アルセイン子爵(11)
翌朝、町に流れる空気は昨日とはわずかに違っていた。夜のあいだにしっかりと休めたのか、通りに集まった移民たちの顔には、ほんのわずかではあるが生気が戻っている。まだ不安げな目をしている者も多いが、昨日のような絶望の色は、少しだけ和らいでいた。
この様子なら、自立への第一歩を踏み出せるかもしれない。次の一団が到着する前に、できることを進めておきたい。私はみんなの前に立ち、優しい声で語りかけた。
「みなさん、長い旅路、本当にお疲れさまでした。今日から皆さんは、アルセイン領の立派な住民です。これからの生活は、私が責任を持って支えていきます。でも、私一人の力では限界があります。どうか、みなさんの力を貸してください」
その言葉に、移民たちはどこか戸惑った表情を浮かべた。長く厳しい日々を過ごしてきたからだろう。また何か重い負担を強いられるのではないか――そんな不安が、顔ににじんでいた。
けれど、自立の道は他人任せでは歩けない。本人たちの努力が必要だ。でも、不安に感じるのは無理もない。今はまだ、「何をどうすればいいのか」が分からないから、先の見えない不安に心を縛られているのだ。だからこそ、私は一つ一つ丁寧に伝える。
「まず、お願いしたいのは“食事の準備”です。芋を茹でたり、野菜や肉を切って鍋で煮込んだり。こういった作業を、教えを受けながら少しずつ覚えていってください。食べることは、生きることの基本です。その基本を、まず身につけましょう」
その言葉を聞いた瞬間、緊張していた人々の表情がふっと緩んだ。どうやら、もっと過酷な労働を命じられると想像していたらしい。食事の準備であれば自分にもできそうだと、ほっと胸を撫で下ろす姿も見えた。
しかし、安心している人ばかりではなかった。顔を伏せている者、戸惑いの表情を浮かべている者。中には頭を抱えるような仕草を見せる人もいる。きっと今まで、一度も食事の準備に関わったことがなかったのだろう。
未知のことに直面すれば、誰だって不安になる。「できなかったらどうしよう」「周囲に迷惑をかけるかもしれない」と、悪い想像ばかりが膨らんで、やる気を削いでしまう。
私がかつて暮らしていた集落にも、やる気を失っていた人がいた。けれど、思う。彼らは怠けていたわけじゃない。ただ、目の前の困難にどう向き合えばいいか、分からなかったのだ。何もかもが手探りの中で、足を止めてしまっていたのだ。
だからこそ私は、こういう時こそ支えになりたいと思う。一人ひとりの小さな一歩が、やがて自立への大きな力になる。そのために、今日という日があるのだ。
料理人たちが移民たちと一緒になって食事作りを開始した。
広場の一角に設けた仮設の炊事場では、料理人たちが準備に追われていた。大鍋に湯を沸かし、薪をくべて火の調整をしている。私もその様子を見ながら、ゆっくりと移民たちを導いた。
「じゃあ、みなさん。こちらで一緒にやってみましょう」
まだ不安そうな顔をしている人もいたけれど、誰かが一歩を踏み出すと、それにつられるように次々と前に出てきた。最初の作業は芋洗いだ。かごいっぱいに積まれた土付きの芋を、井戸水で洗ってもらう。
「ここ、指でこすってみてください。泥が残ってると、口に入れたときにジャリッてしますから」
そう言って実演すると、近くの少年が恐る恐る芋を手に取った。
「……こう、ですか?」
「うん、上手です。ほら、こうやって泡立ててゴシゴシ……そうそう、そうやって磨く感じで」
少年は真剣な目をして、夢中で芋を洗っていた。きっと、何かに集中するのが久しぶりなんだろう。そういう顔だった。
次は、野菜の下ごしらえ。包丁を前にして硬直している大人の男の人に、私はそっと声をかける。
「指、切らないように。手を丸めて切るんです」
「……こうですか?」
「そうです、上手ですね」
男の人は震える手でゆっくりと野菜を切っていく。たどたどしい手つきだけど、最初は誰でもこんなものだ。あとは回数をこなして慣れていくしかない。
私は調理場を回りながら、料理の準備をする人たちに次々と声をかけていった。最初は戸惑いや不安が滲んでいた表情も、やり方を少しずつ覚えるにつれて、ほんの少しだけど自信が顔に見え始めていた。
