第15話 素質
猛禽類を思い起こさせる鋭い視線が、私と館羽の間を往復する。
「いや、これは」
頭の整理よりも先に口が動いてしまったせいで、続く言葉が見つからない。この場で最も効果的な弁明を脳裏のタンスを空けて探すが、どの棚も空だった。
館羽から手を離すと、酸素を欲する激しい呼吸が教室に寂しく響く。嗚咽と咳混じりの息遣いは、なによりも鮮明に今の状況を示していた。
血が滲む耳に、私の手元にあるピアス。枢が唇を引き締めると、空気までもが洗練されたように張り詰める。
枢がこちらに一歩踏み出すたびに、心臓が跳ねた。
バレる。終わる。鼓動が一拍止まるような感覚を胸の奥に感じながら、どうにかして隠蔽しなくてはならないと、動かない身体とは違い思考はクリアになっていく。
人の意識を、認識を、なかったことにするにはその人を殺すしかない。罪人が、どうして次から次へ罪を重ねてしまうのか、なんとなく理解してしまう。
右手に力が入った。無意識だった。
「枢」
震えた声が、自分じゃないみたいだった。
そして恐ろしくなった。
もし、この右手に握られていたのがピアスではなく、ナイフの類いだったなら、私は今、何をしていたのだろう。
「いいえ、説明は後ね。浅海さんの処置が優先よ」
枢は私に背を向け、真っ先に耳を押さえて蹲る館羽に駆け寄った。
もし私が、簡単に人を殺せるような人間だったら、もうすでに殺されているかもしれないのに。枢は無警戒すぎる。
「浅海さん、今救急車呼ぶから」
いや、違う。枢は自分が陥っている危機よりも、館羽の救助を優先したのだ。枢のような人こそ、身を挺して誰かを守ることができるのだろう。
それこそが善良で、正義だ。なら、私は何者なんだ。
偽善でもない、形のない理屈と因縁に突き動かされている。
「ううん、いいの枢ちゃん。ありがとう」
館羽はまだ成形途中の笑みを浮かべて、スマホで救急車を呼ぼうとしている枢を止めた。
「でも、出血してるわ」
「もう止まったよ。ちょっとね、ピアスの取り方が分からなくて瑠莉ちゃんに手伝ってもらってたんだぁ。でも私が足を踏み外しちゃって、その拍子にちぎれちゃったの」
「ちぎれちゃったのって……」
「そうだよね、瑠莉ちゃん」
耳鳴りがひどい。鼻の奥で血のにおいがする。
頭痛と目眩に見舞われているはずなのに、目が大きく開いている自覚だけがある。彩度の低い意識の中で、思考はまだ、この場を乗り切る方法を必死に探している。
「うん、そうなんだ」
ホッとした。
安堵に零れるため息に、善意なんて輝かしいものは含まれていなかった。
あるのは確かな保身だけ。
館羽の目をシャーペンで刺してしまったとき、あのときも確か、こんなことばかり考えていた気がする。目から血を流す館羽の心配なんて一度もせず、ただ今後のことを危惧して冷や汗をかいていた。
変わったと、思っていた。
あの日の私とは違う、善良な人間になりたくて、私はここまで来たはずだ。
――そういうの……不可逆っていうんだよ。
変われない。
人は、人の本質は、何年経っても、いくらもがいても、変わることはない。
「だから心配しないで、枢ちゃん。保健室でガーゼもらってから、また戻るよ」
「浅海さんがいいのなら、いいのだけど。本当に、大丈夫なのね?」
「もう、大丈夫だってば。瑠莉ちゃんもごめんねっ、私がドジなばっかりに。ビックリしたよね?」
「え、あ……うん、ビックリした。館羽が、急に、足を踏み外して、転ぶ、ものだから」
館羽の笑い声に、カカカ、という声が混ざる。私の、笑い声だった。
枢は館羽を一瞥したあと、自分の席に向かい、カバンから水筒を取り出した。
「口を――」
難しい問題に顔をしかめるような表情で、枢が答えを探る。勉強ができない枢だけど、頭が悪いわけじゃないのを私は知っている。その明瞭な瞳の水晶には、どんな私が映っているのだろう。
仲の良いいつもの親友? それとも……。
「いえ、午後は応援合戦から始まるから遅れないようにね。体育祭委員なんだから」
「分かってるよ。もう行く」
私の声は、すでにいつもの調子を取り戻していた。平静を装おうのが、どうしてこんなに上手なのか自分でも分からない。
嘘は得意なほうではない。だけど、誤魔化し、自分の思考や性格、振る舞いを操るのには長けている。そんな人間をどんな言葉で揶揄するのだったか、カタカナで象られた単語がぱっと思いついたが、すぐに波にさらわれるように消えていった。
体育祭の閉会式が終わり、一斉にグラウンドに出していた椅子を片付け始める。
それが終わったら各自解散となり、クラスは打ち上げの話で盛り上がっていた。
