表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
篭のなか  作者: uta
10/10




 顔色の悪さを知り合いから指摘される度に、五月病かな、と曖昧に笑い返していた。そうやって笑えば笑うほど、音もなく感情がひっそりと息を引き取っていく。五月も、もう最後の一周に差しかかっていた。


 大教室での授業を終えて席を立つと、ぐらりと視界が歪むのを感じた。人々の話し声が、原型を掻き消すほどに膨張して、耳のなかへと押し入ってくる。酔いがさめていく時のように、頭のてっぺんから足の裏に向かって、すぅっと静かに体温が奪われていく。


 気付いた頃には、リノリウムの床に頬を冷やされていた。うつ伏せに倒れた僕の周りを、人々が騒然と取り囲む。天井から雨のように、好奇と同情混じりの視線が降り注いでくる。彼等の発する言葉が、意味を成さない下手くそなハミングとなって、僕の鼓膜を悪戯に震わした。


 外から聞こえてくる音は融解していくのに、内からの音は鋭い輪郭線を得て、存在を激しく主張してくる。心臓がこめかみに移動したのではないかと思うほど、鼓動の音が耳元近く感じられる。狭くなる視界のなかで、僕は死を想った。最後に感じたのは、自分の身体を通して伝わる誰かの靴音だった。


 名前も知らない誰かが、倒れた僕を医務室まで運んでくれたそうだ。この大学にそういう部屋があることを初めて知った。一時間ほどで目覚めた僕は、昼前ではあるが大学を早退することにした。







 死ぬこと、眠ること、意識を失うこと。この三つの違いは一体何なんだろう。そう考えながら、大学を出た僕は駅まで行き、電車に乗った。平日昼間の車内は、驚くほどに空いていた。僕は扉の前に立ち、窓の外をぼんやりと眺めていた。たたんたたんという規則的な音と共に、景色が左から右へと流れていく。喧しく話に興じる中年女性の笑い声が、からっぽの車内に響いていた。


 カンカンカンカン、踏み切りの警報音が、通り過ぎる電車を威嚇するように硬く鳴り響く。圭介が自殺した踏み切りは、相変わらず瑞々しい花で溢れていた。力のない笑みを浮かべて、僕はそれを見つめる。警報音のドップラー効果と共に、圭介をひき殺した跡を僕はなぞって行った。うおっふぉん、と杖を持って座る一人の老人が、わざとらしい咳払いをした。


 鞄を掛け直して、僕は二つ目の駅で電車を下りた。今日の夕飯は何にしようか、と高い位置にある太陽を見ながら考えていると、自分が今空手であることに気がついた。少なくとも、電車に乗った時点では、まっすぐ自宅へ帰ろうと思っていた。ここは、華と圭介のアパートの最寄駅だ。


 改札を抜けた僕は、遠回りをしてスーパーに向かった。何やっているんだ、と自分で自分を嘲笑う。それでも、僕の足は澱みなくスーパーの自動ドアを潜りぬけ、積み上げられた買い物カゴを僕の手が掴んだ。いい加減にしろ、と叱咤する自分の声を振り切って、僕はキャベツとうどんをカゴへと投げ入れる。豚肉ともやしは彼女の冷蔵庫に残っているはずだ。今日は焼きうどんにしようと思った。


 鍵を開けて、「ただいま」と言いながら、華のアパートに足を踏み入れた。閉め切った部屋独特の篭った熱気が充満している。すりガラスの引き戸はきっちりと閉まっており、部屋の様子は解からなかった。耳が痛くなるほどの静けさを不審に思いながら、流し台の横にある冷蔵庫へ買ってきたものを入れる。愚直なまでに、いつもと同じ手順を繰り返す。閉ざされた引き戸を、僕は決して開こうとしなかった。


 流し台で手を洗い、僕は足元に置いた鞄を再び手にする。僅かに躊躇しながら、そろそろと引き戸を開けた。何もないからっぽの空間が、そこには広がっていた。白いローテーブルの上には、田中さんのケージが鎮座している。夜行性の彼はまだ眠りの世界にいるようだった。赤いソファの右端に、華はいなかった。


