脳内に投影していた。
おじゃまします、と抑えた声で言いながら扉を開けた。仄暗い狭い廊下の先から、淡い光の筋が差し込んでいる。部屋と廊下を隔てるすりガラスの引き戸が、中途半端に開けられていた。ワンルームの部屋のなか、喪服のワンピースを着て透明な数珠を手にした彼女は、二人掛けの赤いソファの上に両膝を抱えて座っていた。ほっと胸を撫ぜ下ろした僕は、スニーカーを脱いで塵ひとつない廊下を進んだ。
ソファの前に置かれた白いローテーブルの上には、からっぽになったハムスターのケージが乗せられていた。感情を一切匂わせない虚ろな瞳で、彼女はそれをじっと見つめていた。目元や鼻の下は哀しみで赤く染まっていた。部屋の隅に置かれたゴミ箱は、丸められたティッシュでいっぱいだった。開け放たれた窓から風が吹き込んで、人形のような彼女の頬を撫ぜていった。
沈黙に喉を締め上げられるのを感じながら、僕は部屋の入口に立ち続けた。ソファの右端に座る華と立ち尽くす僕との間に、ぽっかりと空間が奇妙にあいていた。このソファの左側には、いつも圭介が座っていて、彼女のアパートに行くと必ず彼が笑って出迎えてくれていた。
沈黙の針に全身を串刺しにされても、ただひたすら僕は口を噤んでいた。翳り行く部屋のなかで、電気をつけることもせず、僕等は二人きりで圭介の死を悼んでいた。そこに彼の遺体はなかったというのに、僕等は二人で主役のいない葬式をした。