「深山さんも来るよね! ていうか来て欲しい!」
「もちろん! あ、私いいカラオケボックス知ってるからそこ行こうよ! ちょー安いんだ!」
一度家に帰って、駅前で集合。そんな話をてきぱきと進めていく。計画を立てたり、準備をしたりするのは得意だ。いつもやっていたことだから。
私は中心人物で、グループを仕切るリーダー的存在。それは小学校の頃から変わらない。だからみんな頼りにしてくれて、何かあるたびに私に声をかけてくれた。
悩んでる子の相談にもよく乗ってあげた。口から出たのはでまかせなんかではなく、賞賛されるべき詭弁と美談ばかりだった。あの言葉は私が過去に犯した罪の裏返しだった。
考えは人それぞれ。好き嫌いはあるから。でも悪く言っちゃだめだよ。その悪意は必ず増大するから。だから歩み寄ろう。それでダメなら諦めて。うん、一番やっちゃいけないのは人を傷つけること。
「ねぇ、館羽」
打ち上げに向けてクラスメイトたちが一目散に帰宅する中、館羽が最後まで教室に一人残っていた。別にハブられたわけではないのだろう。ただ、誘うのを忘れられていただけだ。
「打ち上げ、行こ?」
「いいのかな。私、誘われなかったよ」
「みんなもう誘ったもんだと思ってただけだよ。館羽にも来て欲しいに決まってる」
人はこうあるべき。こう生きるべき。
そういう理想で形作られた私の声は、模造品のように地に落ちる。
「うんっ、ありがとう瑠莉ちゃん」
耳に巻いたガーゼが、うっすらと赤く滲んでいる。
「それ、早く取り替えたほうがいいよ」
「え?」
「血が、出てるから」
そのままにしたら、それどうしたの? って誰かに聞かれちゃうでしょ。
だからガーゼ、交換してよ。バレちゃうから。
目的のためなら、いくら遠回りしても構わない。時間をかけてたっていい。弱った子鹿の周りをぐるぐると回るハイエナのように、私はそのときをジッと待っていた。
そんな自分が、怖い。
時々、人格というか、思考が身体から切り離されて、まったく意図していない方向に舵を切るってしまうときがある。館羽のことを虐めていたときも、ずっとそうだった。
小学校から高校まで、いろんな人と出会ってきた。
人には相性があって、好きとか嫌いとか、人によってかなり別れるしそれによって亀裂が生まれることだってある。それはごくありふれた光景で、誰もが通る道だ。
だけど、気に入らないからって虐めて排除しようとするのは、ありふれた光景じゃない。みんな気に入らない子とも、苦手な子とも、我慢して接している。
私みたいなのは、ごく一部の人間。
虐める子、虐めない子。どうして別れてしまうのか。
それはきっと、人を傷つけてもなんとも思わない人間が、一定の確率で集団に紛れ込んでいるからなのだろう。そして私は、虐める子だった。
世で報道されている、誰かを傷つけ逮捕される罪人は、小さい頃はどっち側の人間だったのだろうか。統計を取ったら、簡単に分別できそうだ。
今日、枢に見つかったとき、私は右手に握った物で、人を殺傷する力を得るにはどうすればいいか考えていた。
乖離した別の私が、いずれ、大切な人を傷つけるのはでないか。
私はいつか……人を殺すのではないか。
だって私には、その素質がある。
考えると、目の奥がギュッと締め付けられるように痛かった。
「た、館羽っ!」
カバンを肩にかけて、帰宅しようとする館羽の腕を掴んだ。
館羽はきょとんと小首を傾げて、私の口元を覗き込む。
「どうしたの? 瑠莉ちゃん」
期待に満ちたその目は、これから起こることを想像して、充血している。
血が巡っていないのは、私が殺した、右目だけ。
そうだ、すでに殺してるじゃないか。
なら、もう無理なのだろうか。私がマトモな人間に戻るのは、不可能なのだろうか。
――罪を償う手伝いなら、してあげる。
枢の言葉が、自重を伴って私を押し潰そうとする。ひしゃげた倫理観が、真っ直ぐに、整列させられいくような感覚に、舌を噛みそうになった。
そうだよ、罪を償いたいんだよ。
変わりたいっていうのは、私のわがまま。自分を正当化したいだけで、それは館羽のことを何も考えてない。本当なら、自分のことを気にする前に、館羽に大丈夫? って駆け寄って手を差し出すべきだった。枢のように。
「もう、やめたい」
光輝いていた館羽の瞳が、泥を拭くんだように濁っていく。唇の隙間から、館羽が時々出す、低い声が漏れ出ていた。
「なんで?」
「このままじゃ、ダメな気がする。このままじゃ私……いつか、館羽を殺しちゃう」
太ももを刺して、首を絞めて、耳を引きちぎって。
じゃあ、その後は?