 くるりと踵を返した僕は、冷蔵庫を開け、缶ジュースを一本取り出した。誰もいない部屋に戻り、赤いソファの前で足を止める。手のひらなかのアルミ缶に、じわじわと霧のように細かい水滴が付着していく。


 換気しなければ、と頭の片隅で思いながら、それをせずにソファの右端へと腰を下ろす。ゆっくりと沈むように、ソファが僕の身体を受けとめてくれる。閉め切った窓を見つめていると、深い溜め息が自然と零れ落ちた。カーテンの開け放たれた窓から、柔らかな日の光が降り注いでいた。


 ぷしっと缶のプルタブを開けて、溜め息と共に大きく飲み下す。人工的なぶどうの香りのなかから、ふつふつと気泡が沸き上がってきて、舌と鼻が痺れるのを感じた。思わず身体を折り曲げて、溺れた人のように咳き込む。涙の滲む瞳で缶を見ると、それが炭酸飲料だと気付かされた。薄く笑みを浮かべながら、缶の表面を見つめ、それをローテーブルの上に置いた。たぷん、と深い水音が缶のなかから聞こえてきた。


 落ちつきを取り戻した呼吸で深呼吸をひとつする。ふっ、と僕の左側から笑うような声が聞こえてきた。その場の空気がふわふわと揺れているようだった。


「今、笑っただろ、圭介」


 ぽつりと呟いた一言に、僕は背筋が凍りつくのを感じた。隣に彼がいた時のように、僕は自然な口調で澱みなく問い掛けた。幽霊なんてものを、僕は信じていない。しかし、今この瞬間、圭介は僕の隣にいた。


「久しぶり、かな」


 おそらく、それは僕の作り出した妄想に過ぎないものなのだろうが、言葉を口にした時点では、確かに圭介の存在を信じていた。会えて良かったと思ってしまった。深いところから染み出る安堵を感じて、僕は大声で泣きたくなるのを必死に堪えた。


「華がハムスターを飼い始めたんだ。名前何だと思う? 『田中さん』だってさ」


 華がそうしていたように、ソファの上で両膝を抱えながら座った。膝に顔をうずめて小さく丸まっていると、部屋の空気にすっぽりと包まれたようなあたたかい気持ちになった。炭酸飲料の甘ったるい香りと田中さんの獣臭さが混ざり合い、奇妙な臭いがねっとりと鼻に絡まる。そんな些細なこと、まったく気にならなかった。


「フルールの新作焼き菓子、夏みかんのパイだったよ。圭介、きっと好きだと思う。僕等二人で食べちゃったけど」


 嬉しかった。彼に会えて、本当に嬉しかった。気が触れてしまったんじゃないか、と嘲笑う自分を振り切って、僕は彼にたくさんのことを語りかけた。この部屋を満たす空気が、緩やかに動いているような気がして、僕は動く口を止めることが出来なかった。本当に気が触れてしまっても構わないと、その時の僕は思っていた。


「なぁ、圭介。死ぬこと、眠ること、意識を失うこと。この三つの違いは一体何なんだと思う?」


「――ただいま、中山君」


 ずるりと音をたてて、意識が現実に引き戻される。冷や水を浴びせられたかのように、身体が竦むのを感じる。


「いつもと反対だね。暑くなってくると、やっぱり切花はすぐに腐っちゃう」


 顔を上げて、ゆっくりと首を左側に向ける。いつもと変わらない笑顔、いつもと変わらない口調で、華が部屋の入口に立っていた。昨日と違う服を着て、顔にはうっすら化粧を施して。


 腐臭のする植物が入ったビニル袋を狭い廊下に置いて、彼女はソファの左端に座る。今まで決して座ることのなかった圭介の指定席に、彼女は何の躊躇いもなく腰を下ろして、飲みかけの缶ジュースを一息に飲み干した。彼女が帰って来たことすら、僕は気付いていなかった。


