表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
篭のなか  作者: uta
3/10




 厳めしい煉瓦造りの正門を抜け、僕等は横断歩道をひとつ渡って駅に向かった。


 各駅停車しか停まらない駅であるが、学生の帰宅ラッシュも相俟って、駅前は蠢くような人波で溢れかえっていた。いつもは閑散としているタクシー乗り場も、スーツを着たサラリーマンや買い物帰りの中年女性が列を成している。


 事故現場になった踏み切りの横を通り過ぎる。暇を持て余す野次馬に囲まれたその場所から、死を悼む気配は微塵も感じられない。視線の先にいるのが、家族や恋人や友人ではなくて良かったと虚しいことを想っているのだろうか。電車に飛び込んで自殺した赤の他人という存在が、束の間の非日常を感じさせてくれるアーティストのように思えた。


 神妙な面持ちで僕は想う。ここが圭介の死に場所だったのか、と。


 そして、もう一度頭のなかで電車にはねられる『タナカ』の死を思い描くと、今度は圭介の顔が浮かび上がった。愚かな妄想だと、頭から掻き消そうとしても、次から次へとフィルムのように映写されていく圭介の死を前に、僕は打ちひしがれて立ち尽くすことしか出来なかった。


 たとえ、それが信憑性のない愚かな噂であったとしても、恋人が電車に跳ね飛ばされて死んだと聞いたら、誰だって多少なりとはうろたえるだろう。それなのに、華は動揺の影すら見せなかった。まるで、圭介を存在ごと忘れてしまったような態度だった。


 届かない視線を事件現場の方に向けて、僕は足を止めた。僕に背を向けて歩いていた華も立ち止まる。前を向いたまま、彼女はいつもの調子で「大変だねぇ」と他人事のように口にした。その言葉は、夕焼け空へと飽和するようにとけていった。


 大学で聞いた圭介が自殺したという噂は、混乱が招いた誤解だったのだ。余りに変化しない華の様子を見て、僕は自分を落ちつかせる。何も変わらない彼女の様子が、今度はとても頼もしく思えた。その背中に縋りついてしまいたかった。騙されていることに気付かないのが一番の幸せだと、僕は知っていた。


 もしかしたら、さっき読み上げた圭介からのメールも事件後に届いたものなのかもしれない。僕等三人の所属する平吹ゼミの不思議ちゃんと名高い彼女のブラックジョークかもしれない。それに、圭介があんな真面目ぶった愛の言葉を囁くはずがない。


 以前、圭介と二人で飲んだ時、ケータイ小説が原作の恋愛映画がテレビで放映していた。冷やかしのつもりで見ていたが、五分も持たずに僕等はリタイアして、すぐバラエティ番組にチャンネルを切り替えた。華がそういう話を好きなのかは解からないが、少なくとも圭介は砂を吐きそうな言葉をメールでも発しないはずだ。


 そうやって、無理にでもポジティブな思考をするように考えを持っていかなければ頭がおかしくなりそうだった。憶測でも、妄想でも、それに縋らなければ立っていられなかった。崩れ落ちたら、二度と立ち上がれなくなりそうだった。


 軽く肩を竦めて、華と視線を交わしながら、線路沿いの道を歩いて圭介のアパートに行くことを提案した。そうね、と彼女は笑って頷いた。


 線路に沿って延びる細道を、僕等は並んで歩いた。緩やかな下り坂を歩きながら、ビルに覆われた茜空を見上げると、電車の走っていない線路が丘のように見えた。線路と道の間に広がる土手には、草が伸び放題になっていた。


 蒸せ返るような緑の匂いが息を苦しくさせる。草むらに埋もれそうになりながら、タンポポの花が競い合うように咲いている。ひょろりとした背の高い茎の上に、柔らかな黄色の花弁をいっぱいつめこんで、春風に揺られていた。


 明日も晴れなんだよ、とあくまでも日常を転がし続ける華の背中が、僕の瞳には酷くちっぽけな姿として映った。その背に縋りついている自分の存在が、もっとちっぽけなものであることを、その時の僕は気付こうとしなかった。




 一時間近く、僕等は言葉を空費しながら歩き続けた。道すがらに購入したコーヒー専門店の紙袋と洋菓子店のビニル袋が、やけに重く感じられた。


 街が宵闇に包まれ始める頃、やっと圭介のアパートに辿り着いた。平成の一歩手前に建てられたアパートの一階に、彼の部屋はある。


 華が呼び鈴を鳴らすと、薄いドアを隔てて、ブザー音が漏れ聞こえてきた。何度かそれを繰り返したが反応はなく、首を捻って途方に暮れる彼女の背を見つめながらケータイで彼に電話をかけた。数回のコール音の後には、電話会社のアナウンスが聞こえるだけだった。


