雨垂れ
天から降り注ぐ銀色の雫が僕と彼女だったものを穿っていく。
まるで、僕たち人間の罪を裁くように世界を穿ち削っていく。彼女の笑顔や細かな仕草の記憶まで削り、すり減らしていく。
だんだんと、僕の抱えている物体がぬるくなって外の世界と同じ温度に変わっていく。彼女の存在の名残が世界から消えていく。
遂に彼女の存在は消えてしまったのだ。僕の腕のなかには冷たくなったナニかだけが残った。それが彼女の喪失という事象をより強く僕に認識させる。
空っぽの、伽藍とした僕の心を悲しみとは違う感情が満たしていく。この感情は何なのだろうか。憎悪、復讐心、喪失感、きっとそのどれとも言い切れない、様々な感情のない交ぜになった何かによって僕は真っ黒に塗りつぶされていく。
半開きになった口から虚ろな言葉が溢れる。ありきたりな、なんの意味もないはずの言葉をすがるように僕は口にする。
「待って」
分かっている。それを言ったところで目の前の現実が変わるわけではない。でも言わずには居られなかった。
真っ黒に塗り潰された心で温かい妄想をする。
僕の言葉で彼女が再び動き出す。破壊された彼女の輪郭はいつの間にか僕の見慣れた姿に戻っている。彼女がこちらに歩いてくる。嗚呼なんて彼女は美しいのだろうか。彼女を構成する一つ一つの要素が拍動し躍動感に満ちている。
そんなささやかな願いを僕が抱くことさえこの世界は許してくれないようだ。
降り注ぐ雫が僕の心まで冷たくしていく。妄想から覚め、眼前の現実を許容せよと僕に脅迫的に呼び掛けてくる。
僕はもう、現実に引き戻されてしまった。あの美しい世界を見ることは二度と許されないのだ。
眼球を雨とは違う何かが滑り落ちていく。それは、冷たく冷えきった世界で唯一の温かい物体だった。しかし、それもすぐに冷たく塗りつぶされていく。
僕は彼女の体がその温もりを取り戻してはくれないかと、温かな液体を惜しみ無く落としていく。
口からは、無情な世界を呪う不愉快な音が大量に溢れていた。しかし、その呪いさえも銀の雫が地面に叩きつけられる音によって掻き消されていく。
どこからともなくショパンの雨垂れが聞こえてくる。音の源を探すように視線を動かす。彼女の隣に落ちている僕の携帯電話で視線が止まる。
目に何かが飛び込んできた。たまらず僕は瞬きをする。
目を開くと、そこにはいつもの天井がある。
窓の外では大雨が降っている。雫が屋根と窓を叩き、僕を引きずり出そうとしてくる。
僕はふらふらと外に出る。世界が僕の身を削り尽くさんと、強烈に穿ち抉ってくる。
夢に出てきた彼女の面影を探して、僕は町を歩いて行く。