「温い炭酸って、やっぱり不味いね」


 目の前にいる華が、空き缶をテーブルに戻しながら、張り詰めた静寂をほどくように、ぽつりと呟く。虚空を見つめて嬉しそうにひとりごとを紡ぐ僕を、彼女の瞳はどう捉えたのだろう。抱えていた両足を伸ばして、僕はソファに座り直した。少なくとも、僕の状態はまともじゃなかった。心許なさに死にたくなった。



 俯く僕の顔を、華が覗き込んできた。彼女の瞳に映った自分と目が合い、僕は思わず息を飲んだ。彼女の言う通り、その瞳に映っていたのは、毎日鏡を通して見る自分の表情ではなかった。二ヶ月前、自ら命を絶った友人そのものであった。


 精悍な顔つきで筋肉質な圭介と、優男で中性的な顔立ちの僕は、浪人した予備校で出会って以来、よく二人で行動していた。それが周りに不思議がられていることを、僕は知っていた。性格も顔立ちも正反対な彼と僕が一緒にいること自体が、周りの人にとっては驚きを感じることのようだった。


 あれから、三年近く彼と一緒にいた。だから、お互いが似てきてしまうのは、当然といえば当然なのかもしれない。それでも、華の瞳に映っている男は、見紛うことなく、圭介の顔を持つ男だった。生気に満ちた光を失い、自殺する直前の憔悴し切った表情だった。


「今のあなたの表情、あの時の圭介にそっくりだよ」


 彼女の言葉が僕のなかで意味を成してしまう前のことだった。気が付くと、握り締めた拳が華の頬を抉っていた。勢い良くソファから立ち上がった僕は、座ったままの彼女目掛け、振り下ろすように拳を繰り出した。


 手のひらを通して彼女の感触が、生々しく伝わってくる。初めて人を殴った。彼女の頬の感触は想像していたよりも柔らかく、このまま壊れてしまうのではないかと思った。


 彼女の身体が、ふわりと宙に浮かぶ。その刹那、彼女と目があった。彼女は楽しそうに笑っていた。それはまるで、欲しかった人形をやっと買ってもらえた少女のような、鮮やかで清らかな笑みだった。


 彼女の身体がソファに打ちつけられた瞬間、僕は彼女の言葉の意味を理解する。僕のなかで、何かが爆ぜる音がした。


 殴打の衝撃が、骨を震わすようにして、体内に響き渡る。水面に描かれる波紋のように、緊張が幾重にも広がって、部屋中を支配していた。荒い息のまま、僕は部屋のテレビをつけ忘れたことを思い出す。この部屋は、生きた音がなさ過ぎた。圭介の気配も、どこかに消え去ってしまっていた。


 僕は怖くなった。何に対して怖くなったのか、解からない。もしかしたら、華なのか、死んだ圭介なのか。いや、違う。僕は自分が何に怯えているのかを知っている。僕は僕という存在に怯えている。自分自身が信じられなくなった。僕は僕から逃げ出したいと発狂しそうになる。


 真っ白な紙がライターの火に炙られるように、じわりじわりと自分が熱に犯されていくのが解かる。その先は、使い物にならないような薄っぺらな灰になるだけだというのに、僕はその火を消すことが出来なかった。僕は、僕自身を護るために、彼女を壊したくなった。


 ソファに身体を横たえた彼女の胸倉を掴んで、乱暴に床へと引きずり下ろす。めくれ上がったラグマットの隙間を狙うように、僕は彼女の後頭部を床に直接打ちつける。仰向けになって転がる彼女に馬乗りになり、僕は両手を彼女の首筋に絡ませる。錆びついた声音で、坦々と僕は尋ねた。


「何、笑ってるんだよ」


 ヒュッと動揺した彼女が怯むように息を飲む。その青ざめた表情が嬉しかった。彼女の顔にへばり付いて取れずにいた歪み切った笑顔。それを拭い去ることが出来た達成感に、僕の内から歓喜が溢れ出し、速くなる血流と共に身体の隅々まで届けられる。久々の充足感に胸が高鳴るのを感じた。