 僕のケータイから漏れ出た特徴的な女性の声に、華は小さく肩を跳ねさせる。一度もこちらを振り返らず、彼女は震えを隠すように指先が白くなるほど強く拳を作って、扉をおそるおそるノックする。しかし、閉ざされた扉は何もこたえてくれなかった。


 現実の重さが彼女の背に圧し掛かってくる。息を飲む音と細かに震える肩が、それに絶え切れず押し潰されてしまった彼女の存在を教えてくれる。


 右手首の外れかけた包帯の隙間から、皮膚を突き破る赤黒い爪痕が見える。いつか誰かの腕で見たリストカットの痕のように、それは絶望と救済に満ち溢れていた。一体華は何に絶望してどんな救済が欲しかったのだろう。圭介のケータイが繋がらない理由を、電話会社のアナウンスは教えてくれなかった。


 その傷をつけたのが、圭介であることを、僕は知っていた。でも、そんなことをするような友人を、僕は知らなかった。だから、一度も彼等にこの傷のことを訊いたことはなかった。臆病な僕は、おぞましい真実を知りたくなかった。気付いていたから、答えが解かり切っていたから、僕は知りたくなかった。


 アナウンスが機械的に読み上げる文言から耳を離し、僕は電源ボタンを押して通話を断ち切った。押し殺したはずの予感が、じわりと熱を再び持ち始める。


「圭介、いないの? ねぇ、いるでしょ? 華だよ」


 喉を絞めつけられたように裏返る彼女の声が耳を突く。不安に揺らぐ小さな背中を見つめながら、僕が木偶のように立ち尽くしていると、突然手のなかにあるケータイが震えた。


 脳が反射的にそれを圭介からだと知らせる。安堵を滲ませた表情で、僕は画面を見た。しかし、そこには十桁の知らない番号の羅列が表示されているだけだった。落胆の溜め息を吐き出しながら通話ボタンを押して、再びレシーバーを耳につける。


『中山君、突然電話してごめんなさい。圭介の母親です』


 ケータイを通して聞こえてきたのは、ピアノ線のように硬く張り詰めた口調だった。その声が圭介の母親のものであることを思い出す。嫌な予感が、じわじわと確信へ変わっていく。汗の滲む手のひらでケータイを握り直しながら、僕は取り繕ったような明るい声音を口にした。


「あ、お久しぶりです。いきなりどうしたんですか?」


 何でもないような口調を装いながら、口内に溜まった唾液を飲み下す。溢れ出す唾液とは反対に、口の中はひりつくほどに乾き切っていた。


「あのね、圭介が教えてくれたフルールの新作パイ買ってきたよ。ねぇ、圭介? いるんでしょ?」


 僕の声を掻き消すように、華は扉に向かって言葉をぶつける。呼び鈴を鳴らし、扉を叩き、何度も何度も自分のケータイで圭介の番号にリダイアルしている。普段殆ど動かさない口を、息継ぎも忘れてしまうくらいひたすらに、切迫した形相で動かしていた。


 先程の能面のような表情が嘘のように、彼女は人間味溢れた表情を浮かべていた。それを見て、心のどこかで小さく胸を撫で下ろした自分がいた。


『今、どこにいるの? 大学? お家? 圭介は、横にいるの?』


 電話を通して矢継ぎ早に発せられる鬼気迫った声音から、僕は世界がぐらりと歪む音を聞いた。




 おそらく、警察か病院から、圭介の実家に連絡が行ったのだ。お宅のお子さんが快速急行に飛び込んで自殺しました、と。


 しかし、それはあくまでも僕の妄想に過ぎないことだった。バカバカしい、こんな憶測、外れてしまえば良いと思った。こんな愚かな妄想が現実に成り立つ訳ないと、僕は信じていたかった。


「いえ、僕等も圭介を探していて。大学の友達と二人で、圭介のアパートの前にいるんですが」


『そうなの。ああ、あのね、おかしい話で恥ずかしいんだけど――もう、笑っちゃうわね。さっき、警察から電話があって。圭介の免許証と学生証を持った男が踏み切りを潜って自殺したんですって、怖いわねぇ、あの子酔っ払って財布でも落っことしたのかしら。圭介のことだから、そんなことも知らないで、アパートの中でまだ寝てるわよね』


 靴の裏にあるはずのコンクリートが、突然ポッと消えてしまったかのように思えた。やっぱり、と僕は確信した。底無しの虚無へと、足先からずぶずぶと沈み込んでいく。やっぱり、圭介は自殺したのだ。


「けーすけ、ねぇ、けーすけ。コーヒー切らして、起き上がれないの? ねぇ、ワンルームのアパートなんだから、頑張って。頑張って、這ってでも玄関の鍵、開けて」


『大学に入ってから、誕生日は恋人とか友達と過ごすからって、当日空けてくれなくなってね。あの子のお姉ちゃんも今年から社会人になったし、平日のお誕生日会は無理ねって、ウチの人と話をしていたの』