誰もが真剣な眼差しで食材と向き合い、包丁を使って丁寧に切り揃えていく。その姿には、もう怯えていた影はない。代わりに、これから自分の力で前に進もうとする、静かな覚悟のようなものが宿っていた。
芋を洗い終えると、次は鍋で煮込む工程へ移る。広場に並べられた大鍋のまわりには、興味津々といった様子の移民たちが集まり、料理人たちから火のつけ方や薪の扱い方を教わっていた。
それから調理へ。野菜を入れる順番やタイミング、火加減の調整――そういった基本的なことを、料理人たちは一つ一つ丁寧に伝えていく。難しい専門用語なんて使わず、誰にでもわかる言葉で、落ち着いた口調で。
移民たちも、真剣な表情で頷きながらその話を聞いていた。まだ慣れていないから、最初は実際の作業を料理人が見せながら、その手順を説明していく形だったけど、それでもその場にいた誰もが、ただ「見る」だけではなく、必死に「学ぼう」としていた。
「分からないからできない」のではなく、「分かれば、きっとできる」。そんな前向きな空気が、場の中に少しずつ広がっていくのを私は感じていた。
しばらくして、鍋からふわりと湯気が立ちのぼり、茹で上がった芋の甘い香りが鼻をくすぐった。スープもいい具合に煮込まれて、野菜と干し肉の旨味がしっかり溶け込んでいる。見ているだけで、思わずお腹が鳴りそうになる。
私は広場の中央に立って、少し声を張った。
「では、食事を配ります。列になって、順番に並んでください」
その言葉に、あちこちから「わぁ」と小さな声が漏れ、移民たちが自然と列を作って並び始めた。今朝もしっかりとした食事がとれる――その事実が、どれだけ嬉しいものか、彼らの表情を見ればすぐに分かる。
一杯一杯、手渡されるスープを受け取るたびに、誰もが本当に嬉しそうな顔をしていた。
大鍋の前に立ち、配膳を手伝いながら、私は一人ひとりに声をかけていく。
「熱いから気をつけてくださいね」
「おかわりもありますから、遠慮せずに」
受け取ったスープの湯気を嬉しそうに見つめる人もいれば、少し緊張した面持ちのまま、ぎこちなく礼を言って去っていく人もいた。
けれど、皆どこかほっとした顔をしていた。空腹を満たせることに加えて、自分たちの手で作ったという実感が、心に温かな明かりを灯しているのだろう。
食事を受け取った人たちは地面に腰を下ろし、慎重にスプーンを手に取った。そして――
「……うまい」
最初の一口を口にした初老の男の人が、ぽつりと漏らしたその言葉に、近くにいた人たちが思わず顔を向けた。次いで、あちこちから「ほんとだ」「思ってたより、ずっとうまいな」なんて声が広がっていく。
中には、スープを飲んだ瞬間に涙ぐんだ若い母親もいた。その隣で、まだ幼い子どもがにこにこと笑いながら芋を口に運んでいる。
私はその様子を少し離れたところから見守りながら、胸の奥がじんわりと熱くなるのを感じていた。
――よかった、本当によかった。
たった一杯のスープだけど、そこにはたくさんの「初めて」が詰まっている。自分の手で作ったという達成感、誰かと協力して成し遂げたという喜び、そして何より、「自分にもできた」という小さな誇り。
そのどれもが、これからの生活を支える土台になる。人は食べなければ生きていけないけれど、同じくらい「役に立てた」と思えることが、心を生かすんだと、私は思う。
私は空を見上げる。雲の隙間から陽の光が差し込んで、広場を優しく照らしていた。
ここからが始まり。今日のこの食事は、自立への最初の一歩だ。
誰かに与えられるだけではなく、自分の手で明日をつかむための、一歩。
まだ道のりは長いし、きっと苦しいこともある。でも、こんなふうに笑い合って、支え合って、少しずつでも前に進んでいけるなら、きっと大丈夫。
――この町で、人々がもう一度「生きる」ことを始められるように。
今回の更新はここまでです、お読みくださりありがとうございます。
この後の更新はこの続きを書くか、新しい話を書くか考えているところです。次、どんな話になるか、楽しみに待ってくだされば嬉しいです。
そろそろ、書籍作業が入ってきそうなので、次の更新は作業がなければ八月、あれば九月頃になります。どうぞ、よろしくお願いします。
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