 触れただけの指先から、早鐘のような彼女の鼓動が聞こえてくる。まるで、身体の内部から助けてくれと赦しを請うように、彼女の鼓動が僕の手のひらを力強くノックする。思わず、僕は背筋をぶるっと震わせた。性行為に及んだ時よりも、強い快感がそこにあった。


「さっき、華が座ってたソファに座っていたんだ。ああ、解かるよ、全部知ってるよ。隣にさ、圭介が来てくれるんだよね。あそこは圭介の定位置だったから」


 ゆっくりゆっくり真綿で首を絞めるように、僕は手のひらに力を加えていった。喉奥から搾り出される濁音混じりの喘ぎを聞いて、自分の唇に綺麗な弧が描かれるのを感じた。僕はきっとこの瞬間、心の底から笑っていたに違いない。


「ねぇ、華。いつまで悲劇のヒロインぶれば気が済むの? 華だけ? 華だけが特別に不幸? ははっ、笑っちゃうよ。そっか、僕の哀しみは不幸じゃないのか。僕が大学で倒れている間、華は呑気に圭介の死んだ踏み切りまで行っちゃってたんだ」


 ぬるついた指先が、彼女の細い首筋から滑り落ちそうになる。彼女の汗と僕の汗が混ざり合って、蒸せ返るような生々しい匂いが立ち上がる。咄嗟に力を入れ直すと、彼女の唇から性行為を想わせるような艶混じりの甘い喘ぎが漏れた。汚らわしいものを見た時のように、僕は顔を歪めながら、舌打ちをひとつする。それは、初めてした舌打ちだった。


「圭介にも首絞めてセックスして欲しいって頼んだの? そうだとしたら、圭介がおかしくなったのは、全部華のせいだよ。僕は華が圭介に会う前から、彼を知ってるけど、華と付き合い始めてから、圭介は圭介じゃなくなった。悪いのは、全部華のせいだ」


 左手はそのままに、右手だけを離して、彼女の顎を潰すように抑えつけた。最初に殴った時の衝撃で鼻から流れ出した血液が、僕の右手を生温く侵した。彼女が発する言葉を塞いでしまいたかった。言い訳なんて、何も聞きたくなかった。真実なんて、何も知りたくなかった。


 つらそうに眉根を寄せながら、彼女の瞳の焦点が狂い出す。ゆっくりと口元を覆っていた手のひらを外すと、透明な唾液と深紅の血液が混ざり合って、きらきらと光の糸を引いた。涙の滲む彼女の両眼を見つめて、僕はそっと笑顔を零す。そして、僕はまた両手で彼女の首を絞め始めた。


 ローテーブルの上に置いてあるハムスターのケージのなかから、とさっと軽い音がした。田中さんが木の小屋から痩せ衰えた身体を震わせて出てきた。華の命が削られていく様を、田中さんは黒曜石のような瞳に映し出していた。こちらをうかがうように、じっと見つめていた。ずっとずっと、何も言わずに、僕等を見つめていた。


「ねぇ、華。本気で首を絞めてあげようか。やって欲しいんだよね」


 首を絞めていた両手を、僕は唐突に解放した。霞むように閉じかけていた彼女の瞳が、カッと見開かれる。不足した酸素を取り戻すため、彼女の喉が勢い良く動き始める。突き動かされるように咳き込んで、彼女は身体を芋虫のように丸めていた。全身を使って酸素を取り入れようとする様が余りに滑稽で、僕は笑い声をあげる。彼女の血と汗と唾液で汚れた手のひらを叩きながら、壊れたおもちゃのように笑っていた。


「ああ、ほら、遊びはおしまいにしようか」


 彼女の咳がおさまるのを待って、僕はもう一度彼女の首に手をかける。細い首から、速い鼓動と浅い呼吸が伝わってきた。これは、セックスの片手間にやる遊びじゃない。僕はこの時、確かな殺意を持って、彼女の首を絞めようとしていた。


「……もう、終わりにしたいんだ」


 僕が小さく呟いた言葉は、耳が痛くなるほどの沈黙へととけて消えていった。




評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