「けーすけけーすけ、明日は実家に帰って誕生日会するって、言ってたよね。昨日は楽しかったねぇ。もしかして、あの後、誰かと飲みに出かけちゃった? そうだよね、圭介、オトモダチいっぱいいるもんね。それとも、もしかしたら、もう実家に帰っちゃったの? ねぇねぇ、けいすけ、しんだなんてうそでしょ」


『お誕生日は何が欲しいって訊いたら、あの子ったら「現金」とか言うのよ。もう夢がないんだから、嫌になっちゃうわね。プレゼントはあげる方も楽しみあるんだから。ほら、中山君もあるでしょ? 何ちゃらロボが欲しいとか、サッカーボールが欲しいとか言ってた時期。ほんと、そんなの嘘みたいね』


 左耳から華の声。右耳から圭介の母親の声が聞こえてくる。田中圭介という一人の男を巡る話題で盛り上がる二人に挟まれながら、右から左へ、左から右へ、言葉が虚しく抜け落ちていくのを感じていた。


 それはまるで、主役のいない誕生日会に招かれてしまったような感じだ。妙に陽気な彼女たちが発する『圭介』という名の人物を取り巻く話題は尽きることなく、湯水のように世界に向けて注がれていた。もしかして、本当に圭介がいなくなっていたとしても、彼女たちは今と同じように彼の名を唇に乗せているのかもしれない。


『ああ、ごめんね中山君。頼んだタクシーが来たみたいだから、電話切るわね。違うって言ったのに、警察に呼ばれちゃって。突然ごめんなさいね、いきなり圭介が自殺したなんて電話かかってきちゃって、気が動転しちゃってたの。お父さんもお姉ちゃんも仕事で繋がらなくって。また、家に遊びにいらっしゃいね。圭介も交えて、警察の勘違いを一緒に笑いましょう。はりきってお夕飯作るから、前みたいに泊まっていくといいわ』


「あ、はい。……どうも、失礼します」


 電話の向こうにいる相手に対して、軽く頭を下げながら、僕はケータイの電源ボタンを押した。




「そっか、圭介、死んだんだ」


 溜め息混じりに一人ごちる。彼が死ぬ瞬間を見た訳でも、彼の亡骸を見た訳でもなかったが、電話越しに届けられた彼の母親の言葉や、目の前でドアを叩き続ける華の背中を見ていたら、そう想えてしまった。


 誰かに笑って欲しかった。僕の馬鹿げた勘違いを、誰か大声で笑い飛ばしてくれないのだろうか。


「華」


「けいすけ、出てよ。出てきてよ。何で出てきてくれないの? なんでなんでなんでなんでなんで!」


「華、圭介は、踏み切りのなかで電車に跳ねられたんだ」


「けいすけ、ほら、中山君がけいすけが死んだって、冗談言ってるよ。大変だよ、けいすけ。けいすけ死んだことになっちゃうよ。ねぇ、早くここ開けてよ。いつもみたいに『中山、ジョークが相変わらずヘタクソだな』って、笑ってよ。中山君もこんな時にどうしてふざけるの?」


「さっき、通り過ぎた人身事故の現場。そこで圭介は、死んだんだ。圭介の母親が、警察から連絡をもらっている」


 残酷な真実を噛み締めながら、壊れそうに震えている華の背に言い含める。同時に、僕は自分自身に彼の死を言い聞かせていた。乾いた砂のように、自分の存在がぼろぼろと崩れて行くのが解かった。痛いほどに痺れた指先の間を、自分の破片がすり抜ける。それを僕は視線で追いかけることしか出来なかった。


 彼と最期に言葉を交わした時、彼は笑っていたのだろうか、怒っていただろうか。何を話して、僕はどんな表情を浮かべていたのだろう。ただ、そのことばかりを考えていた。


 彼の顔でさえ、もう思い出せない自分を、僕は力なく嘲笑った。


 扉を叩き続ける華を後ろから羽交い締めにして、扉から身体を離させる。彼女の身体は流木のように空虚な軽さをもっており、思わず僕は腕の力を緩ませた。このまま、音を立てて彼女という存在が粉々に砕け散ってしまいそうだった。


「何度も言わせないでくれ。あそこで死んだのは、圭介なんだ。警察か病院か解からない。圭介の死体は、そこにあるんだ」


 その瞬間、彼女の身体から力が抜け落ちるのが解かった。真実を受け入れることに抗おうとする意思が身体を通して伝わってくるのに、彼女は指先ひとつ動かさないまま、僕の薄い胸に包まれていた。


「圭介は、死んだんだ」


 平坦な口調で、華の耳元に真実を流し入れた。息を飲むのと同時に、彼女は事実を飲み込んだのだろうか。小さく跳ねた肩は、痛ましいほどに震えていた。




評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