エスカレートしていく自分の所業に、疑問すら浮かばなくなっていたのも事実で、どこまでがセーフなのかの基準も、曖昧になっていた。
行き着く先なんて、考えるまでもない。私はいずれ、平気で館羽の首を裂いてしまうかもしれないのだ。
「だから、こういうのもう……やめよう」
「私がお願いしても、瑠莉ちゃんはやってくれないの?」
「館羽が、痛いの好きとか、思い出が欲しいとか、そういうのも、理解してるつもり。でもさ、思い出を作るなら、痛いの以外でも、いいじゃん」
「無理だよ。今更」
「無理じゃないよ、絶対。無理じゃない」
「じゃあ……いいの?」
館羽が意地の悪い笑みを浮かべる。その口元には、白い牙さえ見えていた気がした。
「瑠莉ちゃんのヒミツ、みんなに言っちゃうよ? 今日、せっかくバレずにすんだのに」
もう、これまでの関係には戻れないかもしれない。
私を見る目は、今まで変わってしまうかもしれない。
「そしたら瑠莉ちゃん、こうして打ち上げにも呼ばれなくなっちゃうかも。みんなの信頼を失って、侮蔑の目で見られながら生きて、学校生活をまともに遅れなくなって……また、あの神社に行ってアブに集られながらジッと一人で生きていくことになっちゃうよ?」
罪を償うって、きっと過去の罪を隠すことじゃない。
罪と向き合って、それを洗浄していくことだ。毎日毎日、タイルを擦るみたいに、こびり付いた汚れを落とすことでしか、私が潔白になる方法はない。
保身のことなんか考えるな。
疲れた、辛い。そんなの当たり前だ。
擦り続けるんだ。汚れが取れて、いずれ白く光ってくれることを信じて。
「いいよ」
私には、人を殺す素質がある。だから簡単に人を虐められる。苦痛に歪む顔を見ても、罪悪感は生まれない。そういう脳の構造をしているから。
「言っても、いいよ」
「……瑠莉ちゃんがこれまで一生懸命築いてきたものが、全部崩れちゃうんだよ? それでもいいの?」
私はきっと、テレビの中で、警察に取り押さえられて発狂している人たちと同じ種類の人間なんだろう。だけど、ああいう人の姿を見て、醜いと思ったのもまた事実だ。
あんな風には、絶対になりたくない。
「私はもう、館羽のこと傷つけない。痛いことも、苦しいことも、全部やめる。いくら館羽にお願いされても」
「そんなことしても、変われないよ。瑠莉ちゃん、ほら、見てよ。この右目。瑠莉ちゃんが潰したんだよ。瑠莉ちゃんが殺したんだよ。今更変わるなんて無理だよ瑠莉ちゃんはこういうことができる人なんだよこういうことをしてくれる人なんだよ瑠莉ちゃんじゃなきゃダメなんだよ」
私は首を横に振った。
「しない」
館羽の目が、波に打たれて波紋を生んだ。
水面に広がっていく困惑と切望に、胸が打たれそうになる。
「だから、好きにしていいよ。私のことも、全部言っていい」
人の苦痛に共鳴するのではなく、共感できる人間になりたい。
自分の苦悩や葛藤、それに準ずる怒りや破壊衝動を、制御できる人間になりたい。
変わりたい。
「過去も背負って、前に進むから」
人に散々聞かせてきた詭弁や綺麗事を、今度は呪いとして自分に振りかける。
館羽は失望を目の奥に覗かせながら、短く「そう」と言うと、私に背を向け廊下に消えていった。